プロ野球入りする前から規格外の鳴り物入りと
して日本球界でも大活躍した大谷翔平。
今やメジャーリーグでもその実力を認められる
存在となり海外の反応がニュース速報で入る程世界
の注目度が高い選手です。
今回はそんな大物が育った生い立ちを支えた父親や
両親兄弟など家族の支えと天然野球少年の逸話などを
改めて追ってみようと思います。
大谷翔平プロフィール
名前:大谷翔平
出身地:岩手県奥州市
生年月日:1994年7月5日(25歳)20年5月時点
身長・体重:約194㎝・約95.3kg
投球・打席:右投げ左打ち
ポジション:投手、指名打者、外野手
学歴:花巻東高等学校
経歴:北海道日本ハムファイターズ(2013~2017)・ロサンゼルス・エンゼルス(2018~)
大谷翔平の生い立ちと家族
二刀流として日本からメジャーリーガー
として飛び立った大谷翔平選手は1994年に
岩手県奥州市で生まれ、両親と兄と姉の5人家族です。
父親の徹さんも学生時代から野球をしており、
高校卒業と共に社会人として三菱重工横浜
実業団でプレーをしていました。
しかし腰の故障が原因で25歳で野球選手を
引退しています。
そして現在は金ケ崎シニアリーグで監督を
されている実力は実証済みのお父様のようです。
徹さんと母親の加代子さんとは三菱重工で勤務
している時に知り合い、徹さんの退職と同時に
加代子さんも退職、30歳前後で将来設計を考え
神奈川県から地元岩手に戻ったといいます。
母親加代子さんも学生時代バドミントン選手で、
中学3年生で全国大会団体女子の部で準優勝
するほどのアスリートだったそうです。
岩手に引っ越してから3人目の子供で次男の
翔平選手を授かりました。
「子供に野球をやらせるんだったら、田舎の環境のほうがいいと思っていました。」
と徹さんは後にかたっています。
忙しい仕事の合間をぬって野球監督もしていた
父親と、パートを週4~5日しグラウンドにも度々
通い支えた母親のおかげで大谷選手は早くから
野球に打ち込めたといえます。
7歳年上の兄の龍太さんも高校卒業後、社会人野球で
トヨタ自動車東日本に所属し、コーチ兼
選手で活躍しており、2歳上の姉の結香さんも学生時代は
バレーボールをしていたといいます。
ちなみに兄の龍太さんは2013年12月に結婚した既婚者。
姉の結香さんも2020年1月に大谷翔平さんの母校で
野球部部長を務める男性と結婚されたそうです。
結婚式には当然大谷翔平さんと日ハム時代の恩師
栗山監督も出席して華やかな結婚式となったようです。
大谷家はアスリート家系であり、特に父親の野球
人生の影響は、兄やメジャーで活躍する翔平選手に
しっかりと受け継がれているようです。
大谷翔平の父親との二人三脚
そんな環境で育った大谷翔平選手が野球に興味を
持ち始めるに始めるのには時間はかからなかった
ようで直ぐに自我が目覚めた少額低学年頃には
興味を持ち始めたようです。
父親と共に小学2年生の秋頃に地元にある硬式
リトルリーグのチームへ見学に行き、入部を決め
野球を始めたといいます。
大谷選手はリトルリーグ入部前から父親とよく
キャッチボールをし、週末も親子一緒にグラウンドに
出かけ練習を重ねるなど野球にのめり込むように
なっていきます。
もちろん横浜から岩手に引っ越したり環境も大きく
変わった事もありますが7歳年上で現在もトヨタ自動車
の実業団で活躍する兄の龍太さんも野球少年だった事から
父親の徹さんは、翔平さんとの二人三脚と兄とを比べて
『翔平と比べて長男には構ってあげられなかった』
と発言する程、同じ野球少年を息子に持ってもその
力の入れようは明らかに末っ子に軍配は上がって
いたようです。
小学校時代は息子の野球チームの監督を、中学時代に
所属したシニアリーグではコーチを務めた徹さんは、
父親兼指導者であり、大谷選手の少年野球時代の
成長を大きくサポートすることになります。
プロ入りしてから話題となった通称「野球ノート」
という父と子の野球における交換日記が2人の二人三脚を
支えたことはよく知られています。
