伝説

パブロピカソの生い立ち~絵の変化の訳!女を踏み台にした男の最期

ピカソ 伝説

生涯で14万点以上の優れた作品を残し、ギネス
記録にも認定される多作作家でその革新的な
美術技法「キュビズム」の創始者として有名な
パブロピカソ。

誰もが知る偉大な芸術家パブロピカソですが、
彼の生い立ちや女性遍歴などが彼の優れた作品に
大きく関わっていることは興味深く話題を呼んでいます。

パブロピカソの生い立ちや絵の変化の訳、交際した
女性を踏み台にした男と言われるピカソの最後に
ついてお伝えします。

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パブロピカソの生い立ち~

パブロピカソはスペインの最南端アンダルシア
地方の港町マラガで生まれ、美術教師の父を持ち
11人の子供の長男として生まれました。

見た目は母親マリア似で体系的には163㎝と小柄な
ピカソは非ヨーロッパ的だったそうです。

父親ホセの系統はスペインの南北地方がルーツで
母親がイタリアとも言われるピカソはスパニッシュと
イタリアが混ざる複雑な血統に生まれます。

ピカソが両親の間に誕生した時、産声をあげない
様子から助産婦が死産です、と間違えた逸話が
あるそうです。

母マリアは初産だった事もあり、かなりの難産で
誕生と共に普通は泣き叫ぶ赤ん坊が泣かない状態
から「死産」です。と判断されたとか。

ただ、その後マリアの叔父がピカソの顔に
葉巻の煙を吹きかけたとこ反応し、泣き出した。

この誕生のエピソードはピカソ自身母のマリア
から何度も言い伝えられたそうです。

ピカソの生い立ち~父を驚愕させた少年時代

数々の作品を91年の生涯で残したピカソですが
その絵の技術の大半を美術学校の講師だった父
ホセと独学で学んだ技法だと言われています。

美術教師として働く傍ら自らも絵を描いていた
父親はピカソが幼少の時に何となく書いていた
鳩の絵を見て驚愕。

ピカソに全ての絵の道具を譲り自分は描く事を
やめたと言われる程ピカソの絵は幼少期から
際立っていたようです。

その後、父親の指導の元絵を習い、11歳でコルー
ニャの絵の学校に入学。

16歳ではマドリードの王立美術アカデミーに
優れた成績で合格します。

そのあまりの才能のため本人曰く学ぶべきことが
何もなかったそうで、美術館で有名な絵を見る方が
勉強になったといいます。

芸術を極めるために友人の画家とパリへ向かい、
小さなギャラリーで個展を開くなどし25歳で大作
「アヴィニョンの娘たち」など後世に多大な影響を
与える作品を作っていきます。

オルガという女性と初めての結婚もし、他にも
たくさんの若い愛人を持ったことでも有名です。

芸術の都パリで華やかな世界に疲れきった
パブロピカソは精神的に病み、療養しながらの
創作活動でしたが様々な描写を試み多作作家と
いわれるほど多くのジャンルに取り組みました。

2人目の妻ジャクリーヌと2度目の結婚をし
ピカソは充実した制作活動にのぞみますが
91歳自宅でなくなっています。

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パブロピカソの父親は反面教師?

冒頭でも紹介しましたが、パブロピカソは
子供の頃から絵の天才と呼ばれ、父親・ホセ
美術教師だったこともあり幼い頃からたくさんの
絵画を見て育ち描くことも好きだったといいます。

ホセはピカソが幼少の時から厳しくデッサン
教育をしたそうで少年時代の彼の画力を支えた
といってよいでしょう。

15歳で書き上げたと言われる「科学と慈愛」という絵
(ピカソ美術館)も大作で、マドリード開催の国展で
佳作に選ばれるなどし既に稀有な能力があったことが
伝わっています。

