坂本龍馬を暗殺した理由や犯人黒幕は誰なのか?名言と生い立ちも

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坂本龍馬アイキャッチー

明治維新の立役者としてその名を知られる日本人の
ヒーロ的存在で今だに語り継がれる坂本龍馬。

龍馬暗殺から今年で149年たった今何故龍馬を
暗殺する必要があったのか?理由や犯人像に黒幕
の謎に名言など生い立ちから追ってみよう。




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坂本龍馬プロフィール

坂本龍馬(さかもと りょうま)
生年月日 天保6年11月15日〈新暦・1836年1月3日〉
出身地  土佐藩 高知県
没年   1867年12月10日(享年31歳)
活動: 尊皇攘夷、倒幕運動
藩: 土佐藩(高知県)
所属: 海援隊

坂本龍馬の生い立ち~

父の八平と母の幸との間に坂本家の次男として誕生した
龍馬は他に3人の姉(千鶴、栄、乙女)の5人兄妹の
末っ子として誕生する。

生家は質屋、酒造業、呉服商を営む豪商才谷屋の分家で
当時の土佐藩の武士階級には上士と下士があり、商家出身の
坂本家は下士(郷士)ではあったが、才谷屋の分家であった
坂本家はかなり裕福だったと言われている。

そんな中の次男の末っ子として誕生する龍馬を出産の時
母の幸は龍が天を飛ぶ夢を見たとされ、そこから名前の
龍馬を付けられたと言われている。
生い立ち
出典:http://pinky-media.jp/I0005868

誕生時から背中には黒々とした一塊の怪毛が生えていた
龍馬だが幼少期から12,13歳頃まで長らく寝小便癖があり
臆病者、愚か者と罵られ、当時楠山塾に入塾するも協調性の
無さから、いじめに合い抜刀騒ぎを起こしたとして退塾させ
られている。

母の幸は龍馬10歳の時病死しており、その後は後妻と
なった義理母の伊与や、姉の中でも一番気が合い脱藩後の
手紙のやり取りの多さでも知られる3歳年上の姉乙女
龍馬の教育係として剣術、馬術など全てにおいて教育を
施したとされる。

彼の人格形成に大きく関係したとされる乙女はその容貌も
当時の女性としてはかなり大柄で175㎝を超える大女
として記録が残っており、兄妹仲もとても良く身心共に弟
の龍馬を可愛がったと言う。

それと義理母ではあったものの、伊与の前夫の実家の下田屋
に姉の乙女と良く通い、そこで見聞きした長崎や下関の外交の
話や当時は今と比較にならないほど珍しかった輸入品の数々を
見た事も彼に、その後の脱藩(違う国)位に出るくらいのとんでも
ない謀反を犯した事。

17歳で剣術修業を名目に1年間の江戸遊学をかねた
龍馬は北辰一刀流の桶町千葉道場に門人となるもその直後
ペリー(黒船来航)を目の当たりにする事になる。

この時期の龍馬は軍学家・思想家である佐久間象山
ジョン万次郎や『漂巽記略』を編んだ絵師・河田小龍
との出会いから国際情勢や海運などの必要性を学び同時に
砲術とオランダ語も学んでいる。

良く考えたら160年以上前のオランダ語・・・

いかに龍馬が好奇心旺盛で食べる事で精一杯の身分制度の
厳しい時代に、既に世界へと目が向いている龍馬。




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坂本龍馬暗殺した理由

1961年(文久元)年、土佐勤王党に入党、翌年脱藩。
勝海舟の門人となり「海運隊」の一員となる。

海軍操練所の設立と運営にも奔走しながら1965年には
(慶応元)年、長崎に亀山社中を立ち上げる。
暗殺
出典:http://www.symphonic-net.com/sarapore11/ryoma/photo.html

時代の大きな変換機を肌で感じる龍馬は300年続いた
江戸幕府の諸藩をまとめる力の減退と鎖国の続いた幕府に
外国とのまともな外交力がない事を読み取り江戸幕府を倒す
平和的に解決する策を講じた人物だ。

その為の対抗勢力として当時まで敵対同時だった薩摩と
長州とをまとめ上げ、たった一人の土佐から脱藩した浪人
だった坂本龍馬立ち合いの上で1866(慶応2)年、薩長同盟
が結ばれる。

その上で武力で幕府を倒そうとする薩長を大政奉還
いう誰もが思い付かなかった奇策として提案。

徳川慶喜を説得させ、薩長も納得させた龍馬は
新しい新政府の進むべく道として船中八策を作成。

断腸の思いの中何とか徳川慶喜を説得させ、薩長を
まとめた龍馬だがまだまだ会津や桑名藩が反旗を
翻す可能性が十分あるなか一刻を争う中作られた
船中八策の8カ条の役職に坂本龍馬のその名は無かった。

