1992年に起きた犯人関光彦による
「市川一家4人殺害事件」は、当時
19歳の少年が家族4人を惨殺し少女を
何度も強姦するという少年犯罪史上まれな
凶悪事件で知られています。
未成年犯罪としては2度目の死刑執行が
行われていますが、この鬼畜の仕業で
生涯を閉じた関光彦にはどのような
生い立ちがあったのでしょうか。
関光彦の生い立ち、市川一家4人殺害事件や
彼の家族との関係、光彦の最期や今について
お伝えします。
関光彦の市川一家4人殺害事件
1992年3月6日、当時19歳の関光彦は
千葉県市川市のマンションに強盗目的で
押し入り、4歳の幼女と83歳の老婆を含む
一家4人を殺害し逮捕されました。
祖母は電気コードで絞殺、母親は背中に
立て続けに包丁を刺され、父親も背中を
突き刺され死亡、幼い妹も刺殺される
残忍極まるものでした。
彼はその1ヵ月前の1992年2月、深夜自転車で
通りがかった15歳の少女を強姦しており、その
少女宅を狙ったものでした。
祖母、父、母、妹を惨殺し、現金を奪い事件の
最中に少女を何度も強姦した罪で世間を震撼
させました。
地裁、高裁、共に死刑判決が下った後2001年
12月3日、最高裁は上告を棄却し、関光彦の
死刑が確定しました。
未成年犯罪における史上2度目となる死刑は、
その16年後の2017年12月19日、関光彦44歳の
時に執行されています。
関光彦の生い立ち~家族崩壊のルーツ
関光彦の実家は千葉県千葉市内で母方の
祖父の代から続くうなぎの加工・販売会社を
経営していました。
母親の父であり関の祖父は鰻屋の2代目で
ありながら会社を年商10億もの会社に育てた
やり手実業家でした。
元々関の父親は普通のサラリーマンだった
ようですが何店舗も経営する鰻チェーン店の
関の娘と結婚した事で、会社を辞め1店舗を
任される事になります。
当初、祖父は娘と使用人だった父親との結婚を
「仕事に対する熱意が足りない」
「人相が良くない上に真面目に働くような顔ではない」
「娘と結婚させたくない」
と大反対したそうです。
この母の父親であり関の祖父の予想は見事に
大的中…
だが関の母はその父親の猛反対を押し切り
駆け落ち同然で結婚しています。
とは言え関ら子供が誕生した事で祖父も2人の
結婚を認めざる得ない状況となり、店も義理の
息子となった関の父に任せ、高級マンションの
購入にも援助したそうです。
ただ、この自営業と言う日銭が入る店を
任された事で店のお金に手を付け父親は
高級品などを買いあさり女遊びや博打に
手を染めだした事で店の経営もみるみる悪化
していきます。
関光彦の生い立ち~父の豹変
この妻の実家の商売に携わった事から父親の
遊び癖と放蕩に拍車がかかります。
本来がこうした人間だったのかもしれませんが
とにかく目先のお金に目が眩みどんどん派手に
なり祖父に任された商売はそっちのけ。
悪化しだした店の経営も気にする素振りもせず
益々女に博打に明け暮れ、この頃から母親への
DVを関ら子供達が目にするようになります。
彼の父親は遊び人で知られており祖父の店の
売上で豪遊、ギャンブルや酒、女に溺れ、高級な
外車を乗り回し愛人と遊びまくり、サラ金も
利用していました。
当然両親の喧嘩も多くなり、父親が母親の頭を
水の張った浴槽に無理やり浸けられている様子を
何度も目撃したと後に語っています。
当時の関は小学校低学年だったと思われ、こうした
両親の不仲と常軌をきした父親の家庭内暴力を目撃
した影響は、その後の凶悪事件に繋がる関の人格形成に
大きな影響を及ぼしたのは言うまでもないでしょう。
そして浮気や借金を責める母親に壮絶なDVをし
その刃は子供だった関光彦ら兄弟にも及びます。
母にも殴る蹴るの暴力を振るい関にも暴力
だけに留まらず何時間も正座をさせる、食事を
与えない、徹底した無視をする。真冬の夜中に
外に放り出す、等の完璧な家庭内暴力で思いの
ままに振る舞います。
