キラキラした目が特徴的なアルピニストの野口健さん。その生い立ちにはハーフのルーツである強烈な個性の母親や生い立ちが背景にあるようです。
登山家として活動する野口健さんの過去には複雑な家庭環境に、親子関係、そして情熱的な性格故の児童婚などこれまでにも話題になっています。
野口健の登山に欠ける想いや、その情熱は、やはり母親の遺伝子にも大きく関係していいるような気がします、野口健のこれまでを追ってみましょう。
野口健プロフィール
氏名:野口健(のぐちけん)
生年月日:1973年8月21日(48歳)22年4月時点
生誕地:アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストン
出身校:亜細亜大学
職業:登山家・環境活動家
著名な実績:7大陸最高峰登頂、エベレスト登頂
子供:野口絵子(娘)
野口健の生い立ち~ハーフのルーツ
日本を代表するアルピニストとして知られる登山家の野口健さん。
近年はヒマラヤ・富士山での清掃活動や、遭難死したシェルパ族の子どもたちへの教育支援「シェルパ基金」ほかヒマラヤでの学校建設・森林づくりなど、多彩な社会貢献活動を行い活躍中です。
登山家として知られる野口健さんはボストン生まれで、日本人の父親と、エジプト人の母親の間に生まれたハーフだったそうです。
野口健さんの父親は、元外交官の野口雅昭さんで、仕事の関係で世界中を転勤して周っていたため、野口さんはニューヨークやサウジアラビアなどを転々とし、現地の公務員宿舎で暮らすといった生活を送っていました。
健さんが4歳の頃日本に来ましたが、当時は当然日本語が話せなかったそうです。
父親の雅昭さんは福島県会津若松市の出身で、性格は真面目で優しい人だったそうですが、後に健さんが小6の頃、母親であるモナさんと離婚し、後に日本人女性の容子さんと再婚しています。
元妻のモナさんは、離婚後に再婚して子供2人をもうけていますが、父親は生活に困っていることを知ると、自分の子供ではないにもかかわらずモナさんと2人の子供たちに仕送りを送っていたとか。
そして野口健さんは、カイロ日本人学校からイギリスの立教英国学院小学部に転校しています。
その後の学生時代は荒れていて、「札付きの不良」「落ちこぼれ」だったと本人が語っており、その内容もおぞましいほどです。
空気銃で猫や鳩を撃ち殺す、停車中のタイヤをパンクさせる、ベンツのエンブレムをもぎ取るなどの問題行動を繰り返し、高等部在学中には先輩を殴って1ヶ月の停学処分を受けたこともあったそうです。
そんな思春期の転換期になったのが、停学中に植村直己氏の著書「青春を山に賭けて」に出会い感銘を受け登山を始めます。
高校卒業後は、七大陸最高峰登頂を目指して亜細亜大学へ進学を決め、世界の有名な山々に挑み、各地で最年少登頂記録を樹立しています。
8年間大学に在籍して、25歳の時に世界最高峰エベレストに3度目にして初めて登頂に成功し、当時の七大陸最高峰の世界最年少記録を更新するなど華々しいデビューを果たしました。
野口健の生い立ち~母親が強烈すぎた教育方針
野口健さんはエジプト人の母親を持つハーフでしたが、母親のモナさんが大変厳しい性格だったことがわかっています。
エジプト人と言っても、実はモナさんはエジプト、レバノン、ギリシャ、フランスの4カ国の血が混じったクォーターだったとか。
野口健公式サイト:引用
昔の写真を見てもグラマラスでとっても美しいモナさんの姿は、現在の野口健さんにも重なる所がありますね。
そんな母親の強烈すぎた教育方針が、野口さんの生い立ちに大きな影響を与えたようです。
アメリカに住んでいた頃、野口さんが友達からいじめを受けたときに、「殴られた」と野口さんがモナさんに伝えると、
「一発殴られたら10発殴り返せ」とモナさんが答えたというからびっくりですね。
アラブ人の為とても気性が激しく、時に夫婦喧嘩でも夫であ雅昭さんにも一方的にキレる事が大半で、そのキレっぷりも植木鉢をベランダから持ってきて投げつけ家の中が泥だらけになる事も日常茶飯事だったとか。
「日本人の男最低」と叫ぶような母親だったようですが、そうした気性の激しさは子供である野口健さんらの教育方針にも大きく影響していたようです。
やられっぱなしではダメ、やられたらやり返す、「目には目を」「歯には歯を」がモットーのモナさんは、「相手が大人数で太刀打ちできない」と訴えた幼稚園児の野口健さんに、「どんな手を使ってもいい」と言って、野口健さんに画鋲を持たせて「相手の靴の中に入れろ」と指示したとか。