一番の立役者であるはずの坂本の名がないのに・・・

しかも当時の薩長で倒幕ばかりを考えており、新政府の
形など誰も思いもよらなかっただろう中、龍馬は政体案
の役職名簿まで作って西郷や大久保らに見せに走ったと
言う。

革命の一番の功労者である坂本龍馬のその名を
入れずして堂々この大人物らにその名簿を見せた
龍馬。

この時の西郷隆盛や大久保利通らの呆気に
取られた顔と、名が無い事を聞かれた龍馬。
犯人
出典:http://minkara.carview.co.jp/userid/451489/blog/13503662/

理由を西郷隆盛に聞かれた時の事を、その場にいた
後に名外務大臣となった陸奥宗光が後年一時一句生涯
忘れられない情景となり、何度も何度も人に語ったと
言う。

西郷
「土佐から出るべきおまんさぁ~の名が落ちちょります。」

龍馬
『わしゃ~でらん。』

西郷
「なぜでごわす?」

龍馬
『窮屈な役人になるがわ性に合わん』

西郷
「役人が嫌なら、坂本さぁ~なんばやられもす?」

龍馬
『そうさなぁ~世界の海援隊でもやります回のう』

あまりの龍馬の潔さにあっけにとらる西郷らのその時の
情景を陸奥宗光となった人物は、最後に必ずこう言った。

暗殺
出典:http://jdjapan.blog.fc2.com/blog-date-201604.html
陸奥
『あの時の坂本龍馬は西郷より一枚も二枚も大人物に見えた』と・・・
出典:お~い竜馬

坂本龍馬暗殺した犯人と黒幕

学術的には既に現在この龍馬暗殺は京都見回り組
い言われているが、彼を敵対視する人物は龍馬
が思うよりたくさんいた。

幕末最大のミステリーと言われる龍馬暗殺説
関しては京都見廻組説、新撰組説、薩摩藩説、紀州藩説
土佐藩説
だ。

大政奉還が成立して不都合だった人間は上に挙げた人間
の中全てといっても過言では無かった。

それゆえ、それらの大人物をとりまとめ東へ西へと
奔走して取りまとめた龍馬を面白く思ってない人間は
どちらかと言うと楽観的な龍馬の想いとは裏腹に沢山
いたと充分に考えられる。

その上で現段階で一番の犯人説となっている京都見回り組
は、慶応2年(1866年)1月の寺田屋における捕り方射殺で2人
を殺害してしまい、お尋ね者でもあった事。

ちなみに、大政奉還を推進した事で佐幕強行派
(会津・桑名・幕臣)からも相当な恨みを持たれて
いたと考えて想像出来る事。

犯人
出典:matome.naver

1867(慶応3)年11月15日、龍馬は中岡慎太郎と
近江屋の二階で刺客の急襲に合い享年31歳に亡くなる。

この刺客に襲われた時、額を大きく切られて脳が飛び散った
状態だった龍馬とは対照的に傷だらけでありながら瀕死の
状態で2日間生き延びた中岡慎太郎。

大きく一文字に額を切られた龍馬は今わの際で慎太郎に

『わしゃ~脳をやられちょる、もういけん』

そう言い残し息絶えたと、慎太郎本人が語って亡くなっている。

坂本龍馬名言

こちらに関しては幕末の風雲児と言われ筆マメでも
知られる龍馬は数々今でも直筆の手紙が残っている
ので、勝手ながら、個人的に好きなものだけご紹介
します。

世の中の人は何とも言わば言え、我がなすことは我のみぞ知る。

今一度日本を洗濯致し候 

なんの浮世は三文五厘よ。ぶんと屁の鳴るほどやってみよ。

何でも思い切ってやってみることですよ。どっちに転んだって人間、
野辺の石ころ同様、骨となって一生を終えるのだから。





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おわりに

志半ばで31歳でこの世を去った坂本龍馬の脱藩からの大奔走と人間的魅力に龍馬の懐の深さが現代の私達が振り返っても150年前の過去を生きた人物とは思えない龍馬の短くも激しい生涯。もし龍馬が生きていたら~と思わずにいられない日本人のヒーロー坂本龍馬の当時の夢とロマンは現代人にも通じる所があるのが不思議です。龍馬がいたからこその今の日本と、もっと生きてくれていたら~と想像しずにはいられない龍馬の不思議な魅力を妄想しながら歴史を動かした男、龍馬は誰の心にも永遠に残っていくでしょう。

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