十代と言う若い頃のデビューから瞬く間に
大女優へと駆け上がった伝説の女優原節子。
彼女が42歳と言う若さで事実上の女優引退
をするまでの若い頃からの生い立ちに美貌の
母の悲劇があった事。
生涯独身で結婚もしなかった女優原節子。
唯一愛した男と言われる小津安二郎との別れ
の理由など当時の昭和初期にハーフと言われる
程の美貌を誇った原節子の生い立ちから晩年まで
を追ってみようと思います。
原節子プロフィール
氏名:原節子(はらせつこ)
本名:會田昌江(あいだまさえ)
生年月日:1920年6月17日
没年月日:2015年9月5日(95歳没)
出身地:神奈川県横浜市保土ヶ谷区月見台
身長:165㎝
職業:女優
ジャンル:劇映画
主な作品:映画「わが青春に悔いなし」(1946年黒澤明監督)
・「青い山脈」(1949年今井正)・「晩秋」(1949年小津安二郎)
・「麦秋」(1951年小津安二郎)・「東京物語」(1953年小津安二郎)
など。
原節子の生い立ち~美貌の母の悲劇と共に
昭和の名女優、原節子は42歳であっさりと
華やかな女優業を引退し、そのまま隠遁生活に
入った希代の女優として今も語られています。
生涯独身だった彼女にまつわる伝説ともいうべき
恋愛や生い立ちが少しずつ明らかになっています。
彼女の栄華を極めた女優人生とはうらはらに、
その生い立ちには暗い影があり家計を支える
ため女優になったことが伝わっています。
原節子は2男5女の末っ子として、横浜市
保土ヶ谷区に生まれます。
父親は日本橋で衣類関係の問屋を営み、景気も
良く学生時代の原さんもきれいで頭も良くお嬢さん
育ちだったようです。
父親は生糸問屋の4代目で裕福な家庭でしたが
1929年、ニューヨークの株価暴落で起こった
世界恐慌で生糸の輸出が振るわなくなり、経済的に
家業が傾き一家は苦しくなっていったといいます。
母親は関東大震災の時、沸騰した状態の油を
頭からかぶる事故にあい、頭髪が抜け容姿も
激変したのでしょう。
その不慮の事故が原因で精神を病んでしまった
そうです。
原さんが、まだ3歳の頃で、母親は小町といわれる
美貌だったそうですがこれにより普通の母では
なくなり白い服を着てウロウロするので座敷牢の
ようなところに閉じ込めていたと言います。
彼女が物心つく頃には既に普通の母親とは言い難い
状態だったと言います。
母の普通とは違うその様子を少女時代の原節子は
『お母さんがうわ言をブツブツいっているの』と
と悩む姿もあったと言います。
原節子の女優デビューは家族の為に
家計も傾き不運が重なり、節子さんもいつも同じ
服を着るようになり横浜女学校に進みましたが、
家計が苦しく2年で中退します。
本来の彼女の夢は教師になる夢を持っていたと
言うのだから、腹節子さんの場合は女優などに
憧れを持ってなったと言うより家族の為に渋々
背に腹は代えられない状態で女優の道を選んだ
と言うのが真相のようです。
傾いていく家計を助けたいという思いで、
叔父の後押しから14歳の時原節子さんは
女学校を退学し映画界に入りました。
彼女は育った保土ヶ谷区を去って、姉の
嫁ぎ先の熊谷久虎家に身を寄せて生活し
始めます。
映画界デビューは当時、新進気鋭の映画監督
だった義兄・熊谷久虎氏の強い意向が女優
デビューへのきっかけになったといいます。
当時の日本映画は無声映画からトーキーへの
過渡期で、女優のニーズが高かったこともあり
原さんは時代劇などに起用されることになります。
彼女には清楚で女学生的な雰囲気があり、小柄で
庶民的な愛らしさが目を引くなど、ヨーロッパでも