関光彦の生い立ち~母親の暴力暴言も
夫の豹変と家庭内暴力に続き博打での借金問題
で母親の精神状態も良い訳がありません。
時にこうした日々の中、母親までも子供ら
関に対して何度も「手を洗え」と言いつけたり
時には平手打ちで殴るなどの暴力も厭わなかった
ようです。
ようするに父親からは完全なるDVを、そして
それを自分以上に父から受けている母親からも
暴力的な態度を取られていた、というのが当時の
関光彦の家庭環境だった事が明らかになっています。
こうした熾烈を極めた家庭内暴力を振り返って
あれほどの凶悪事件を起こし未成年でありながら
4人もの家族を無慈悲に殺害した関光彦を持って
その父親の事を振り返りこう話しています。
「この世でもっとも憎い人間。生まれつきの詐欺師、殺人鬼育成マシーン。叶うなら僕と一緒に死刑台に吊るしてやりたい」
と後の死刑判決を経て関光彦は、その諸悪の根源で
ある実の父親の事をこう語っています。
この父からの壮絶なDVこそが関光彦の異常な
暴力性と支配欲を産んだのは間違いないと思い
つつ、ろくでもない父親だったとはいえ人殺しや
強姦はしてない訳で…何とも居たたまれない気持ちに
なりますね。
そんな関の逃げ場となったのが関の誕生から
両親を許し生活のサポートもしてきた祖父の
存在だったと言われています。
両親の元で居心地が悪かった関は度々この時期
祖父母の元に遊びに行っていたようです。
祖父母は、孫の関の事を、たいそう可愛がって
いたと言いますが、この孫の存在によって全てを
無くという無残な憂き目にあう事になるのです…
父の尋常でない暴力、母の理不尽な暴言
フォローするのは離れて暮らす祖父母のみ。
ただ、これほどまでに家庭環境が破綻していた
関家の状況は祖父母の愛情を持っても、その穴を
埋める事はもはや不可能だったのでしょう。
関光彦の生い立ち~両親の離婚と壮絶貧困生活と
こうした家庭環境に大きな変化が訪れるのが
関が小学校3年生の時、父の作った莫大な借金が
手に追えず祖父の実家に逃げ込みマンションを
母子3人は出る事となります。
放蕩の限りを尽くした父親が作った借金は
3億とも言われ連夜借金取りが押しかけとても
元のマンションに暮らせる状態ではなかった
ようです。
光彦が小学校4年生のときに両親は離婚
しています。
ただ莫大な借金の取り立てが激しい為
祖父母の家にも居候を続ける訳にもいかず
結局風呂無しのアパートに母子3人で移り
住む事となります。
光彦は母親、5歳年下の弟と一緒に夜逃げし、
葛飾区の下町の安いアパートを転々とする
暮らしをしていました。
ちなみに、この時の父が作った3億とも言われる
莫大な借金は祖父が清算したようです。
関光彦の生い立ち~学校生活とイジメの始まり
既に物心ついた頃だろう小学校低学年での
両親の壮絶な夫婦喧嘩と父親の母親と自分ら
子供に対する壮絶な暴力の数々。
そして極めつけは高級マンションからの
風呂無しアパートへの坂を転がるような
生活の変化。
食べる物さえ事欠く事があったと言われる
関の生活に同級生らが気が付かない訳が
ありません。
極貧生活の中、小学校も転校を何度もした
関はランドセル代わりに風呂敷を下げて学校へ
いくと、級友に汚いとか、臭いなどと言われ
イジメを受けたそうです。
同級生らに引け目を感じ、この頃から父親を
恨むようになったようです。
当時の生活の変化と貧困の様を後に関自身が
最後を迎えるその時まで、世の中のイジメ問題や
それが災いした自殺問題に理解がデキる、気持ちが
分かるという旨の発言をする事もあったようです。
それほど当時の関の生活ぶりも、元々が裕福な
生活だっただけに子供なりに相当なストレスと
ショックを受けていた事が分かります。
関光彦の生い立ち~非行と両親の理不尽
ただ元々人並み以上に身体が大きかった関。
中学に進学する頃には体格が勝りイジメられる
とやり返し、小学校時代のいじめられっ子から
