事件

一柳展也の生い立ち~両親殺害は受験の強迫観念!服役後の現在はインドへ

1980年11月29日午前2時半頃に神奈川県川崎市
起こった金属バット両親殺害事件。

当時世間を騒然とさせたその背景には、その犯人で
ある一柳展也のエリート一家で生まれた苦悩の果てに
起きた壮絶な事件として記憶に残る残忍な事件でした。

幼い頃から家族と同じ基準を求められてエリート街道
に乗る事こそ人生の最重要事項として厳しく時に罵倒して
育てられた展也。

父親からの叱責によって彼の精神は崩壊します。

ここでは受験の強迫観念に囚われた彼の生い立ちや
家族について、また服役後の彼が何をしているかも
追ってみようと思います。

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一柳展也の金属バット両親殺害事件

この事件は神奈川県川崎市に住む予備校生一柳展也
[いちりゅうのぶや当時20歳]が金属バットで両親を
殺害した事件です。

時は1980年11月29日実家である神奈川県川崎市の
一柳展也の戸建て両親の寝室で行われます。

事件後現場に足を踏み入れた警察官は目の前に
広がる光景に息を飲んだそうです。

事件は彼の両親が就寝中に起こりました。

当時の彼は受験の失敗を父親からかなり激しく叱責
されることが多く、事件の直前には座っていた椅子ごと
蹴飛ばされ[出ていけ]と決別を告げられます。

そして遂には味方だと思っていた母親から
も見離される言葉を宣告されます。

『あなたはダメな子』

張り詰めていた糸が切れた瞬間だったようです。

自暴自棄になった彼は大量のアルコールを摂取し
金属バットを持って就寝中の両親を襲いました。

両親の遺体はそれはもう目も当てられないような
無残な状態で、頭蓋骨が割れ天井に血しぶきが
上がっていた父親・母親に至っては脳漿までもが
撒き散っていたそうです。

高学歴家庭で起こった悲惨な事件は一躍世間の
注目を浴びます。

エリート街道を歩んできた両親の価値観を当然のように
押し付けられたことで、それに応えきれなかった展也の
心境は複雑だったはずです。

一柳展也の生い立ち~超エリート一家に生まれて

一柳展也は1960年に東京で生まれました。

現在、平成が終わろうとする19年時点で58歳の
世に言う定年前の年齢になっていると思われます。

展也の両親は超エリートだったと言われています。

父親の幹夫当時[46歳]は東京大学卒業後旭日硝子に
就職し、東京支店建材担当支店長まで出世した人物です。

また母親の千恵子[46歳]は山口県にある名門酒造の
娘として生まれ育てられました。
に兄は早稲田大学卒業で大学時代は理工学部に所属
していた為、その知識を生かし大手電気メーカーに
就職しました。

そんな家族の元で育ったものですから、学力が低けれ
ば親の対応は厳しいものでした。

長男より、やや活発だった次男展也ですが、そのような
兄との資質の違いを、長所としてとらえる事はなかった
ようです。

1973年に区立小学校を卒業後、東大進学率トップの
都立日比谷高校への近道と言われる区立中学校に
進学しました。

この年に長男は見事、早稲田大学付属高校に合格
彼も当然兄と同じ高校に合格する予定でした。

しかし進路指導では今一歩学力が足りないことを
指摘されると、両親は付属高校の教師の所に受験科目の
英・国・数を習いに行かせます。

1976年になり早稲田の付属に、そして慶応義塾の付属まで
落ちた展也は、やっとの思いで都内有数の進学校として
有名な海城高校に進学します。

それでも兄より下のランクの高校で1年1学期の
中間試験ではクラスで最下位から2番目という成績でした。

この時両親からの叱責が原因で1週間の家出をしています。

1979年から1980年にかけては早稲田・法政・明治・立教
中央等の名門大学を受験しますがことごとく失敗します。

この間2浪し予備校にも2ヵ所通い、早大専科コースに
何とか合格します。

そして予備校での成績が悪くなると彼のストレスも最高潮に
達したのか、そのはけ口からか、父親の定期入れから
キャッシュカードを無断で取り出し、パチンコや喫茶店に
通うことが多くなります。

実際に予備校には月7日程度しか通わなく
なっていたそうです。

両親からの軋轢に展也の精神状態もギリギリの限界だった
のでしょう。

人には誰しも与えられた素質があるはず、必ずしも両親や
兄弟が優秀だからと言って展也が無能な訳では無い
はずなのに、それを許し許容する環境が展也の家庭には
なかったのです。

それが、どれほど不幸な環境だった事か・・・

一柳展也の両親殺害は受験の強迫観念が原因?