通用する美しさがあったといいます。
日独合作映画の主演も務め、『新しき土』では
富士山や安芸宮島など日本の美しい風景と共に、
伝統と近代化の日本の象徴として誇り高い
日本女性の姿が彼女を通して描かれ人気を得、
トップ女優に成長していきます。
原節子と小津安二郎は恋仲の男性遍歴
昭和15年頃、原節子20歳前後の時彼女が
結婚を望んだとも言われる男性が、当時
助監督をしていた青年、小津安二郎氏だった
といわれています。
小津安二郎氏は東宝の同僚で脚本を書きながら
助監督をしており(後に監督)、当時はまだ
無名で目立たない存在だったそうです。
東大で美学を学んだという異色の経歴があり、
地味で誠実な人柄に節子さんは夢中になり
やがて恋仲になったといいます。
小津安二郎氏が姉夫婦と暮らしていたと言う
下宿先での逢瀬が重なることとなったのですが、
やがて会社や義兄である熊谷久虎氏の知るところ
となり反対を受け、なんと小津氏が東宝から
追放の身となってしまいます。
小津氏は女優原節子さんの将来を思いやり、
戦後も長く2人の関係を公に語らなかった
といわれます。
原節子さんは彼女に関する本や記事の中で、彼女が
小津安二郎氏のことが大好きで、彼が亡くなった
ショックで引退したなどとも言われていますが、
彼女の一生に一度の熱烈な恋愛として現在に
伝わっています。
事実、正式に女優引退を表明していない原節子
ですが、この元恋人小津安二郎が1963年ガンで
亡くなるのですが公の場で姿を見せた最後がこの
小津安二郎の葬儀の場だったと言います。
人目もはばからず声を上げて泣いたと言う大女優
原節子をその後、女優引退の告知も無いまま僅か
42歳で、まともに世間に顔を見せたのは21世紀までの
間で2~3回のみだと言われています。
それほど小津安次郎は原節子にとって唯一無二の
存在で特別な男性だったのでしょう。
では何故、そこまで特別な男だった小津と
添い遂げなかったのか?不可解で仕方
ありません。
そこには彼との交際にも大反対し映画界から
追放する程の拒絶反応を見せ、あらゆる異性から
原節子を避けさせと言われる叔父の熊谷久虎の
存在があったといいます。
原節子の結婚を阻んだ熊谷久虎との奇妙な関係
義兄である熊谷久虎が原節子を映画界に
引き入れ、また恋人だった小津安二郎氏との
縁を切るよう説得。
常に妻の妹である原節子の結婚を阻み
その最後まで影響を与えた人物として
名が出ています。
熊谷氏は小津氏に「助監督風情が」と激怒し、
義妹である節子に近づこうとする若い男たちを
全て排除していたというから驚きです。
熊谷久虎氏は映画監督で、戦前の映画界で
大きな力を持っていた人物でした。
彼は京都の日活撮影所に入社し時代劇の監督を
していましたが、会田光代という女優と結婚し
後に東京に移ります。
その会田光代こそ原節子の実の姉だったのです。
妻の光代の実家にいた光代の妹である昌江(原節子)
に女優になることをすすめたのが熊谷氏でした。
彼女の14歳でのデビュー後も、ずっと彼女の
後見人を務めており、日中合作映画完成時、彼女に
付き添う世界一周旅行にも出かけ、原節子を海外でも
有名にしました。
原節子は熊谷氏には従順で慕っており、元恋人である
小津安二郎氏死後、1963年から彼女は姉夫婦の鎌倉の
家に移り同棲生活をしています。
その後、晩年まで姉夫婦らと共に同じ敷地で
暮らします。
原節子は熊谷久虎に洗脳されていた?
想い人と別れる事を強いられても尚も姉夫婦
とその夫の熊谷久虎との縁を切るどころか益々
関係を深くするその様子は義兄にして男女の関係
があったのでは?