気性が激しい事で知られるアラブ人の女性らしいですが、こうした母親の気性の荒さはどこかしら野口健さんにも似通ったところがあるのでしょうね。
どんなに苦しくても生き延びる、登山家として厳しい環境に強くあらねばならない世界に立つ野口さんにとって、この母親の強烈な教育は必然だったのかもしれません。
2007年の1月26日に24年ぶりに実母モナさんが日本に帰国する形で再開が叶っています。
僅か5日間での日本での再会でしたが、既にこの時現在の奥様と再婚して娘さんも誕生してた野口健さんは、家族にも会わせることができモナさんも「これで私もお婆ちゃんになれた」と喜んでいたのだとか。
2人のテレ朝の「グレートマザー」でも放送されたそうです。既にアルピニストとして日本で活動している健さんの富士の樹海の不法投棄の活動仲間らにも会う事が出来たのですが、富士山再生について「こうすれば綺麗になるよ」と熱弁していたそうです。
その姿を見て「何に対しても本気、必死で生きてる母ちゃんは昔から変わらない」と胸が熱くなったのだとか…
そしてそんな夫の実母を目の当たりにして現在の奥様は「どうしてあなたはこんな人なのだろう、とずっと理解できなかったけど、モナさんに会って全てが繋がった、良く理解できました」と話したそうです。
やはり母親モナさんの情熱的な遺伝子を受け継いでいるからこその、野口健さんと言う事に間違いはなさそうですね。
野口健の生い立ち~強烈母との別れと父との関係
冒頭で紹介した通り、野口健さんの実母である母親のモナさんと父親は、野口健さんが小6の11歳の時、離婚することになりました。
離婚原因はある頃から、モナさんが絵の勉強がしたいと言って男性の先生を家に呼ぶようになり、親しい関係になったのだそうです。
既にその男性と街を一緒に歩いている姿を見ていた少年野口健は、当時から母の不貞に違和感を感じていたようです。
その後モナさんは妊娠し、赤ちゃんは日本人かのような「いさむ」と名付けられます、父・雅昭さんも自分の子供としてかわいがったそうです。
でも成長と共に「いさむ」くんが日本人ではないことが明らかな容姿の違いで発覚し、夫婦関係がこじれてしまい、モナさんはいさむくんをつれて家を出ます。
嫁の不貞によって離婚した夫婦ですが、モナさんと離婚後の父親は、子供の野口健さんからしても、荒れた生活を送ったそうです。
そんな様子を見て野口健さんは、父親に咤激励したのだとか、
「母ちゃんは男を作って出て行ってしまった、だから親父も早く女を作れ」だったのだそうです、しかも当時の野口健さんは小学生。
子供心に、母親の不貞に気が付き、その後両親の離婚も経験し、その離婚に落ち込む父親を見てのこの発言は、どれほど多感な少年期を送ったのかと思わざる得ない発言ですよね。
その言葉で目を覚ましたかどうかは分かりませんが、ほどなくして、父・雅昭さんは1990年に日本人女性の容子さんと再婚。
新たに、容子さんは、規則正しい生活や言葉遣い、マナーなどを、やはりとても厳しく野口さんに教えたと言います。
野口健さんがエベレストに3度目の挑戦をする際には、「いつまでも登れないようではだめ」「だらだらと挑戦していたらあなたはエベレストのストーカーよ」「決着をつけなさい」と手紙を送ってきたそうです。
厳しさの中に優しさがあり、野口さんは恋愛の相談をすることもあったのだとか。
慕っていた容子さんですが、55歳の時癌で逝去しています。
野口健の兄との関係は
野口健さんには5歳上の兄1人と弟1人があり、兄とは両親が同じですが、弟は冒頭で紹介したように、母の不貞相手との間に出来た異父兄弟です。
野口さんは父親の離婚後、父と2人暮らしでしたが、兄の野口哲也さんは、父親の元にはいなかったようです。
高校生になると哲也さんは日本の学校に通っていたらしく、母親のモナさんとも暮らしてはいなかったといわれています。
野口健さんのブログで兄との2ショットが投稿され、哲也さんがイラン在住の商社マンであることがわかっています。
弟は母のモナさんの再婚相手との間に生まれており、モナさんは弟を連れて家を出たわけですが、野口さんは異父兄弟である弟と山へ登ることもあるのだとか。
ただ母親のモナさんは、この弟の父親である不貞相手でもあり再婚相手だった夫とも後に離婚しているとのことです。
複雑な家庭にありながら、兄弟の交流はその後も続いているようで、野口さんの寛容さを感じますね。
野口健の婚姻歴も凄い!
