宮沢りえと言えば若い頃の可愛いさは誰もが認める可愛いさで10代での写真集サンタフェは150万枚を売るなど伝説となる写真集を発売し話題となりました。
その立役者として娘をプロデュースした人物こそ、実の母親であり一卵性親子と呼ばれて常に話題だったりえママの存在があります。
若い頃のりえママの生い立ちから最期までとそんな母に翻弄されながらも、芸能界で今や一流女優として活躍する宮沢りえ。
彼女を形成するに欠かす事の出来ない母親光子と親子の生い立ちの、波乱万丈な現在までと生き馬の目を抜くと言われる芸能界の世界で娘を大成功に導いた手腕や毒親と呼ばれるまでを追ってみようと思います。
宮沢りえプロフィール
名前:宮沢りえ
生年月日:1973年4月6日48歳(22年1月時点)
出身地:東京都練馬区
身長:167㎝
血液型:B型
デビュー:1985年
職業:女優・ファッションモデル
宮沢りえ二卵性親子と呼ばれた母子
女優の宮沢りえと言えば、1984年11歳の頃に、雑誌 『週刊セブンティーン』(当時)の表紙モデルや、その後本格的デビューとなりテレビCM『三井のリハウス』の初代リハウスガール“白鳥麗子”役で注目を集め、その美貌でトップアイドルとなり、女優としても芸能界の第一線で活躍し続けています。
宮沢りえの母親は、愛称「りえママ」こと宮沢光子さんで、デビュー時から宮沢りえのプロデュースとマネジメントを担当し、敏腕マネージャーぶりを発揮するも、その強引さと年頃の娘に対する大胆な発想や手腕から毒親と呼ばれる事も。
二卵性親子と呼ばれ、世紀の美少女と言われた宮沢りえを世に出し、自らの手で思いのままにプロデュースし売れっ子女優へと導いた敏腕マネージャーでもあった宮沢りえを文字通り形成した母宮沢光子さんとは一体どんな人物だったのでしょう。
女優宮沢りえを語る上では欠かせない母親、宮沢光子の過去を追ってみましょう。
宮沢光子の生い立ち~奔放な過去
宮沢りえさんの母は宮沢光子。通称は「りえママ」で、1949年頃の生まれで、2014年9月23日に65歳の若さで亡くなりました。
光子さんの出身も、娘のりえさん同様東京出身で、5人兄弟の末っ子だったといいます。
父親の喜一さんは、絵描きを目指し、戦後商業デザイナーに転じて成功したそうですが、母親は家を出ており、途中から父子家庭となりました。
戦後生まれでありながら裕福な家庭育ちだった光子さんは幼い頃、バレエと水泳を習い才能もあったそうですが、どちらも「女は家庭に入るもの」という父親の反対にあい、本格的に極められなかったそうです。
若い頃の宮沢光子さんはタバコを吸うことと飲み歩くことが大好きな奔放な女性でした。
そんな彼女は、保守的な父親と性格が合わず高校を卒業後、実家から出て、当時としても高身長だった166㎝で長身で美人と呼ばれる容姿を活かし六本木でホステスをして生計を立てるようになります。
若い頃の宮沢光子さんとお付き合いのあった加賀まりこさんは
「宮沢りえちゃん以上の美貌でバレエをしていたからスタイルも良くてね、周囲の男性全てに憧れられる、人形のようにものすごく美しい人だった」と語っています。
一説には女優を目指した事もある程、その美貌は際立っていたといわれています。
光子さんの性格は時々お客さんに因縁をつけたりなど、対人関係でトラブルを起こしたりもしたそうですが、その美しさで人気が出、光子さんはホステス時代にオランダ人の男性と出会い、後に結婚します。
宮沢りえの生い立ち~誕生と波乱の幼少期
男女の仲となり妊娠し、宮沢りえを身ごもった当時、相手がオランダ人と言う事もあり直ぐに結婚の手続きができなかったのでしょう。
出産当時の光子さんはシングルマザー状態でした。その為、出産後すぐにオランダに帰国した父親を追って光子さんは単身オランダへ、幼い乳飲み子だった、りえは自らの姉と当時タクシー運転手をしていた父親に預けてオランダへ飛びます。
光子さんと、りえの父親になるオランダ人男性は故郷であるオランダで暮らしますが結局、オランダ人男性側の家族に認められる事がなかったのか、オランダでの生活に馴染めなかたったのか数ヵ月で離婚します。
元々の光子さんの性格からして、忍耐や我慢と言う概念が薄い女性だったという事から、尚更抑制されたような状態の異国の国での生活は耐えず洛早々に見切りを付けて離婚を決意した可能性もあります。
当然この流れから宮沢りえさんは実父と対面する事はなく、オランダ人と日本人のハーフとなります。雑誌のインタビューでオランダ名が「リー・マム」で「leeeとeが三つだから間違えないで」と発言していました。
