フリーダカーロの生い立ち~悲惨過ぎる事故と愛した夫と自画像まで

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フリーダカーロアイキャッチ

濃く繋がった眉毛の特徴が強い美しく強烈な
印象の自画像で知られる作品の数々は死して尚
人々の心に強く印象的な彼女の激動の人生を
表しています。

少し怖く、悲しい印象を受ける自画像を
多く残す、メキシコの画家フリーダカーロ。

彼女の生い立ちから悲惨すぎる事故を切っ掛けに
画家を目指し、離婚しても2回目の結婚をした
愛する夫のことなど、調べてみました。

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フリーダカーロの生い立ち~画家フリーダに影響を与えた父親

 

フリーダカーロは1907年にメキシコで生まれ
メキシコの現代絵画を代表する自画像画家として
知られています。

メキシコシティ近郊にあるコヨアカンという地域で
三女として生まれました。

両親が建てたフリーダの生家「青い家」は現在
フリーダカーロ記念館として公開されています。

 
フリーダの母親は出産の影響で体が衰弱し、幼年期は
乳母によって育てられ母親の愛情とは疎遠であったといいます。
 

フリーダは6歳の頃、急性灰白髄炎(別名ポリオ)
にかかり、9か月ほどの寝たきり生活を強いられた
といいます。

この影響で右腿から踵にかけて成長が止まって
やせ細り、これを隠すためにズボンやロングスカート
を好んで着用していたといいます。

父親はフリーダの脚が元に戻るようにとスポーツを
習わせたそうですが、脚が元に戻ることはありません
でした。

またリハビリを兼ねて、父親はフリーダをよく
ハイキングに連れて行き、そこで父親の趣味で
あった水彩画やカメラの手ほどきをしていたといいます。

この経験が後に画家となるフリーダに
大きな影響を与える事になったそうです。

フリーダカーロを襲った悲惨の事故から画変へ~

 

1925年に通学バスが路面電車と衝突し、多数の
死傷者が出る事故が発生しました。

不幸な事に通学途中のフリーダもそれに乗っていて
生涯苦しむ程の重傷を負う事になります。

フリーダは血まみれの半裸状態で、鉄棒に突き刺された
状態で発見され、背骨、肋骨、骨盤、鎖骨は砕け、右足は
つぶれ、鉄棒は左臀部から膣を貫通して腹部に深い傷を
残し生死の境を彷徨ったといいます。

3か月の間ベッドの上での生活を強いられ、数か月も
ギプスやコルセットや牽引で固定されて、その後も
事故の後遺症で背中や右足の痛みに耐えず悩まされ
続けたそうです。

 
その時に両親はフリーダが絵を描くことを応援し
寝たきりでも使える特注のイーゼルを贈り、フリーダ
自身をモデルとして描けるようにベッドの店外に
鏡を付けていたそうです。

これが生涯発表した200点以上の作品のうち、大半を
占める事になる自画像作品の始まりとなりました。

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フリーダカーロが愛した夫と壮絶な裏切り

 

1928年、やっと回復したフリーダは芸術家たちの
集う活動サークルに参加し、メキシコで一番の画家
ディエゴ・リベラと出会います。

 
闘病中に描いた自身の作品をみせ、リベラに意見を
求めるなどして親睦を深め、二人の仲は急接近して
翌年には結婚します。
ディエゴ
リベラはフリーダの21歳年上でした。