そんな多感な少年時代や生い立ちを持つ、野口健さん自身にも2度の結婚歴があります。そして驚く事に一度目の結婚が児童婚だったことで注目された過去があるようです。
野口健さんが1度目の結婚をしたお相手は、当時15歳のネパール人の少女でした。
野口健さんと少女との出会いは1995年2月のことで、当時20代、大学生だった野口健さんはメラ・ピークに挑戦するためにネパールを訪れ、現地で15人のシェルパを雇いました。
そして、そのリーダー格の1人の男性の家で、娘であるペンハー・ラムさんに出会いました。
デンバーさんの指示で、ラムさんはその日から野口健さんの身の回りの世話をするようになり、毎晩のように野口健さんはラムさんに会うためにデンバーさんの家に通ったそうです。
野口さんの一目惚れで、ラムさんは英語が話せずただ一緒にいるだけでしたが野口さんは満たされたといいます。
メラ・ピークの山頂を目指す前に結婚の意思を明かし、登頂後結婚式を挙げた野口さんですが、日本にいる母親に結婚の事実を伝えたところ、母親が猛反対し大喧嘩になったといいます。
日本に2人で帰国したかったのですが、日本大使館でネパールの法律では15歳の少女との結婚が認められていないことを告げられたため、ラムさんをカトマンズにある親戚の家に預けて野口さんは1人で帰国。
野口健さんは日本から、学費や生活費も含めて毎月4万円をラムさんに仕送りをしていたようですが、そのうちラムさんがカトマンズでの都会での生活に慣れ、裕福な生活で人格も変わり、結婚を後悔しはじめるようになりました。
ネパールを訪れる度、派手にケバくなったラムさんに、国際結婚だったとはいえ、男性の陰も見えていた事から離婚を決意したそうです。
結婚から2年後、野口健さんがエベレスト登頂に失敗した後、野口健さんはラムさんの親戚の家で「ラムさんと別れたい」と話し離婚します。
若く何も知らなかった15歳当時のラムさんですが、それから2年の間に色々な人や物に影響されて変わるのは致し方ないのかもしれず、やはりこの結婚事体に無理があったのかもしれませんね。
野口健の結婚スタイルが凄い!
そして野口さんは2003年7月、加藤靖子さんという一般女性と再婚しました。
靖子さんは、野口健さんの友人でライターをしている方の従姉妹で、野口さんが30歳の時に出会ったそうです。
靖子さんは仙台に住んでおり、エベレスト遠征が重なる野口さんとの遠距離恋愛を経て結婚しています。
驚きなのは、その結婚スタイルが結婚してからなんと15年間「別居状態」ということ。
嫁と子供は東京の1軒家に暮らしていますが、近年は野口さんは山梨県にある古民家に1人暮らししており、別居婚を選択していることが話題となっています。
自宅から80Km離れた山梨県の山奥に古民家を借り、嫁には言わず600万円をかけてリフォームしたのだとか。
そのわけは、結婚生活の中で慣れてきて、「家の中でパンツ一丁で歩くようになる」のが嫌で、「お互いにちょっと服装に気を使ったりする関係でいたい」と話しています。
放浪生活の長い登山家らしい生き方なのかもしれませんね。
ちなみに野口健さんと嫁・靖子さんの間には、2004年2月に娘の野口絵子(のぐちえこ)さんが生まれ、一緒に登山もし野口さんのブログにも度々登場、現在はタレントとして活動もしており、 英語も堪能な才色兼備の美人娘として話題になっています。
一人娘の絵子ちゃんはクウオーターでとっても可愛いです、今後のタレント活動でブレイクしそうですね。
おわりに
登山家の野口健の生い立ちは、日本人の父とエジプト人の母を持つハーフで、強烈な母親の教育を受けて育ったことがわかります。父親は離婚し再婚していますが、野口さんは兄や異母弟と交流を持ち、2番目の母とも良好な関係だったようです。
児童婚を経て離婚したことにも驚きますが、野口さんが再婚後も別居婚の形をとって生活しているのにもびっくりですね。タレントの娘とも仲良く過ごしており、今後も幅広い活躍が期待されています。
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