りえさんは小学生まで伯母に育てられ、母親と暮らすことを夢見ていたといいます。
宮沢りえの生い立ち~デビューまでの生活
オランダ人の父と、ホステスの母親光子さんの間に生まれた宮沢りえですが、母子家庭で幼少期から叔母や祖父らの親戚に預けられ、 母親とは長らく別居の生活を送っています。
ですが宮沢りえは、叔母一家の温かい愛情のもとですくすくと素直に育ちました。
この頃が一番幸せだったとも言われる程、愛情たっぷりの落ち着いた生活を送っていたと言われています。
その後、1976年1月、母親の宮沢光子さんは、ピアニストの小沢典仁さんと再婚し、宮沢りえと3人で暮らしますが、3人の生活は上手くいかなかったそうです。
幼い、りえさんは継父に懐くことはなかったといいます。宮沢光子さんと継父である小沢典仁さんはともに夜に仕事をしていました。
夜間、一人ぼっちのりえさんは寂しい思いをしたといいます。
1977年、宮沢光子さんは小沢典仁さんとの間に男児を出産しますが、宮沢光子さんは翌年に離婚、りえと父親違いの弟は小沢さんの元育てられ、その後は母子2人の生活がはじまります。
当時から、あまりにも可愛かった宮沢りえを周囲のススメもあり自身の叶わなかった芸能界へのデビューを決意することで母光子氏の人生の目標がここで新たに設定しなおされたのかもしれません。
さっそく芸能界の世界へと足を踏み入れた宮沢りえさんは、小5でモデルを始め、表紙モデルへ。
1987年14歳で三井のリハウスのCMで注目を集めてトップアイドルの道を歩みますが、母親の離婚続きの奔放な人生の傍らで生きてきたのがわかります。
宮沢りえの母光子が娘に見た夢と野望
宮沢りえさんは11歳のときにモデルデビューします。
雑誌『週刊セブンティーン』の表紙モデルを飾ったり、彼女のその後の人気を決定付けたのがCM『三井のリハウス』の初代リハウスガール「白鳥麗子」役を務めたり、トップアイドルの1人となりました。
人気絶頂の宮沢りえさんは、僅か16歳のときに撮影し当時センセーショナルに話題となった『ふんどしカレンダー』。
その後も撮影時は17歳だったにも関わらず母親光子さんのプロデュースによって決定し「1番綺麗な時にこそヌードを」と母親自ら提示したという誰もが知る写真家、篠山紀信さんによるヌード写真集『Santa Fe』を18歳当時に出版し150万部のベストセラーを成し遂げます。
これら全てを積極的に企画し推し進めた人こそ実の母親である光子さんだった事はあまりにも有名です。
敏腕マネージャーと言われ飛ぶ鳥を落とす勢いに、宮沢りえを唯一無二の存在としてスターに押し上げたのも、紛いもなく母光子さんの手腕あってこそ。
母親であり1番の理解者だと思っていたからこそ、まだまだ世間知らずで少女に過ぎなかった宮沢りえも、褌カレンダーもヌード写真集でも全てを許容して否定することなく受け入れていったと言われています。
こうして当時マネージャーを務めた光子さんの、有名芸能人や映画やドラマのプロデューサーなど娘宮沢りえを一流の芸能人へと強引に巻き込んでいきます。
本人が望むと望まざると関係無しに、母親の野望に満ちた戦略が見え話題になりました。
宮沢りえさんは当初、大手事務所に所属したそうですが、ブレイクするやすぐに母光子が個人事務所を設立、光子さんの姉とともに経営します。
光子さんは事務所「エム・ツー企画」を立ち上げて社長となります。そして、宮沢りえさんの仕事や恋愛など全てに口を出していたとか。枕営業も強要されていたと言う憶測まで流れたそうです。
いわれるがまま、仕事もプライベートも自由がなかったりえさんもかわいそうですね。
光子さんは、お笑いタレントのビートたけしさんなど大物芸能人などを巻き込み、娘が大女優になるためなら手段を選ばなかったため、毒親などとも言われました。
宮沢りえの母親は毒親と言われる訳
芸能リポーターの井上公造さんは、
「光子さんは、りえさんが一流の男性と付き合うことに固執したといいます。宮沢光子さんは宮沢りえさんの異性関係までコントロールしようとしました。光子さんには、一流の男性と付き合ってこそ、一流の女性になれる、という信念のようなものがあった」
と語っていました。
光子さんは、りえさんが選んだ相手との恋愛は決して許さず、自分の選んだ男性との交際を勧めるなどし、やがて毒母と化した母とりえさんに確執が生まれます。
りえさんが長く苦しんだと言われた摂食障害も、その母子関係が原因だったといえます。