今後は非行に走るようになります。
同じような境遇やヤンチャな子供達とつるむ
ようになった関は飲酒やタバコ、シンナーにも
手を出すようになります。
小遣い欲しさにも一人で浅草の繁華街で
かっぱらいや置き引き、賽銭泥棒を繰り返したり
歯止めが利かなくなっていったようです。
そうして住む場所も転々として、ようやく風呂
アリアパートに写り母子の生活がそれなりに安定
した頃にまたも悪夢がよみがえる父親との再会を
する事になるのです。
こうしたきっかけを作った張本人である父親が
またもアパートに出入りするようになったこと。
母曰く、「子供の教育上、父親が必要だった」
との事らしいですが、当然、物心ついた頃から
思春期真っ只中の自分ら母子が、これほどの
貧困にまみれた諸悪の根源は父であることは明白
でした。
それなのに、そんな父親を受け入れる母親に
関は拒絶反応を示して家にも母親にも寄り付かなく
なっていったと考えられます。
そして非行を注意する母親に対しても
殴ったり、幼い弟にも暴力を振るうなど更に
家族との関係も悪化。
こうして始まった家庭内暴力は、またも壮絶で
あまりの酷さに母親は警察にも何度も相談する
程の暴力だったといいます。
光彦は悪い仲間と連れ立って喧嘩や恐喝、窃盗
などの非行に走り、中2で同い年の不良少女と
交際し彼女のアパートに住み着くなどしていた
そうです。
彼は高校2年生の1学期恐喝事件を起こし、
結局高校も中退します。
その後も祖父のうなぎ屋を手伝いながら
不良仲間と深夜徘徊して飲み歩く生活を
続けすさんだ暮らしに溺れていきます。
関光彦の負の連鎖
冒頭でも紹介したように祖父母の代で企業した
鰻屋を二代目として若くして引き継いだ祖父。
この祖父がやり手で二代目にして鰻屋をチェーン
店化に成功させ個人での売り上げ10億円規模
にまで成長させた祖父。
でもこの巨額の資産を産む鰻屋の跡目を狙う
身内は多かったようで、目の上のコブ状態で
祖父と鰻屋の足を引っ張る祖父の娘である関ら
母子を嫌う身内が多かったのも事実です。
高校時代に恋愛関係だった恋人を追って
その親を恐喝まがいで自主退学となった関は
中退後数々のアルバイトを転々として当然行きつく
先には祖父の鰻屋のバイトにも顔を出していました。
そこで幼い事から祖父に可愛がられていた身内が
祖父に言った事が引き金となり関光彦の負の連鎖が
止まらなくなります。
事あるごとに、身内は
「関が店を手伝った日にはレジのお金がなくなる。」
と祖父に言いつけたそうです。
当然当時の関の素行を考えると疑われても仕方が
無い状態で祖父に濡れぎぬで疑惑を持たれた関は
烈火のごとく怒り狂い、誤解を解く為に祖父の家に
怒鳴りこみに行くのです。
関光彦の家族への仕打ち
この時、興奮していたのか寝ていた祖父を
起こす為、祖父の顔を蹴り上げた関の蹴りが
祖父の顔面に辺り眼球が潰れる大怪我を負わせる
こととなります。
この怪我で祖父は片目が潰れ失明します。
一説には遊ぶ金が無くなりうなぎ屋に侵入し
売り上げの120万円を盗み、激怒した
祖父を蹴り親指が目に入ったとも言われています。
が、この一見に関しては関は祖父に謝罪しており
鰻屋の跡目を狙う親戚らの悪だくみの可能性も
否めません。
ともあれ、この辺りになると、関自身ももう
破れかぶれ状態だったのでしょう。
まるで坂を転がるように家族とも距離を置き
思うままに傍若無人な行動で振る舞うように
なります。
母親や弟に対して暴力を振るい大きな体格もあり
喧嘩ばかりしていた光彦は
「喧嘩に勝てばお金が入る」
と認識するようになり、恐喝行為が
エスカレートしていったといいます。
関光彦の結婚
こうしてバツが悪くなった関は祖父の店にも
父を受け入れる母との生活にも嫌気がさし
独り暮らしを始めます。
18歳になった関は免許を取りローンを組んで
クラウンを購入。
夜の街でアルバイトを始め、そのバイト先
だったフィリピンパブで出会った女性と同棲。