 
その翌年にはフリーダが身ごもりますが、事故の影響で
骨盤や子宮に損傷を受けていた事から流産となってしまいます。

その後、1932年、1934年にも流産してしまったそうです。

これらの出来事はフリーダに深い影を落とし、その後の
作品に大きな影響を与える事になりました。

 
1935年、夫リベラが妹のクリスティナと関係を持った
ことにショックを受けたフリーダはメキシコシティの
南郊外サン・アンヘルに建てていた家から出ていきます。

メキシコシティ中心街に居を移します。

この年発表した『ちょっとした刺し傷』はこの時の
フリーダの心理状況を反映していると言われています。

 
その他の多くの自画像作品も、描いた当時のフリーダの
心境を描いた物が多くあります。

そしてその多くが悲しい絵だと感じてしまいます。
 

同年の終り頃には家に戻ったフリーダでしたが、夫リベラ
への当てつけのようにアメリカ人彫刻家イサムノグチと
関係を持ちます。

また1937年にメキシコへ渡ってきたノルウェーが
モスクワの外圧によって追放した革命家レオ・トロツキーと
妻ナタリア・セドヴァを彼女の家「青い家」へ迎え入れ、1939年
まで住居を提供し、フリーダとトロツキーは短い間ながら
関係を持っていました。

 
1938年にはフリーダにとって初の大規模個展を
催すことになり、ここで様々な人々からの評価を得ます。

フリーダ本人は評価に対して困惑を隠せずに居たそうです。
 

1939年に映画俳優のエドワード・G・ロビンソンが
フリーダの絵を大量購入したことを切っ掛けにアメリカでも
フリーダの成功を驚きをもって報道され、多方面の著名人から
絵の注文が舞い込むようになります。

 
フリーダの成功と、精力的な活用により次第に夫婦間は
冷めていき、1939年11月にはリベラとの離婚が成立します。

フリーダはその翌年には再び脊椎の痛みに悩まされ始め
右ても急性真菌性皮膚疾患にかかり、サンフランシスコで
治療を受けることになります。

 
健康状態が安定したころ、フリーダは経済的に
自立させる事、性的関係は結ばない事などを条件に
リベラへ再婚の提案を行い、二人は2度目の結婚をします。

 
1940年代の終り頃には、フリーダの健康状態は悪化し
入退院を繰り返し、1950年には右足切断手術も行われました。

その後も回復する事はなくベッド上で特製イーゼルを
使っての絵画制作していましたが、鎮痛剤なしでは
生活もままならなくなり、彼女の特徴でもあった緻密な
テクニックを駆使した作品を作ることは難しくなったそうです。
 

1954年、ついにフリーダは肺炎を併発して47歳の短くも
壮絶な人生を終える事になります。

日記に自殺の事がたびたび出ている事や、前夜リベラへ
まだ1か月ほど先であるはずの銀婚式の贈り物を
手渡していたことなどから自殺ではないかという
憶測も流れたようです。

 
条件をつけつつも再婚し、自身が亡くなる時(銀婚式直前)
まで添い遂げた事から考えても、夫リベラには確かに
愛情があったのでしょうね。

有り余る才能を持ちながら数奇な運命によって不幸な大惨事とも
言える事故で身体の自由を奪われ、最後まで激痛よ闘ってきた
フリーダカーロ。

そんな中でも決して最後まで人生とディエゴを愛することを
諦めなかった彼女の唯一無二の才能と生命力が他の誰にも真似の
出来ない自画像となって強烈な魅力を放っています。

怖いけど目を反らす事の出来ない、まるで彼女が逆らう
事の出来なかった人生が運命だったかのように~

生涯に30回もの手術を受けて最後は耐え切れない痛みに
苦しみながら鎮痛剤の効果も無くなり膝まで右足を切断した
後にフリーダはこういったと言います。

「飛ぶ為に翼をもっていれば、どうして足など必要だろうか」

そしてフリーダが亡くなっ後に出てきた日記には
こう記されていたのです。

『ディエゴに感謝、そして愛する全ての人の為に生きようとする
私の途方も無い意思に感謝』

自画像
最後に描いた絵『スイカ』にはこう記されていました。

VIVA LAVIDA

人生万歳!

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おわりに

沢山の自画像が知られるフリーダですが、有名なものは少し悲しく怖い絵が多いです。健康面での理不尽や不自由を感じての事なのかもしれませんね。夫のリベラも妻の妹と浮気してた事はいただけませんが、2度目の結婚から銀婚式間際まで添い遂げて支えていたそうですから、彼の存在が少しは救いになっていたのでしょうか。検索すればフリーダの作品のサンプル画像は見つかると思いますので、皆さんも少し覗いてみてはいかがでしょうか。

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