1992年の「世紀の婚約」と言われた当時19歳の宮沢りえさんと貴乃花(当時・貴花田)さんの婚約も日本全国で話題になりましたが、結局母親の大反対から2ヶ月後に婚約解消を発表。
当時、貴乃花さんの母親である藤田紀子さんと光子さんは犬猿の仲になったとか。
その後も宮沢りえさんは男性との交際が噂になりましたが破局に終わっています。
話題を集めた歌舞伎役者で妻子持ちの中村勘三郎(当時・勘九郎)さんとの不倫や京都での自殺未遂騒動、歌舞伎役者の市川右近(現:市川右團次)さんらそうそうたる男性らとの噂も。
心身共にバランスを崩していく彼女は、拒食症に陥り激ヤセにもなりアメリカ・サンディエゴへ移住を発表、一時、芸能活動を休止しました。
後に回復し、徐々に芸能活動を再開しましたが、彼女の異性関係をめぐり母親が常にコントロールしようと過干渉し続けたことで彼女の受けた傷は大きかったといえます。。
宮沢りえが若かりし頃には先にも述べたビートたけしとのCM共演が決定し、撮影先の海外ロケでは深夜のホテルに宮沢りえが、たけしの部屋に訪れたと言います。
宮沢りえが言うのには『ママに言われてきた』と、そんな少女にたけしは驚き傷つけないよう「早く帰って寝なさい」とたしなめたと言います。
そうまでして実の娘を枕営業を勧めるりえママのパワーと野心に脱帽していたそうです。
力がある芸能人や関係者なら枕営業も厭わない、この手段厭わずの姿勢こそが、一母親を飛び越えた毒親と呼ばれた由縁なのかもしれません。
彼女の当時を振り返れば枕営業など全く必要としない程の存在感と美貌があったにも関わらず、もっと上を更に上をと自身が目指す高見を駆け上がる為には、それが何だと言わんばかりに娘自身を差し出したりえママは、ある意味毒親そのものでしょう。
宮沢りえの母との決別と最期
毒母りえママのコントロールを振り切り、いよいよ母との決別の日がやってきました。
宮沢りえさんは、2009年2月13日、妊娠6ヶ月であることを発表、お相手は40代のハワイ在住、日本人実業家で元プロサーファーでした。
りえさんは
「私の大きな夢でもあった、赤ちゃんを授かりました。一昨年の終わりに知り合った彼と、只今6か月の小さな命と共に、喜びや戸惑いを何倍にも感じながら毎日を重ねられるのは、支えてくれる人たちの大きなエネルギーがあるからだと感じています。」
とコメントし、無事に第一子となる女の子を出産しました。
妊娠騒動を知った光子さんは、滞在先のパリから日本へ帰国し、結婚に反対したそうですが、宮沢りえさんは今度は母親のいいなりになりませんでした。(その後2016年離婚)
宮沢光子さんは2014年9月23日、65歳で死去されました。宮沢りえさんが41歳の時で、舞台の公演中でしたが、舞台をきちんと務めながら光子さんの最期もしっかりと看取ったそうです。光子さんの死因は肝腫瘍でした。
2014年9月24日マスコミ各社に署名入りのFAXを送付した宮沢りえさんは
「最期に、生きるということの美しさと、凄まじさと、その価値を教えてもらいました。そういった全ての宝物を胸に、私は、役者として、母として、女として、惜しみなく生きようと思います」とコメントを発表しています。
毒親といわれた母親を憎むことなく、最期まで母を尊敬し看取った彼女の気丈さは立派といえます。
その後、宮沢りえさんは、2018年3月16日、V6の森田剛さんと結婚したことを報告し、現在、元プロサーファーとの間にできた子供と森田さんの3人で幸せに暮らしています。
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おわりに
宮沢りえ母子の生い立ちを見ると、母のりえママこと光子さんがオランダ人男性と結婚した際に生まれたのがりえさんで、光子さんの自由奔放な人生が彼女を常に支配していたことがわかります。
毒親と呼ばれた光子さんですが、どう言われても関係ないと豪快に娘を文字通り一流女優に押し上げ娘を扇動した手腕は紛れもなく光子さんの存在無しには無しえなかったのかもしれません。
りえさんを大女優に仕立てる夢と野望に生き、仕事や恋愛に過干渉し毒親と名高い光子さんでしたが、その最期は肝腫瘍で、りえさんに見守られて亡くなっています。母親から自立し、自身の道を歩み出したりえさんの活躍を光子さんもうれしく見つめていることでしょう。
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