永山則夫の生い立ち~母や兄の虐待に姉の崩壊が事件へ最後の言葉

この記事は7分で読めます

則夫永山

壮絶な生い立ちの中両親と兄弟からのネグレスト
の中育った永山則夫元死刑因。

昭和に起きた連続射殺事件の犯人である永山則夫は
19歳で逮捕されてから21年後の死刑執行までの間
作家としてもその実力を認められた活動をした稀有
な存在としてその名を残しています。

壮絶な貧困と抗う事の出来ない幼少期の家族からの
ネグレストによって精神が異常をきたしたであろう
永山則夫の生い立ちと死刑執行までの壮絶な半生を
追ってみようと思います。

Sponsored Link

永山則夫の連続射殺事件

永山則夫[ながやまのりお]とは連続ピストル射殺事件
[1968年~69年]を引き起こした人物です。

1969年に逮捕された永山は凶悪な事件を起こしたとして
死刑が確定しますが、死刑執行までの間は獄中で小説を
書きその実力をも認められた死刑因です。

彼が執筆した[木橋(きはし)]を始めとした文学作品は
後世でも評価されています。 

連続ピストル射殺事件はアメリカ海軍基地に忍び込み
ピストルを盗んだ永山が、東京・京都・北海道・名古屋で
4人を殺害した事件です。

事件の被害者のうち2人は警備員そして残る2人は
タクシー運転手で永山との面識は一切ありませんでした。

最初の事件は1968年10月11日午前0時50分頃に
起こりました。

東京芝にある東京プリンスホテルの敷地内をただ
ふらふらと徘徊、たまたま巡回していた総合警備保障の
中村公紀さん[当時27歳]は永山則夫を見て怪しく思い
「どこに行くんだ?」と声を掛けます。

