天才ピアニスト、フジコヘミングが一躍
有名となった演奏「ラ・カンパネラ」は
切ない情景と彼女の生き様が目に浮かぶよう
音色で、多くの人が涙を流しました。
誰にも真似できないと言われる程に、個性的で
感情のこもった音色には悲しい過去も見えてきます。
聴力を失いながらも「魂のピアニスト」と呼ばれ
80歳を超えても現役で活躍中のフジコヘミングの
生い立ちを調べてみました。
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フジコヘミングの生い立ち~無国籍のハーフとして
本名は、ゲオルギー=ヘミング・イングリッド・フジコ。
日本名は大月フジ(おおつきフジ)といいます。
1932年にドイツ国ベルリンにて生まれます。
父親は、ロシア系スウェーデン人で建築家
画家で、母親は日本人でピアニストの大月投網子。
幼少期に家族で日本に移住しましたが、父は
日本の生活に馴染めず家族を残しスウェーデンに
帰国してしまいます。
そのまま東京でピアニストの母の元、弟も
一緒に5歳からピアノをはじめます。
10歳からは、父の友人であり、ドイツで母が
ピアノを師事したロシア生まれのピアニスト
レオニード・クロイツァーに師事します。
小学3年生の時にはラジオに生出演し、天才少女と
騒がれる程の腕前でした。
終戦後は青山学院高等部、東京音楽学校と
進学していますが、高等部在学中には17歳で
デビューコンサートを果たします。
東京音楽学校にいた1953年には、新人音楽家の
登竜門である、第22回NHK毎日コンクールでも入選
さらに文化放送音楽賞など、多数の賞を受賞しています。
卒業後は本格的な音楽活動に勤しみ、日本フィル
ハーモニー交響楽団など多数のオーケストラと
共演を重ねていきます。
かねてよりピアノ留学を望んでいたフジコヘミングですが
パスポート申請時に無国籍であったことが発覚します。
元々は父親の祖国スウェーデンの国籍を
持っていましたが、一度もスウェーデンで
住んだことがないという理由で抹消されて
いたようです。
日本国籍取得を役所に交渉したものの
受け入れられず、留学の機会を伺いながら
ピアニストとして音楽活動を行っていました。
1961年に駐日ドイツ大使の助力により、赤十字に
認定された難民としてようやくベルリン芸術大学へ
留学を果たしました。
フジコヘミング生い立ち~ピアニストの母の英才教育
幼い頃からその才能を発揮していた
フジコヘミングですが、母親の音楽指導は
相当厳しかったようです。
うちは母親がとても厳しくて、子供の頃に
ピアノを弾いて間違えるとヒステリックに
怒鳴られたの。おまえはバカだ、ダメだ、と。
そのうえ、難しい曲や、つまらない曲ばかり
弾かされていたから、40歳くらいになるまでは
全然ピアノに興味が湧かなかった。聴くのは好きだったけれど。絵や
デザインのほうが好きでした。
と、当時のことを語っています。
2時間程のレッスンが日に何度も繰り返され
大人と同様の内容でとにかく彼女の母親の
ピアノ指導はスパルタだったようです。
外で遊ぶのも許されず、トイレもろくに行けず
引っ張り出される……。
母親はピアニストとして挫折しており、自分の
夢を娘のフジコヘミングに全てをかけていたのです。
そうまでしてフジコヘミングにピアノを
教え込んだのですから、将来は約束されて
いたのかもしれませんね。
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フジコヘミングの悲劇!成功目前に聴力を失う
母親のスパルタレッスンに耐えながらも、ピアノに
興味が湧かないながらも確実に”天才ピアニスト”
としての道を進んでいたフジコヘミング。
難民としてでも念願だったベルリンへ留学を
果たした彼女ですが、その生活は苦しいものでした。
とにかくお金がなく、頼りは母親からの僅かな仕送り。
周りからはよそ者だ、といじめられる日々でした。
そんな中、35歳の時に世界的な音楽家レナード
バーンスタインの演奏会が開催されることを知った
フジコヘミングは、なけなしのお金でチケットを買い
さらに自分を売り込むため彼に手紙を送りました。
演奏会の後に彼の楽屋を訪ねその場でピアノを弾き
その腕を認められます。
今世紀最大の作曲家・指揮者の一人と言われる
ブルーノ・マデルナにも才能を認められ、彼の
ソリストとして契約。
彼らの推挙によりウィーンでのリサイタル開催が
決定しました。
しかし、ようやく日の目を見ることになった
彼女に悲劇が襲います。
大事なコンサートの直前で風邪をこじらせ
聴力を失ってしまったのです。
1948年16歳の頃にも中耳炎が悪化して右耳の
聴力を失っており、左耳だけでピアニストを
してやってきていたのですが、ここで両耳の
聴力を失ってしまいました。
その後、耳が聞こえないままリサイタルを
行ったものの、当然の如く結果は散々でした。
翌日のリサイタルは全てキャンセルしたといいます。
せっかく掴んだ最高のチャンスを逃してしまい、
毎日、泣いて過ごした。
悪魔のせいだ、もう終わりだと思った。
と当時の事を語っています。
フジコヘミングのようやくの成功と今
それでもピアノを弾き続けたフジコヘミングは
ドイツに戻り耳の治療を受けながらピアノ教師の
資格をとり、働きながらコンサートを続けて
暮らしていました。
そして母親の不幸に伴い、1995年に日本へ帰国。
母校でコンサートを行うなど細々と
活動を続けていました。
60代でまだ無名なピアニストでしたが、1999年に
彼女の波乱万丈な人生を描いたNHKのドキュメンタリー
番組が放送され、ようやく世間にその名が広まりました。
壮絶な人生と、哀愁漂う演奏は注目を集め、同年
リリースされた「奇跡のカンパネラ」はクラシック界では
異例の100万枚を超える大ヒットとなりました。
https://youtu.be/i1eGhpN1Zgk
クラッシックには縁の無い私でも涙が出てきてしまう
この「カンパネラ」やはり唯一無二の存在だとしか
説明しようがありません。
とにかく感動します。
そして一度は彼女のピアノを生で聴きたいとさえ思える
ピアノなのです・・・
クラシック通の間では、彼女の演奏は賛否両論で
「下手」と言われることも多いです。
プロのクラシック演奏家としての
フジコヘミングはそうかもしれません。
有名な彼女の「ラ・カンパネラ」は他のピアニストに
比べ、スローテンポでミスタッチも多く、ねっとりした
運びでまったく別の曲のように聴こえます。
これが「味がある」「魂を震わす音」とも言われており
現在85歳のフジコヘミングの魅力でもあります。
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おわりに
フジコヘミングの半生はとても苦難に満ちていますが、諦めずにやり続けたピアノが60代後半でようやく世間に認められました。遅咲きながらも自身の人生に照らし合わせたような、楽譜通りに弾かない演奏はたくさんの人々を魅了しました。賛否両論ありますが、これからも心のままに演奏活動を続けてほしいです。
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