代表的な作品は『太陽の塔』を作品に持ち
「芸術は爆発だ!」などで有名な芸術家
岡本太郎さん。
彼の生い立ちを調べてみれば、両親とも漫画家や
作家という特殊な職を持つ人物で又自由奔放な逸話を
数々残されてきた人物として語られています。
岡本太郎の感性が育つ根幹が少し見える気がします。
放蕩な父とあの時代に生まれ一妻多夫を許し実際に何十年もの
間実践していた家族と母かの子の生活を生い立ちから
追ってみようと思います。
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岡本太郎ってこんな人
岡本太郎は、日本を代表する現代芸術家であり
多くの名言も残しています。
その作品は渋谷駅に恒久展示されています。
渋谷マークシティー連絡通路に飾られた巨大な
一枚の壁画が、岡本太郎の「明日の神話」
という作品です。
1970年の大阪万博で発表された「太陽の塔」や
1980年代にCMでも流れた「芸術は爆発だ!」や
「何だ、これは!」という言葉など含めて
「名前だけなら」「そのフレーズだけなら」
と少しだけでも記憶にある人は多いのでは
ないでしょうか。
岡本太郎の生い立ち~放蕩な父岡本一平
岡本太郎は、1911年に神奈川県川崎市で
漫画家の父岡本一平と、歌人で小説家の母
岡本かの子の長男として生まれています。
その後弟と妹も生まれたそうですが、2歳
くらいの時に亡くなっているという話もあります。
両親は非常に放蕩というか放任であり、世間的
愛情が欠けていたといいます。
その岡本家には子供の居場所はなく、岡本太郎も
不登校児となり何度も小学校を変わり、太陽だけ
が唯一の話し相手で、「太陽は身内だ」と言う
とても不思議な思想を持った少年だったそうです。
父親一平は「元祖漫画家」とも呼ばれる漫画家です。
今では普通に目にする機会がある漫画のタイプの
一つ「4コマ漫画」のスタイルを生み出した人物です。
元々は新聞や雑誌の記事に添える風刺画を描くことが
仕事でしたが、ライターがその絵にコメントを添えて
いたのを知ってから、自らがコメントを書き込むように
なったのだとか。
そして当時はストーリー性などは持たせて
いなかったところへ、1枚の絵+コメント
だったところを4枚に増やし、起承転結を
持たせてストーリー性のある「4コマ漫画」
スタイルを作ったそうです。
人気漫画家として名をあげてからの一平は
妻かの子をないがしろにするように放蕩を始め
そこらじゅうで浮気をしていたと言われています。
今でいう飲む買うと言った放蕩ぶりで金銭感覚も
宵越しの金は持たない~のそのままの人物像だったと
言われています。
岡本太郎の生い立ち~超絶お嬢様の母かの子
対する母親かの子は、代々幕府や諸藩の御用達を
業としていた豪商の大貫家に生まれ、今でいう所の
超お嬢様として恵まれた環境の中育った筋金入りのお嬢様。
かの子は小さな頃から週に一度は芝居に連れて行かれ
琴を習い、短歌を詠んでいます。
絵にかいたようなお嬢様だったようです。
若かりし頃の両親と真ん中太郎氏。
19歳で一平に出会い、その後21歳で結婚しましたが岡本家の
家人からは認められず、二人での居を構えていたそうです。
母かの子には愛人が居ましたが、一平は
「好きなら連れてくれば?」
ということで、岡本家に同居させてしまいます。
ただ、これは当時のかの子の精神状態を心配しての
ことだと言われています。
父一平の放蕩ぶりや芸術家同士の強い個性の
衝突による夫婦間の問題、かの子兄の死去、翌年
続けてのかの子母の死去などから、かの子は
精神科に入院したこともあったそうです。
その退院後に作った愛人青年を一平許可の元
同居することになったそうです。
岡本家の1階に岡本家族、2階に愛人青年、そこを
妻かの子は往復するという、奇妙な生活を
していたのだとか。
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岡本太郎の仰天一妻多夫な共同生活
その後、愛人青年が病死した後にもかの子の
浮気は続き、痔の手術で入院した先の医者と
関係を持ち、また家に連れて来る、また別の
若い男も家に連れて来るという一妻多夫状態に
なったといいます。
一平の漫画が売れた後は、そのお金でパリへと
渡りますが、その時のメンバーも一平と愛人二人と
太郎の5人だったそうです。
その時、太郎はパリに置いてけぼりに
されたとも言われています。
1939年にかの子は夫と愛人に看取られながら
亡くなったそうです。
棺の中には夫一平から、溢れんばかりのバラの
花が敷き詰められたといいます。
またパリで訃報を聞いた太郎は、父宛の
手紙にこう綴ったそうです。
「お母さんのそばに近づくものは、お母さんの情熱に焼きつくされずにはいなかった。お母さんは本当にただ事ではない美しい人生を生きおおせました」
後に岡本太郎は、母についての
コメントも残しています。
「母親というものを持った覚えはないよ。だけど、あれだけ生々しく女で、濃厚に”女”として生きた女性と暮らしたのは誇りだ」
と、太郎は太郎なりの納得の仕方をしていたようです。
父はとにかく子供には無関心、母も育児や
家事にはまったく疎く苦手で、だから太郎は
幼い頃から放りっぱなしの状態であり
「母親としては稀代の不器用で母らしからぬ母だった」
とも残しています。
母方の親戚も
「太郎はよく無事に育ったものだ」
と噂するほどだったとか。
大地主の長女に育ったがゆえ、ありあまる
教養とは真逆に、誰かの世話をすることは
まず不得手だったという事なのでしょう。
それで済ませて良いのかは疑問がありますけれど。
浮世離れした超絶お嬢様だったにしても~凄すぎる
生涯を全うした岡本かの子が凄すぎます。汗
そしてそんなかの子の愛人を容認した夫一平も
デカすぎる愛にもはや通常の夫婦間の愛情を凌駕
した関係だったのだな~と思いますね・・・
子供にとっては非常に危険水域の刺激の強い母親
だったでしょうが、それでも彼女からの才能も本能も
岡本太郎はやっぱり頂いたのかもしれない~と思えるから
不思議ですね。
岡本太郎さんの「自分の中に毒を持て」の一文で
とても印象的な言葉があります。
死なないようにリスクを避けて生きるのではなく、瞬間瞬間に命を捨てる生き方、自分自身と闘う生き方、自分を他人と思い他人を自分と思う生き方「幸福」ではなく「歓喜」を追求する生き方
どこかこの言葉に通じるものを母親かの子の生き様から
学び影響を受けていたのかな~と思う太郎さんらしい
情熱的な言葉に聞こえますね。
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おわりに
これらの話は、ドラマ『TAROの塔』で語られたりもしましたね。鬼才岡本太郎の根幹を作ったのは祖父と両親だと言われます。こういう家庭だったのなら、常人と違う感性が育つのも納得、なのでしょうか。芸術家岡本太郎を育てたと言えば聞こえは良いかもしれませんが、可愛そうな子供という感想からは逃げられないようにも思えます。
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