ピカソが13歳の時描いた鳩の描写力に驚いたホセは
自らの筆を折ったというエピソードは有名です。

父の教育と独学で絵を勉強したのには驚きますね。

アカデミーを出てパブロピカソはさらに新しい
可能性を探しながら、19歳で1900年親友カザジェマスと
共に芸術の都パリに活動拠点を移すことになります。

パブロピカソの絵の変化

多作作家と言われるほど生涯多くの名作を
残したパブロピカソ。

彼は彼の生きた時代の中で絵のスタイル
をどんどん変化させていることでも有名です。

親友カザジェマスが失恋し自殺をしたことに強い
衝撃を受け「青の時代」と言われる孤独で不安定な
精神状態の時期がありました。

その頃は作品も青色ばかりで暗い感じのものが
多かったと言われています。

そして22歳でパリに定住することを決めた
パブロピカソにもやがて恋人ができ心の安定を
得て明るい色彩の作品が生み出された
「バラ色の時代」がやってきます。

描いた作品が売れ出し生活も安定してきた
1907年は代表作として名高い「アヴィニョンの娘たち」
を完成させます。

ゲニウム
革新的でそれまでとは違う大胆な手法による
この作は後に大きな影響を与える絵画様式の
「キュビズム」の最初の作となります。
(上絵)

キュビズムは目に見えるものを、そのまま
描くのではなく幾何学的な形としてとらえるもので
平面での立体感は独特の作品を生みました。

当時の芸術家には直ぐにこの技法を認められず
「ピカソは頭がおかしくなった」と当初
言われたそうです。

技法の改革を続け硬質な輪郭線による写実的
作品が多く作られていき、妻オルガとの結婚も
した中で「新古典主義の時代」を迎えます。

ピカソは1928年頃から既存の形態脱却を図り、
グロテスクに変形させた人体を描写するなど、
今日の我々の知る彼のイメージ作品が量産
されています。

パブロピカソの女性遍歴と絵の変化

パブロピカソの女性遍歴は数多く7人もの
女性の名があがり、結婚は2回していることも
よく知られています。

ピカソは絵のモデルとして出会った若く美しい
女性たちと恋愛関係になり、それぞれの女性たち
から創作インスピレーションを得て作品に取り入れます。

また非情な面もあり女性に飽きるとその画風をも
捨て新しい作風を生み出しており絵の変化の著しい
作家でした。

ピンクやオレンジの明るい色彩の作品を描いた
「バラの時代」は恋もし、「アヴィニョンの娘たち」
のような大作にも革新的なキュビズムの技法を
披露しています。

ピカソは初の結婚をオルガという女性とし、息子
パウロを授かりながらも他の女性たちとの交際も
多く自由奔放。

またそれぞれの女性に翻弄され複雑な心境が
作品に投影されます。

57歳で反戦を掲げた絵画「ゲルニカ」を生み出し
ましたが、モノクロで怒りや悲しみ、苦しむ人々や
動物を描く難解な作品といわれています。

女性たちや当時の社会などに敏感であった
パブロピカソの横顔を垣間見ることができます。

ある人がピカソと言う画家としての作風について
こう語っています。

「ピカソは新しい愛人ができるたびに新しい芸術スタイルを発明した」

「作品は広大なピカソ自身の自伝である」

こう言わしめる程、91年の生涯に残した5万点とも
言われる膨大な作品に年代ごとのピカソのその時々の
人生そのものが彩られているのでしょう。

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パブロピカソの最期は独りだった

91歳とも92歳とも言われるピカソの死は1973年
4月8日
に長寿を全うします。

パブロピカソの死因は「急性肺水腫」で、肺胞に
水がたまり呼吸困難になる病気でした。

献身的に彼を支えてきた当時の2人目の妻ジャクリーヌが
呼吸に苦しむピカソを発見し、医者を呼びましたが
助からなかったといいます。

晩年のピカソは南フランスにある2つのアトリエを
行き来しており、90歳を超えてもなお150点もの
連作を世に出しパリの画廊で展示されその力は
衰えを見せませんでした。

パブロピカソは亡くなる半年前からアトリエに
こもり制作活動に没頭していたとされ、その最期は
独りであったわけですが死ぬまで創作に生きた
芸術家だったといえます。

おわりに

世界を代表する芸術家パブロピカソの生い立ちを見ると、彼の才能は父親から美術の手ほどきを受けて育ったものであり、パリに移住してからは自身の精神状態を映しながら様々な絵のスタイルを確立させ、たくさんの女性遍歴も彼の技法をつくる土台となっていたことがわかります。
ピカソは最後は独りでアトリエにて倒れ亡くなっていますが、91歳という高齢で死ぬ間際まで黙々と芸術作品を生み出し情熱を傾けた彼に後世高い評価がなされたのでした。
一つのやり方に固執しないで、感じたまま気のむくままのパブロピカソの柔軟な生き方が大作に表現されており、困難な時代をも冷静に見つめ挑戦し続けた彼の姿が見直されています。


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