明らか何かあると悟った彼は襟首を掴み無理やり
連れて行こうとしたところ抵抗した永山則夫に射殺
されました。

そして続いて同年の1968年10月14日1時35分頃京都府
東山区にある八坂神社内を永山はうろついていました。

その時近くを通りかかった警備員勝見留次郎さん[当時69歳]
は1人でうろつく彼を発見。

早速声を掛けると永山がナイフで脅したので警察に行くのを
勧めると、彼はいきなりピストルを取り出し勝見さんの胸
などに4発を打ち射殺します。

東京・京都で2人の命を奪った永山が次に向かったのは
豊島区にある兄の家でした。

実の兄に持っていたピストルを見せ犯行を打ち明けると
兄は弟にこれ以上の凶行を辞め警察に自主するように
説得します。

そんな兄の必死の説得にも耳を貸さない彼は次に
犯行現場となった北海道に向かいました。

当初の目的地は北海道の網走だったが、所持金不足から
函館に行くことになります。

1968年10月26日には函館近くの郊外までタクシーに
乗車します。

この時どういうわけか乗っていたタクシーを停車させ
運転手を射殺した後8000円を強奪した永山。

所持金不足を解消する為だけに運転手を射殺したのかは謎です。

永山はこの強奪した8000円を網走への交通費に使わず
映画館で[西部戦線異常なし]を観た後、名古屋に
向かっています。

名古屋に着くと港に行って心を癒そうと歩きだしたところ
途中でタクシー運転手伊藤正明さん[当時22歳]に声を
掛けられ乗車。

そしてまたもや彼を射殺した上で7000円を強奪する
という行為に及びます。

4件もの殺人事件を起こした永山はその後も警察へは
出頭せず、翌月には中野区若宮町のアパートに移り
住むことにします。

そしてビートたけしが働き作家の村上春樹も客で
訪れていたというジャズ喫茶[ビレッジバンガード]
に勤務。

因みに遅番だったビートたけしは彼の名前を知らず
[暗い印象しかなかった]と語っています。

尚、永山は逮捕の3日前にこの店を辞めています。

そして年が明けた翌年1969年4月7日東京千駄ヶ谷にある
英会話学校[一橋スクール・オブ・ビブネス]に侵入し
逮捕されます。

逮捕時の永山則夫の年齢は19歳で未成年でありながら
事件後の指名手配中から実名公開だったことから未成年
でありながら逮捕から実名報道されていました。

永山則夫の壮絶過ぎる生い立ち

永山の幼少期は両親の家出や兄弟からのいじめなど
耐えるのが苦痛になっても無理はない壮絶なものでした。

1949年6月27日に北海道網走市番外地で生まれた永山は
8人兄弟の下から2番目として育てられました。

まだ彼が幼少期だった頃腕のいいりんご剪定士だった
父親は博打にはまり出し、とうとう家出をします。

たまに帰って来ることはありましたが、生活費を置いていく
どころか米を盗んだりするばかりでした。

この父親は不安定な生活を続け後に死亡しています、

長男はといえばガールフレンドが妊娠した途端に行方不明
長女は婚約破棄に堕胎と重なった為に精神錯乱状態になります。

更に母親に至っては彼が5歳の時点で貧乏生活に
耐えられなくなり青森の実家に移り住みます。

この時母親は全員の子供達を連れて行こうとしましたが
切符代を買うお金が足りず4人の子供を残して出ていく
形になりました。

母親が出て行った後に残された子供達は今にも餓死しても
おかしくない生活を送り、その中でも年少の永山は他の
兄弟達からいじめられる日々を過ごしていました。

そんな子供達の様子をしばらく見ていた隣人は、いつまで
経っても生活が変わらない子供達を見て福祉事務所に通報し
兄弟達は青森に移ります。

青森に移り住んでからの兄や姉達は永山とどう接して
いたのかは不明ですが、彼が小学2年の時、兄弟達の中で
唯一優しかった姉がいる網走の病院にたった一人で
会いに行っています。

このことから考えると母親の元に来てからの兄弟達との
関係も、あまり良好なものではなかったかもしれません。

中学生になった永山は駅伝大会のアンカーとして自校を
優勝に導いた一方、暗い性格で親しい友達もおらず当時から
周囲に自殺したいと周囲に漏らすこともありました。

中学卒業後に上京すると渋谷にある[西村フルーツパーラー]
に就職し店員として接客業務に当たります。

しかし同時に入った寮の寮長と掃除のことで揉め
辞めてしまうことに・・・。

その後は香港に密航を企て強制送還されたり飲食店で窃盗を
働く等いくつかの軽犯罪をした後、1966年9月6日アメリカ軍
横須賀基地にも侵入し米ドルなどを盗んで捕まり、保護観察処分
となったところを母親が迎えに来ます。

更に1968年1月9日には何の目的があるのか神戸港から
アフリカ西海岸を目指そうとして失敗、この時の彼は
自殺を試みますが阻止されます。

また上京してからの彼は様々な職場に就職してはすぐ辞める
を繰り返しています。

後に作家として成功を収めたところを考えると、人に使われ
人間関係を上手く築きながら働くのが性格的に向かなかった
のかもしれません。

それも、あの壮絶な家庭環境の中、まともな教育も受けず
両親からの愛情も受けず、兄弟から壮絶な怒りの矛先として
虐待を受け続けて育った19歳である事を考慮しても、性格的に
破綻しても何ら不思議ではないのではないでしょうか・・・

永山則夫の犯した罪は決して許されるモノではありませんが
その背景を見た時、やはり、苛酷な環境が自暴自棄にならざる
を得なかったという事実が無関係だったとは思えません。