と噂された程だったと言われています。
よもや姉の夫と、原節子に限ってそんな話は
無いだろうと思うものの、それでも状況からして
当時の原節子の義兄らとの関係は尋常ではなく
幼い頃から女優として義兄を頼ってきた原節子は
精神的にかなり依存したいたのは確かなようです。
原節子の人生を作った立役者とでもいうべき
熊谷久虎氏は、戦後は監督としてあまり振るわず
映画界では本人が思うような活躍が叶いませんでした。
そうした想いから映画界を逆恨みしていたとも
言われており、時を同じくして銀幕のスターとして
活躍していた原節子が女優業をひっそりと辞めた
時期と重なるのです。
右翼的な活動で知られた存在だった熊谷久虎は
その自分の思想から時の戦中に作成された戦意
高揚映画と言われる戦争万歳的映画にも原節子を
出演させています。
・「ハワイ・マレー沖海戦」(1942年)
・「望楼の決死隊」(1943年)
・「勝利の日まで」(1945年)
この全ての作品に原節子が出演した事と義兄
熊谷久虎の影響がない訳はなく、敗戦後の原節子は
日本軍に協力するような戦争映画に出演した事をその後
晩年まで悔いており、そうした経緯から映画界を更に
嫌いにさせたとも言われているようです。
熊谷は1986年に82歳で死去、その翌年には後を追う
ように姉が死去しています。
でもその後も彼女は熊谷久虎の子供らと共に最後まで
熊谷久虎の子供らと同じ家に住み続けたと言います。
数奇な運命をたどった原節子は義兄熊谷久虎によって
映画界と言う華やかな世界に若くして身を投じ、そして
映画界から去る時も義理兄らの影響を最後まで受けて
身を引いている事から原節子に多大なる影響を与えて
いたのは間違いありません。
その様はまさに洗脳をされていたかの如く多大なる
影響を受けたと言えるでしょう。
原節子の晩年
原節子さんは2015年9月、肺炎で亡くなっています。
亡くなって2か月半そのことは公表されず、彼女は
半世紀以上もの隠遁生活を経ており95歳でしたが、
神奈川県鎌倉市内の住宅地でひっそりと晩年を
過ごしていたようです。
8月に猛暑で体調を崩し入院しており、そのまま
親族に看取られ息を引き取り、本人の意向で死は
公表されていなかったといいます。
原さんは取材などにも応じず、公に出ないことで
知られていました。
10代で銀幕デビューして以来、名作に出演し国民的
女優となった原節子さんは、巨匠小津安二郎監督が
1963年に亡くなり、その葬儀に出席し喪服姿で号泣
したのを最後に表に出ていません。
小津監督も生涯独身で1963年にガンで死ぬまでは
鎌倉に住んでおり、原さんと自宅が徒歩圏内で
亡くなるまで付き合いがあったとされています。
彼女は80代の頃までは散歩が趣味で、鎌倉市内でも
見かけられていたようです。
表玄関から出てくることはなく、外出時は裏口を
使い人目を避けて子道を抜けて行ったとか。
(エキサイトニュース)
「40歳で引退したい。」
「誰にも気づかれぬように消えていきたい。」
と親しい人に話していた。
(評伝「原節子の真実」石井妙子著、新潮文庫より)
といいます。
映画最盛期の時代に銀幕のスターとしてハーフ張りの
美しい容姿からスターとなった原節子は、女優らしからぬ
パーティーなど、お呼ばれの席に出向く事は無くイブニング
などのドレスを作る事もありませんでした。
アクセサリーでさえ、付けているところを見た事が
無いと言われる程飾る事や華やかに装う事に興味を
示さなかった原節子。
彼女の人生は、家族や親族を支える為に女優になり
戦中戦後の貧しい日本でも20人余りの親族を支える
為のみに女優として多忙な日々を送った、と言うのが
真相なのかもしれません。
そうでなければ、女盛りの42歳で忽然と女優と
して人々の前に姿を見せる事なくひっそりと
余生を過ごした彼女の人生に説明が付かないと
さえ思えます。
伝説の女優、原節子さんの引退後の生活は見えにくい
ままですが、それによって輝かしいスター原節子の
姿が今なお人々の中に存在するのでしょう。
|
おわりに
原節子さんの生い立ちは父親の仕事が振るわず、母親は美貌を奪われる事故という不運に見舞われ、女優業も自身の夢というわけではなく家計のために選んだ道だったことに驚きます。
小津安二郎監督との相思相愛の恋が引き裂かれることになりましたが、生涯独身であった原さんはやはり小津氏が忘れられなかったのかもしれません。原さんは日本を代表する女優としてプライドを持ち続け、美しい女優時代を自ら封印しようやく静かに自由な世界に降り立ったといえるでしょう。
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