エリートだった両親はレベルの高い学校に通い
大手企業に就職するのが当たり前だという価値観の
持ち主でした。

展也もそんな両親の元で幼い頃からこういった
考えを教えられてきました。

その為両親や兄と同じ土俵に上がる以外の選択肢は
彼にありませんでした。

海城高校に進学した時も嬉しさより早稲田大学付属
高校に進学出来た兄に追い付けなかったことのほうが
彼には図り知れないプレッシャーとなっていたようです。

それでもこの時は頑張ればまだ行けると思ったのかも
しれません。

この後中央や早稲田等名門と言われる大学を幾つも
受験していたことから、元々の知能指数も当然優秀で
精神的にも、それなりにタフだったんでしょう。

ところが志望校には次々と落ち予備校の成績も
絶望的になった上での両親からの叱責、受験の
強迫観念に囚われていた彼の精神はさすがに
限界が来ます。

因みに父親は彼に

「一体お前は何を目標にして勉強しているんだ。それをはっきり考えてやるのでなければ勉強に集中できるわけがない。もういい 大学を出るだけが人生じゃない こんな調子ではいくらやっても同じだから大学へ行くのは諦めて就職しろ」

と言ったそうです。

そしてことあるごとに、自分や展也よりデキの良かった
兄と比較対象して展也の知能が低いのは妻の家系のせいだと
ナジルような家庭内パワハラも日常だった。

父親からしたら彼のことを心配して、もっと頑張って欲しい
との想いから言った言葉なのかもしれません。

でも展也にとっては家族のようになる為に、遊びたいのも
我慢して必死に勉強してきたのに、いくらやってもどうせ
駄目だから諦めろと言われることと同じでした。

そうした受験に対する強迫観念とギリギリまで彼の精神状態を
追い詰めたのは他でもない両親からの、絶え間ない強迫観念
たったのは事件を起こす絶対的な切っ掛けだったのは間違い
ないでしょう。

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一柳展也の服役後の現在はインドへ

溜りに溜まった展也の鬱憤がブチ切れる形で
最悪の結果を招く事になった一柳展也一家。

就寝後の両親を金属バットで複数回に渡り殴り
殺害するという極めて残酷な行為をした展也。

裁判の最終弁論では世間を騒がせたこと・兄や
親類に絶望的な苦しみを与えたことは死んでお詫び
したいと涙を流しながら語っていたそうです。

また彼の日記には両親を殺したことへの後悔や
そのことからくる苦しみが書かれていました。

17回にも及ぶ公判のなかで何度も事件に対する
反省が見られ、精神的障害も発見されたことから
求刑18年に対し実刑13年という刑期が確定しました。  
 

千葉刑務所に服役した彼の態度はというと特に
問題はなく、服役仲間からの酷いいじめにも
耐えていました。

そして1997年に無事に刑期を終え出所します。

服役後の現在はインドで仏教ボランティアをしている
という情報があります。

恐らく元々からデキの良かった一柳展也は、幼少期から
思春期にかけての受験戦争と、自らの子供の素質を
みようともせず、自分たちの価値観を最後まで押し付けようと
した展也の両親。

両親を殺害してしまった事は、当然、展也に落ち度が
ありますが、果たして、自分に置き当てて考えた時
タダでさえ多感な時期に、自分なりに一生懸命勉強
しても誰も認めてくれないどころか攻めるばかりの両親。

まともな息子だったからこそ、両親を殺害してしまった
ことを生涯にわたって後悔しながら今現在を生きて
んじゃないでしょうか。

現在58歳となった一柳展也も、ただの両親殺害の精神異常
と言うよりは、紛いなく実の両親の被害者だった・・・・

そう思えて仕方ありません。

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おわりに

高度経済成長の真っただ中に起きた、絵に描いたようなエリート一家kでで起こった悲惨な事件は親の価値観を絶対として、息子の素質を顧みず押し付けることが事の発端になりました。親が良しとする人生と子供の幸せや素質とは違う事は当たり前ですが剥離があって当然です。一柳展也の両親殺害は当然許される事ではありませんが、個人的には、展也をそんな行動に追いやった両親は被害者であり、1番の加害者なのでは?と想えて仕方ありません。余程の間違いでない限り、子供には自分のやりたいようにやらせ応援してあげるのが一番良いと感じる事件んでした。
また実の息子に殺害された両親よりも、息子である一柳展也の今も懺悔しながら生きる生涯を想うと何ともいたたまれない気持ちになるのです。両親の罪も重いのだと・・・


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