
今やご意見番としてもタレントとしても活躍して
お茶の間での楽しませてくれるデヴィ夫人。
彼女の生い立ちもまた壮絶な若い頃の過去を
乗り越えて今があるといえる。
母の死と弟の自殺を乗り越えて彼女の過去を
追ってみよう。
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デヴィ夫人プロフィール
ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ
日本名 根本七保子(ねもと なほこ)
生年月日 1940年2月6日(76歳)
出身地 東京都港区西麻布
デヴィ夫人の生い立ち~
現在でいう港区西麻布生まれのデヴィ夫人の
家庭は父の兵七郎と母政子との間に誕生し、
弟、八曾男さんとの4人家庭だった。
父は大工を営んでいたが多額の借金があり幼少期
はとても裕福とは言えない家庭環境だった。
年代的に太平洋戦争も経験している彼女は戦時中は
母と弟と一緒に福島へと疎開していた。
15歳当時から(昭和30年)に映画
『青ヶ島の子供たち 女教師の記録』などでエキストラ
として出演しアルバイトを始める。
翌年高校に進学するも父親が亡くなった事で高校を
中退、家計を支える為に16歳で赤坂の高級クラブ
「コパカバーナ」に働き始める。
出典:http://itsugarmania.tumblr.com/post/27983077873
1959年19歳で当時のスカルノ大統領が、訪日中に
見初められラブレターなどでやり取りした後に
1962年第三夫人としてインドネシアに渡ります。
当時の年齢差39歳だったそうです。
しかもインドネシアは一夫多妻制・・・
39歳年の差ってインパクト大です。
だがその幸せもつかの間1965年にはインドネシア内
でクーデターとなり大統領は失脚。
デヴィ夫人の母の死
彼女最大の後悔はこのインドネシア大統領との熱愛が
報じられた当時の日本でも大騒ぎとなりました。
連日マスコミに追いかけられた母は慣れない心労で
倒れてしまうのです。
出典:https://laughy.jp/1426010926864183609
危篤の知らせで慌てて日本に帰国したデヴィ夫人ですが
願い叶わず40日後に母親の政子さんは亡くなったそうです。
お恐らくデヴィ夫人が当時19歳~20歳なので母親の政子
さんも相当若かったと思うのですが・・・
彼女は2人兄妹の長女ですし、そう考えても時代背景から
してもどんなに遅い時の出産でも50歳前位じゃないかな~と
思うと物凄い早死にです。
相当なマスコミの数だったのでしょうね・・・
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デヴィ夫人の弟の自殺
そして悲劇は母親だけでなく弟の八曾男さんにも
起きるのです。
母の死からたった2日後当時友人に騙された借金を
抱えた弟は、母の後を追うようにガス自殺されたそうです。
誰にも相談せずに。
姉のデヴィ夫人にさえ心配かけるのを嫌い黙っていたそうです。
この事を悔いて彼女はインドネシアに帰国後宮殿に「やそお」
と名前を付けたそうです。
悲しい。
大統領に見初められただけじゃなくその後の悲劇を乗り越えて
今のデヴィ夫人があるのですね。
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