「野球ノート」は徹さんがその日の評価やアドバイスを
書き、翔平選手は試合の反省やこれからの課題を書き、
小学5年生まで続いたといいます。
書き込まれた言葉の中でも、大谷選手が今も大事に
している父親徹さんからの3つの教えは
★「大きな声を出して、元気よくプレイする。」
★「キャッチボールを一生懸命に練習する。」
★「一生懸命に走る。」
(東洋経済オンライン)
この3つは野球の基本ですが、野球に取り組む時の
意識づけや練習姿勢のあり方として長く大谷選手の中に
生き続けるものとなったようです。
投打の技術にも、徹さん自身の社会人野球の経験に
基づいた細かなアドバイスやバッティング理論が
根付いており、翔平選手の意思を尊重する教えが
貫かれていました。
投手と打者を両立する「二刀流」選手としての基礎は
ここでできたものといえるでしょう。
自宅には野球を持ち込まず、家庭では一緒に風呂に
入るなど、普通の父親でいることに徹し、成長期の
翔平選手をあたたかく見守る父親の期待に応え、不断の
努力を惜しまなかった野球少年大谷選手は大きく
飛躍していくことになりました。
大谷翔平の逸話がまさに怪物
今更ながらですが大谷翔平選手の怪物たる逸話は
数々ありますが、学生時代にさかのぼり主なものを
あげると次のようになります。
★早すぎて取れないストレート、川まで飛ぶ大打球
(小学リトルリーグ・中学リトルシニア時代)
平均90キロ程度と言われれる小学5年生で、既に
110キロを投げる剛腕ピッチャーだった大谷選手の球を
受けることは捕手が恐怖を感じるほどだったといいます。
小学生にして剛速球投手だったことがわかります。
また中学でのリトルシニアではグラウンドが河川敷に
あったため、規格外のバッティングをする大谷選手は
練習で70m離れた川に、どんどん打球を飛ばしていた
というから驚きです。
ボールがなくなってしまうため、監督から「引っぱり禁止」
の命令まで出たと言います。
★伝説の高校生最速160キロ達成
大谷翔平選手の花巻東高校3年生時代の岩手県大会
(2012年夏・準決勝)で球速160㎞超えを記録し、プロ
顔負けの堂々たる投球を全国に知らしめることとなりました。
高校2年生からメジャーで二刀流を目指すことを
決めていたというから凄いですね。
野球の本拠地アメリカでも投打にスーパー級の働きを
見せる大谷選手は、メジャーでも小さい時からの父の教えや、
恩師・仲間から学んだことをしっかりと胸に刻み精進して
いるといいます。
★大谷翔平は睡眠王
高校時代の監督が野球向きの体を作るために、しっかり
睡眠をとるように義務づけ、大谷選手専用の睡眠部屋が
用意されていたそうです。
夜9時に必ず睡眠、一度寝たら絶対に起きないとか。
やっぱり大物のようですね。
大谷選手のメジャーでのホームランや、投球場面での
さわやかな笑顔はいつもおだやかで印象的ですが、大舞台に
いてもおごらずいつまでも野球少年のような誠実な姿勢に
とても好感が持てます。
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おわりに
今や日米を通して知らない人が居ないレベルの活躍ぶりをする大谷翔平ですが、やはりその陰には才能ある彼を陰に日向に支えて二人三脚してきた両親や周囲の存在があった事が分かります。野球を始めた幼い頃からの見込みが早く、直ぐに身に付け大人顔負けのプレーをしたと言う大谷翔平さんですが、やはりその才能溢れる彼の特徴をもっともっととのびのびと最大限まで伸ばせるよう後押ししたのも両親の力添えのおかげでしょう。どちらにしろ規格外の存在である大谷翔平のサクセスストーリーはまだ始まったばかりです。
故障明けの今季コロナウイルスが収束した後の彼のメジャーでの活躍が今から楽しみですね。
何しろ日本にいた方がずーっと稼げたにも関わらず一刻も早いメジャー行きを選んだ大谷翔平です。これからの大化けが楽しみな選手なのは間違いないでしょう。
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