徳川家康の性格を表すエピソード!古だぬき男が天下を取れた理由

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徳川家康アイキャッチ

260年もの長きに渡る徳川幕府の礎を作り
長らく続いた戦国時代を終わらせた徳川家康。

誰もが知る徳川家康の性格やそれを表すエピソード
など、悪賢い意味で古だぬきと呼ばれた家康が
天下を取った理由をお伝えします。

時の権力者として語られる織田信長や豊臣秀吉
らと徳川家康の違いは何だったのか当時の歴史
からエピソードなどから読み取ってみようと思います。

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徳川家康の性格とは

性格
日本の戦国武将として名高い徳川家康は、
「鳴かぬなら、鳴くまで待とうホトトギス」
みえるようにじっくり好機を伺う、したたかな人の
イメージがあります。

それ以外にも家康にはちょっと意外な性格や
当時の戦国武将にはあり得ない一面が数々あった
と言われています。

徳川家康の性格としてよく挙げられるのが
「鳴くまで待とう」の一句から見える忍耐強い
性格だと言われています。

幼年期は人質として自由でない我慢の生活を
送っており、秀吉の元でも従順な家臣として仕え
忍耐を重ね続けた結果、天下統一を果たします。

長年待ち続け秀吉に後を託され、将軍となった家康を
古だぬきと皮肉って呼ばれたことはよく知られています。

ところが、実際の徳川家康はすぐ癇癪を起こす短気な
性格
であったとも言われています。

また大変な健康指向であったと言われ、彼自身当時
としては長寿の75歳まで生きたことも関係しているのかも
しれません。

そして華美を好まず生涯を倹約家であったことも
伝わっており、着物も同じものばかり着るほど
だったといいます。

徳川家康を象徴するエピソード

当時の徳川家康の性格(短気、健康指向、倹約)
を象徴するエピソードがいくつか残っており、面白く
眺めることができます。

家康は幼年期の人質生活で気に障ることがあると
怒って年下の臣下を縁側から突き落としたことが
あったそうです。

合戦においても、戦況不利な展開になると激高し馬の
鞍をこぶしで叩いたり、軍配うちわや爪を噛んだり
していたといい、特にうちわは歯型だらけであった
そうです。

武田信玄に負けた戦いの「三方ヶ原の戦い」では命
からがら逃げる途中では馬上での、おもらしをした
エピソードまで残されています。

戦国武将たるもの「おもらし」とは何とも情けなく
男らしさに欠けるエピソードではないでしょうか。

麦飯(繊維、カルシウムが多い)と三河味噌(大豆100%)
の食事が基本で健康食を心がけており、薬を自分で調剤
するほどの薬マニアであったといいます。

信長49歳、秀吉63歳の寿命をはるかにしのぐ長寿で
あったのもこれらの成果かもしれません。

漢方薬のようなものに興味があり、手軽に携帯できるよう
根付(キーホルダー)まで発案したというからすごいですね。。

着物をあまり変えないので洗濯係の女中が意見したところ、
これは倹約だと叱ったり、いつも汚れの目立たない浅黄色の
下着をつけていたといわれています。

お膳に白米を出した家臣に、戦国の時代に苦労して働く
百姓に貧しい思いをさせているのに、自分だけ白米を
食べるのは忍びないと断ったともいいます。

辛抱深いと言われる徳川家康とは一味違う、裏の
人間味のあふれるエピソードのように感じます。

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徳川家康が古だぬきと言われた理由

天下

織田信長や豊臣秀吉のような名だたる武将のような
激しいイメージがなく、衝突を避け側で大人しく
控えながら策を練り最善の道をとるという家康に
ついたのが古だぬき男のネーミングでした。

古だぬきでも天下を取れたのは、無駄に必死の戦いを
繰り返すのではなく、側近としての信頼を得れば穏便に
天下統一をものにできるという合理的思考を持っていた事。

秀吉らの前では実際の短気な性格と裏腹に忍耐を
押し通すといった我慢ができ、人から反感をかうことも
なかったからといえるでしょう。

周囲を見渡し、自身にとって一番よい方法をみつける
洞察力はこの戦国の世において自然に養われたものとも
いえます。

ただ長きに渡る戦国時代を終了させた徳川家康と
同じ戦国時代を英雄として語られる織田信長や
豊臣秀吉との大きな違いは戦国武将の美徳とされた
潔さや男らしさが、その過去のエピソードからほぼ
無い人物であること。

そして、もう一つの家康の要素はよくも悪くも
変わり身が早い男でも知られています。

戦国時代を目前とした戦国武将豊臣秀吉が権力者
として頂点を極めていた時、その座を狙うも、秀吉
には適わないと判断するや否や戦うどころかすぐさま
屈服しプライドや男の意地たるものに拘らず全ていいなり
で関東への転封も即効受け入れます。

それは時をさかのぼっても同じで、三河時代に今川義元
に従属していた時でさえ「桶狭間の戦い」で信長が義元を
破ると、さっさと義元に見切りを付け信長と同盟を結ぶ。

信長が「本能寺の変」で敗れると豊臣秀吉に付く。

豊臣秀吉が病で倒れると、その時をチャンスとばなりに
「大坂の陣」で豊臣家を破り自身が天下の座に収まります。

このような、こっちが甘いとこっち、こちらが甘いと
こちらというように自身の信念や同盟を結んだ相手との
義理人情など一切関係なしで、ズバズバと切り捨てて
乗り換え権力の頂点へと成り上がった家康。

当然力で天下を取ってきた信長や身分の低い百姓から
裸一貫で戦国武将へと下克上した豊臣秀吉らとは
家康は本質的に違う生き方であり最後の戦国武将
なのです。

この変わり身の早さと腹の読めない家康の行動
「古だぬき」と言われても仕方が無いあだ名
だったのも無理が無いのかもしれません。

ようするに表面的に家康が誰の前でどんな態度を
取っていても自分の生き残りの為には他人を欺いて
も身を翻し天下を取るためにいとも簡単に仲間だと
約束した人物を裏切ってきたかと言う事。

そして時に必要とあらば自分の息子を殺害した人物
でも重臣として起用したり~と、その家康の行って
きた政治は、およそ信長や秀吉とは全く違う方法の
手法で人の心を掴み政治の世界を牛耳ってきました。

そうした生き様こそが周囲に「古だぬき」
言われた家康の自分至上主義な性格だったの
かもしれません。

でもだからこそ誰もが成し遂げられなかった
天下を取り江戸幕府260年の礎を作ったのだ
と思うと尚更、そうした狡猾な生き方あってこそ
だったのか~と思えて仕方ありませんね。

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おわりに

江戸幕府を開き長く太平の世を築き上げた徳川家康の性格は、忍耐深いと言われていますが実際は短気で健康指向が強く倹約家という性格を表すエピソードが多くありました。
長く待ってから最後に政権を握ったことでずる賢い古だぬきと言われましたが、その合理的思考と忍耐力で天下を取ることに成功しました。
従順さを貫いた家康ですが、人間的な表情のみえる数々のエピソードに遠い歴史の人物を間近に感じさせる面白さがあります。
徳川家康の驕り高ぶらず、質素で弱き人々の存在を忘れない姿は、きっと将軍にふさわしい資質であったといえるでしょう。


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