Sponsored Link

永山則夫の母に捨てられた悲劇

誰でも貧乏な生活は嫌ですが永山の実家は、あの昭和初期の
時代の中でも、特に貧乏でした。

父親が真面目に働いていた頃はまだ極貧とまでいかなかった
かもしれませんが、博打に溺れ家出をした後は家族が食べるのも
儘ならない程の生活だったのでしょう。

それに加え永山には7人も兄弟がいたのですから、元から
裕福ではない家庭だったのに父親が出て行ってしまった後の
母親の苦労は並大抵のものではなかったと思います。

貧乏でも何とかして子供達を育てようと頑張った母親
それでもお金は増えず減っていきます。

母親が永山達4人を置いて青森に行った理由は何も貧乏
だったからだけではありません。

上に挙げた通り家族が崩壊していく様を見て精神が崩壊
していったからでもあります。

彼にとっては父親がいなくとも母親がいただけでかなり
心の支えになったのではないでしょうか。

そして母親代わりになって自分に優しくしてくれた
長女も精神崩壊で入院。

彼の周りには猛烈に極貧生活の怒りの矛先として幼い
弟だった則夫を殴る蹴るの好意をして鬱憤を晴らすレベル
のいじめっ子の兄弟達しかいなくなります。

味方が誰1人いない状態だった彼は孤独感や生きていく
ことへの絶望を感じていたのではないかと思います。

このレベルの生活が日常茶飯事になった時、果たして人は
まともな状態を保てるのでしょうか・・・

正直私には自信がありません。

誰か一人でも当時の則夫に寄り添って手を差し伸べてくれる
兄弟がいたとしたら大きく彼の人生も変わっていたでしょう。

永山則夫の兄からの虐待姉の精神崩壊

永山の母親は賭博に溺れ、失踪した父親に代わりに行商に
日々出掛けたきり帰りませんでした。

そこで母親代わりとなったのは19歳年上の長女で、彼女は
兄弟達の中で唯一永山に優しく接しました。

日々兄弟達の面倒を見ていた彼女ですがある日のこと彼女の
ボーイフレンドの子を身籠ります。

しかしそのボーイフレンドに子供を堕胎することを強要
れ姉は精神崩壊を起こし、病院に強制入院させられてしまいます。

その後しばらく経つと今度は母親が突然一部の兄弟を連れて
青森に帰ると、家に残ったのは5歳の永山と中学生の姉それに
小学生の兄二人でした。

あまりにも幼かった則夫に人生の選択などある訳もなく
両親や兄弟にされるがまま、一人兄弟の暴力に耐え忍ぶ
しかなかったのです。

母親がいた時も貧乏な暮らしだったのがいなくなったことで
その日の食事も満足に食べられなくなった彼ら。

今まではまだ子供として甘えることなく、働かずに勉強も
何とか出来た彼らにとって長女や母親の存在は大きなものでした。

いつまでも子供の感覚ではいられないと思った兄弟達は、学校の
勉強も満足に出来ず朝から新聞配達に漁港で雑魚を拾ったりして
生活をしました。

ただそんな兄弟達の中でまだ幼い永山は満足に働くことも出来ず
足枷にしかなりませんでした。

その為兄弟達が出掛けた後は鍵の掛かった家の中で過ごす
日々を送ります。

その後しばらく経つとあまりの寒さと栄養失調でおねしょを
してしまいます。

貧乏と働き詰めで精神的な余裕のない兄弟らはとうとう
橋の上に永山を置き去りにします。

母親に捨てられ兄弟からも捨てられた永山、思えば
彼が精神を蝕み始めたのはこの頃からかもしれません。

Sponsored Link

永山則夫の作家として最後の言葉

幼少期は餓死しそうな時を過ごし成長すれば社会の
理不尽さに苦しめられた永山。

4件の殺人事件を起こす前は何をやっても長続き
しなかった彼が唯一続いたのは執筆活動です。

彼は読み書きすら勉強出来なかったのを、執筆活動を
通じて独学で学び数々の文学作品を作成してきました。

第19回新日本文学賞を受賞した「木橋」を始め「無知の涙」
人民を忘れた「カナリアたち」等の作品を発表。

彼がこのような作品を執筆出来たのは、過酷な人生に
置ける様々な経験があったからこそだと思います。

またこうした執筆活動を通して獄中結婚した妻や支援者と
接するうちに、一時期被害者への贖罪や自己の起こした
行為を後悔する姿勢も見られました。

ただし無期懲役の判決が1審判決に差し戻された時から
また彼の精神状態は不安定になります。

それは恐らく死への恐怖や絶望が彼の心に突き刺さって
きたからだと思います。

作家として一定の地位を築いた彼は死刑執行当日何か
を叫んでいたのを拘置所内にいた囚人が聞いています。

1979年7月10日死刑判決が下され1990年に死刑確定。

1997年8月1日享年48歳で死刑執行されています。

事件当時僅か19歳だった永山則夫の短い生涯は
選ぶ事の出来ない両親や、家庭環境に大きく左右
されながらも、立て直す事の出来ぬまま、48歳での
短い生涯を閉じました。

死刑執行のその時の最後の言葉は

『うおーぉーッ!俺を殺すと革命が起きるぞ』

と、言ったとか言わなかったとか・・・

彼の長い留置生活の中作家として成功して入った印税は
弁護士を通して世界の貧しい子、特にペルーの貧しい
子供達に使われるよう取り計らわれたと言われています。

永山則夫の無知の涙が凄い

壮絶な貧困生活と両親や兄弟の育児放棄の中、小学校も
まともに卒業していないと言われる彼の「無知の涙」
読破した人曰く、最初のページから読み進めるにあたり
みるみる彼の本に命が吹き込まれていく様が分かると言われ
評判となった著書でもあります。

如何に永山則夫が事件後の逮捕から急速に勉学に励み努力
によって読書し自分自身がいかに無知だったからこそ起こして
しまった事件と人生だったかをしみじみと噛みしめるかのように。

彼は拘置所内で、マルクスの資本主義全8巻を読破して
カントやヘーゲルを読みふけり、試作を続けていった
と言います。

一つ一つ勉学と知性を身に付けながら何と自分の犯した
罪が、無知だったのか自らの努力によって大間違いだった
と発見していったと言われています。

知識と哲学を勉強して人は変われるのだと言う事実を
知って死刑執行された永山則夫の無情さは図りしれません。

無知の涙 (河出文庫)

世間を感嘆させた驚愕の「無知の涙」

彼の人生が詰まったこの本の印税を世界の貧しい
子供達へ~と託した永山則夫の心情を考えると
とても切なくなってしまいます。

おわりに

親を選ぶ事が誰もが出来ない事実を考えたら彼の生い立ちは、いつ精神が崩壊してもおかしくない壮絶な人生を過ごした永山則夫。4人の命を奪ったことは決して許されませんが、逮捕後の作家としての彼の能力や成功を見ると人生観は非常に興味深いものがありました。そして、多大なる影響を受けるだろう両親や家庭環境が図らずも平凡な家庭に生まれた幸福を想わずにはいられない事件だと思います。
被害者の方のご冥福をお祈りします。


  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る

関連記事

  1. 新実智光アイキャッチ
  2. 渋谷恭正アイキャッチ
  3. 神いっきアイキャッチ
  4. 竹井聖寿アイキャッチ
  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。