2019年のワールドカップでの大活躍からラグビー
人気が急上昇の中日本代表で活躍した松島幸太朗さん。
モデルにも挑戦してかっこいいと評判の松島幸太朗
の父親や母親との馴れ初めや生い立ちとは?
現代では決して珍しくないハーフである彼の両親
のルーツや彼を支えた母親の愛情などラグビーを
始めたきっかけまで追った見ようとおもいます。
松島幸太朗プロフィール
氏名:松島幸太朗選手(まつしま こうたろう)
生年月日: 1993年2月26日 (年齢 26歳)
生まれ: 南アフリカ プレトリア
身長: 178 cm
体重: 86 kg
ポジション:センター、ウィング、フルバック
所属チーム:サントリーサンゴリアス
学歴: Graeme College、 桐蔭学園中学校・高等学校
ニックネーム:マツ、まっちゃん
趣味:映画鑑賞、ゴルフ
松島幸太朗のルーツ
この秋日本のラグビーファンが一気に増える
現象を生んだラグビーワールドカップ大会。
その日本代表として出場し、日本選手史上初の
ハットトリックを達成するなど大活躍した
松島幸太朗選手。
最近では男性誌「GOETHE」(ゲーテ)来年1月号の
表紙モデルを務めたことも報じられその名はまだまだ
話題になりそうです。
そんな彼のルーツを追ってみましょう。
父はジンバブエ人、母は日本人で南アフリカ出身
ですが、6歳の時来日し以後日本で生活しています。
ポジションはバックスで走力に定評があり、
2011年1月、全国高校ラグビー大会優勝に
貢献し名を知られることとなりました。
高校卒業後、出生地・南アフリカのラグビーチーム、
シャークスのアカデミー(育成組織)に2年間在籍しました。
(シャークスは、世界最高峰のインターナショナルプロラグビー
リーグで、選手が世界中から集まる有名なチーム)
2014年、日本代表初選出となりサントリー
ラグビー部サンゴリアスに所属しその後
オーストラリアのワタラーズやレベルズに
加入し海外経験を積んでいます。
2019年8月、ラグビーワールドカップ2019の
日本代表に選出され活躍し、日本中のファンを
くぎ付けにしたことは記憶に新しいのではない
でしょうか。
松島幸太朗の母親と父親の結婚馴れ初め
松島幸太朗選手の母親は日本人で多恵子さんといい、
30年くらい前はNGO研究員としてアパルトヘイト
問題に携わり現在は社会福祉士として仕事を
しているそうです。
父親はジンバブエでジャーナリスト・新聞記者を
していたロドリックさんで、単身赴任が多かった
といいます。
幼い頃から貧困や黒人差別の経験もありアパルトヘイト
問題にも関心を寄せていたようです。
多恵子さんの旅先の南アフリカでロドリックさんと
出会い結婚に至ったということです。
内戦や差別関係を取材し命がけで仕事をする
ロドリックさんと、同じく差別問題に向き合った
経験のある多恵子さんの巡り合わせは必然だった
といえるでしょう。
自分の意見を持ち、妥協せず進むお2人の姿勢が
松島選手への教育にも生かされ、屈強なラグビー
精神に生かされていくこととなります。
松島幸太朗の生い立ち~父親の死
松島幸太朗選手は南アフリカ・ブレトニアで
生まれ6歳まで過ごし、その後来日して東京で
暮らします。
サッカーファンの父親の影響もあって小学生時代は
サッカーをしていましたが、中1から1年間南アフリカの
グレーム・カレッジに留学しラグビーを始め才能を
発揮していくこととなります。
この南アフリカに留学した13歳当時の1年間が海外
生活が長かった父親との唯一の密着した父子2人暮らし
をした期間だったそうです。
実は松島幸太朗選手の父親は、松島幸太朗選手が
高校2年生の時に病気で亡くなられたと言われています。
この時、幸太郎さんは相当ショックだったようで
部屋に数日間こもって出てこなかった程落ち込んだ
