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小原保の生い立ち~吉展ちゃん誘拐殺人事件の死刑執行前の母の自害

小原保アイキャッチ 事件

戦後の混沌とした時代に東京五輪を目前にして起きた、昭和の誘拐殺人事件を起こした死刑因の小原保。

事件から発覚まで2年の歳月をかけて発覚した小原保の生い立ちとその実家での極貧生活。

誘拐殺人事件後には実の母親は息子の犯した罪について手記で詫び自ら命を絶っています。

事件の概要や生い立ち・母親の心境までもう少し詳しく見ていきましょう。

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小原保の吉展ちゃん誘拐殺人事件

小原保(当時32歳)が起こした事件で東京都台東区入谷町で起きた男児誘拐殺人事件[通称吉展ちゃん拐殺人事件]の犯人です。

当時4歳と幼かった村越吉展ちゃんが公園にいたところ誘拐し、被害者の家族に身代金を要求していながら誘拐した日の夜既に殺害していた事件です。

事件は1963年3月31日に東京都台東区入谷町[現松が谷]で起きました。

被害者である村越吉展ちゃんは事件当日の16時30分から、17時40分頃に台東区立入谷南公園で遊んでいました。

そんな時30代の見知らぬ男性から声を掛けられたのを目撃されたきり、彼の行方はぱったりと途絶えました。

4月2日の夕方には犯人から50万円の身代金を支払うように電話が入ります。

警察は犯人を刺激しないようマスコミ各社に報道の自粛を要請し、報道規制なるものが結ばれます。

4月4日に再度電話があった際には犯人である小原保の声を録音することに成功します。

この後、度々身代金を要求する電話があり1回は受け渡し場所が指定されるも、近くに警察官がいるとの理由で撤回されます。

そして4月7日1時25分に自宅から僅か300mという場所に指定され被害者の吉展ちゃんの母親が、一人で金を持ってくるよう指示されます。

母親が身代金をその場所に置くと警察はすぐ母親の側に来ますが、それより早く身代金を奪い逃走してしまい逮捕には至りませんでした。

それからの小原の足取りは掴めず4月19日には犯人の声を公開、有力情報も寄せられましたがそれでも犯人逮捕に結び付きません。

4月25日には脅迫電話の内容をテレビ・ラジオで放送することになり、ここでも膨大な情報が提供されましたか逮捕には至りませんでした。

その後1965年3月11日に専門の特捜班を設置し、7月4日遂に犯人の小原保を逮捕します。

吉展ちゃん誘拐殺人事件から、およそ丸2年の月日を経てようやく小原保が逮捕されたのです。

吉展ちゃん誘拐後に直ぐ発覚を恐れるが為に直ぐ吉展ちゃんを殺害しつつも、その後9回にわたり身代金を要求し続けています。

小原保が逮捕されたのは、吉展ちゃん殺害後直ぐに身代金を使い込んで、その後食い詰めて、また新たに窃盗して逮捕され、前橋刑務所に服役中の逮捕。

尚、犯人逮捕が遅れた理由については電話の音声を逆探知出来なかったことや、営利目的の誘拐に関するノウハウが少なかったこと・報道自粛を促したことなど様々なことが挙げられています。

逮捕から翌年の1966年3月17日東京地裁で死刑判決。

1967年10月13日最高裁で死刑確定。

1971年12月23日、死刑執行 享年37歳

小原保の生い立ち~

1933年小原保は福島県中通り石川町にある農家の五男として生まれ育てられました。

農家といっても貧しい上に11人も兄弟がいたので着るもの食べるものも満足にありませんでした。

時代背景もありますが、幼少期には貧しさから遠方にあった学校に通うのにも、山道を徒歩で通勤するしかない状況でした。

わら草履を履いて無理に登校した結果、足のあかぎれが化膿し、それが悪化したことから骨髄炎を起こしそれが原因となり、小学5年生時から成人してからも足を引きずる程の障害が残っていたと言います。

吉展ちゃん殺害に至った経緯も、当時身代金目的で誘拐した吉展ちゃん自身に「おじちゃん、足が悪いの?」

と指摘された事から、足の障害がある特徴を理解した吉展ちゃんに自らの特徴を理解された事で、自供される事を恐れて殺害したと本人が話しています。

当然、その障害はその逮捕時にも残っていたそうです。

この足の怪我の影響で、その後2年間、学校に通えなかったわけですが、その後もあまりにも貧しい家庭で育った為まともに学校にも通えなかったと言われています。

きちんとした教育を受けられなかった小原は、職業選択の際も限られたものしか選ぶことが出来ませんでした。

そんな彼が中学卒業後に選んだのは時計修理工の仕事。

しかし仕事が合わなかったのか長続きせず、同じ職業のなかで様々な職場を転々とします。

事件当時は遊興費等にお金を使い借金取りから追われていたそうです。

このことからも日常生活を送るにも、かなり追い詰められていたことが分かりますね。

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小原保の死刑執行前の母の自害

自らの息子が幼い子供を誘拐し身勝手な理由で、殺害したことを知った小原保の母親の心境は計り知れないものだったと思います。

ある時事件について記者から質問されると、畳に両手を付いて必死に息子の過ちを謝罪していたそうです。

母親の手記には次のような言葉が残されているのでその一部を抜粋して紹介しましょう。

以下母親トヨの手記

[村越様ゆるしてください。わしが保を生んだ母親でごぜえます。保が犯人だというニュースを聞いて、吉展ちゃんのお母さんやお父さんにお詫びに行こうと思ったけれど、あまりの非道に足がすくんで駄目です]

これが息子である小原保の犯行を知った母親の素直な気持ちだったのでしょう。

そしてこうも書いています。

[吉展ちゃんのお母さんが吉展ちゃんをかわいがっていたように、おまえをかわいがっていた。おまえはそれを考えたことはなかったのか。保よおまえは地獄へ行け。わしも一緒に行ってやるから]

この手記には取り返しのつかない罪を犯した息子小原保への気持ちや、被害者家族への心からの謝罪が含まれています。

この内容から考えると母親は貧しいながらも生真面目で、息子思いな性格だと推測出来ます。

そんな母親は自ら生み育てた息子の罪を悔いながら命を絶ってしまったと言われています。

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おわりに

幼い子供が殺害されるという悲惨な事件、そして取り残された家族や自害した実母の気持ちを考えるととても悲しい気持ちになりますね。戦後の混沌とした時代に起きた誘拐殺人事件として、その背景にある暗い闇を感じるものの、小原保を止めるすべはなかったのでしょうか?今はいずこですが、彼が死刑執行されるまでの事件からの丸5年間母親は自害したものの、その後彼を含み11人もの兄弟があったはずの小原保に家族や身内の誰一人面会にはこなかったそうです。
吉展ちゃんのご冥福を祈りながら、それでも貧しいと言う過酷さもまざまざと感じる事件だと思わざるを得ない事件だと思います。


コメント

  1. […] 出典:oitachi-ima.com […]

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