2度にわたってフィリピン人女性を追って渡航
して現地でフィリピン人女性と現地で結婚。
帰国して日本でも婚姻届けを出し結婚をしています。
この時、関だけが日本に帰国して女性は母国
に残り、その後翌年1月に再来日しています。
そしてその間起きた市川一家4人殺害事件後
関光彦の子供を出産した事が明らかになって
います。
関光彦とフィリピン人妻との間には性別は定か
ではありませんが子供が1人誕生しているようです。
![]() |
新品価格 |
関光彦の事件へのきっかけ
現地フィリピン妻と結婚し1人日本に帰国
した関は、1人だったが故にまたも粗暴な
行動で事件の引き金を自らが起こしています。
関光彦の1家殺害事件のきっかけは、1992年
2月6日に市川市内のスナックバーで働く別の
フィリピン女性を自宅で軟禁し暴行した事が
きっかけといわれています。
ただそのフィリピン人女性の関係に居た暴力団に
追われるようになり200万円の金策に窮した
からといわれています。
2日後に関光彦の自宅アパートから逃げてきた
女性は泣きながら状況を店に訴えたといいます。
光彦は、彼の暴行に激怒した店側が依頼した
住吉会系暴力団から200万円の損害賠償を請求され
了承せざるを得ず、困ったところ強姦した15歳
少女の住所を生徒手帳から控えていたのを思いだし
事件に走ったと思われます。
暴力団からの取立てを恐れ、車上泊を続け
お金も払えず頼るものもなくなり、被害者
少女の自宅で強盗をするという大胆で凶暴な
やり方には絶句するばかりです。
関光彦の最後
関光彦は44歳になった2017年12月19日に
死刑執行が行われています。
関光彦の死刑直前の最期の言葉は明かされて
いませんが、獄中では殺害した被害者4人に対し
罪の意識が芽生えていたようだったと言われています。
弁護人であった市場順子弁護士によると、新聞を
よく読んでいたといい、直前の面会時には気候や
体調などの会話をし落ち着いた様子だったようです。
かつては自らが殺害した
「4人がいつも自分にくっついていて、おまえのことを許せないと言っているようで苦しい」
と打ち明けたこともあったそうです。
(産経ニュース)
彼の母親と弟は実在しており、母親は外回りの
営業の仕事をしながら週1回は光彦の面会に来て
いたといいます。
母親は事件後も息子を愛し、面会には衣類や
好きなもの、本なども差し入れており、弟は
光彦とは正反対の穏やかで優しい性格ということです。
(MATOMEDIA)
関光彦の最大の被害者女性の今
僅か15歳で関光彦という巨漢の狂暴極まり
ない男に身勝手にも強姦され、その後家族
4人まで殺害された被害者少女。
事件当時の強姦の被害者少女は、母方の実家の
ある熊本県に移り引き取られました。
事件後は夢であった美術大学に進学し、関光彦の
死刑執行が確定した2004年春に交際男性と結婚し
ヨーロッパに移住したといわれています。
(同上)心の痛手は相当のものでしょうが立派に
未来に旅立ったことで救われる思いがします。
おわりに
未成年でありながら4人もの殺害と無慈悲な強姦をし続けて未成年故に死刑は回避されると短絡的に考えていた関光彦の凶悪性は間違いなく、その父親の影響を大きく受けた事は間違いありません。ただそうだとしても、何故、増悪する対象の父親以上の凶悪性を自らも追ってしまったのか?どこかで立ち止まる事が出来なかったのか?未成年故の短絡的な思考で身勝手な行動で罪もない被害者を出してしまった彼が最後まで父親を自分と同じ死刑台にあがらせたい、と思いつつこの世を去ったと考えると、とても複雑な思いになります。
17年に44歳で死刑執行を経て既にこの世には存在しない関光彦の、その増悪の対象である実父は、きっと70代そこそこで存命しているでしょう。何か想うところがあるのでしょうか、ともかくなんの罪もない被害者家族と、その残された女性の平穏な日々を祈らずにいられません。
コメント