そうです。
新聞記者だった父親は多忙で、海外生活で離れ離れ
だったことも多く、この留学時期が一番父親が身近に
あった時のようです。
”勉強をしっかりしなさい”と、いうことなどしつけも
きちんとされており、多感な時期を乗り越える支え
となったといえます。
桐蔭学園高校では全国優勝も経験し、高校日本代表
にも選ばれるなどその名を全国に知らしめました。
松島幸太朗のイジメ克服と母の愛
ジンバブエ人と日本人のハーフである松嶋幸太郎
さんは当然学生時代から周囲の日本人とは肌の色も
瞳の色も体系も違います。
みんな同じが良いとする風潮の強い日本で、それらの
違いは当然話題に上がり、時にはイジメの対象になる
時さえあったようです。
そんな時松島さんは『お母さんと同じ肌の色がイイ』と
母親に言ったといいます。
その言葉で何かしら学校であったと察知したのでしょう。
松島幸太郎さんの母親は、イジメられた事を知り
息子にこういったそうです。
『思っている事をしっかり話す事で回りが変わる』
こう言って息子の背中を後押し。
その母親の後押しがあり彼は自分の言葉で
『やめて欲しい』と相手に言う事が出来てイジメも
克服したそうです。
祖国でジャーナリストとして働く父親より母子の
生活が長かった松島幸太朗さんは、そんな母親の
愛に支えられて心身共に成長してきました。
アパルトヘイトなど差別問題に長年取り組んできた
母親だからこその差別への想いや息子への愛情は人一倍で
去年の2018年の2月の松島幸太朗さんの誕生日には、こんな
手紙を幸太朗さんに送ったそうです。
『その美しい肌の色と、キラキラした目と、自由な心がイイね』
いつでも息子の、やりたい事を後押しして正しい事を
さりげなく自分の力で切り開けるようサポートした
母親の深い愛情があってこその松島幸太朗さんの今が
あるのでしょう。
彼自身もこれまでの自分があるのは母親の愛情あってこそ
と感謝を伝えています。
『僕は人生の転機で自分を導いてくれる人達に出会った、その始まりは母親です』
なんか素敵な母子ですよね。
この言葉に全てが凝縮されている感じです。
松島幸太朗のラグビーとの出会いは運命
松島幸太朗選手は小学校でサッカーをしていましたが、
中1での南アフリカ留学先で先生に勧められてラグビー
を始めたといいます。
水泳、サッカーやバレーボールなどの経験もあり
どんなスポーツにも道が開けていたのでしょうが、
そこにラグビーとの出会いがあったことはまさに
運命としか言いようがありません。
当時両親の勧めで留学をしたといいますが、
これという目標も夢もなかった松島選手に
異文化を体験させたい、のびのびと広い大地で
スポーツをしてほしいという願いを託し寮生活を
させたそうです。
親の願いにも応え早い時期に海外での生活を
したことで自立心や競争心が芽生えたのでしょうね。
自分の性格を「自由、人に流されない。」
といって表現していますが柔軟に何事にも
対応し、自分のやりたいことをするという
彼の人生の土台となっています。
おわりに
ワールドカップで活躍した松島幸太朗選手は中学時代の南アフリカ留学の中でラグビーと運命的な出会いを果たし、今も非凡な才能を発揮しています。
父と母の結婚の馴れ初めも南アフリカで、自らの考えをしっかりと持ち自由に人生を歩んでいくという教育観が彼を大きく成長させてきたといえるでしょう。
桜の戦士と呼ばれたラグビーワールドカップ日本チームの感謝パレードが12月11日(水)12時から約1時間の予定で、東京都千代田区の丸の内仲通り(有楽町電気ビル前~丸ビル前)で行われます。
また松島幸太朗選手の最高の笑顔に出会えるのが楽しみですね。
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