完治出来ない難病指定のALSで弱10年の
闘病生活の後日本では認められていない
安楽死を切望した林優里さん。
彼女の半生を生い立ちと共に振り変えると
同志社大学卒業後、渡米して建築家を目指し
知的なキャリアウーマンとして活動。
そんな中のALSの発症によって一切の自由を奪われ
る中明確な意思と知能を最後まで持ち続けた彼女
が出した最後の結論は、やはり安楽死だったのです。
いまだ日本では法で認められていない安楽死について
医学が進んだ今だからこそ議論する時が来たのかも
しれません。
林優里さんの生い立ちを振り返り、どれ程の絶望の
中、それを望み続けたのかを追ってみようと思います。
林優里の安楽死事件
京都市の林優里さん(51)は全身の筋力が
衰弱していく難病ALS(筋萎縮性側索硬化症)
に侵され、自ら安楽死を願っていました。
絶望の日々の中、ある2人の医師により
薬物投与で亡くなる事件が起き、世間に
大きな波紋を与えました。
林さんは元はキャリアウーマンであったと
いいますが9年前からALSになり闘病生活を
送っていたとされています。
ALSを患い安楽死を願っていた林優里さんが19年
11月30日京都市内の自宅で2人の医師(大久保愉一
山本直樹)42歳から薬物投与され亡くなった
嘱託殺人事件。
20年7月23日2人の医師が嘱託殺人として改めて
逮捕され話題となっています。
2人の医師は致死量の鎮静剤を投与し、林優里さんを
死に至らせました。
でもそれは被害者でもある林優里さん本人のたって
の願いで彼女自身が切望して高額な金銭を支払った
事で成立した事件として話題となっています。
両容疑者がマンションから出た後に林さんの容体が
急変し、病院に搬送されましたが死亡が確認。
林さんはTwitterで容疑者と知り合い、直接の
面識はなかったようですが自殺の補助をして欲しい
と依頼し、130万円の金額を支払っています。
死亡当時は既に進行型のALSの症状は手足は
動かせないものの意識ははっきりしており、
メールのやりとりができたといいます。
京都府警は「嘱託殺人」の罪で逮捕しましたが、
死亡者が依頼したのだから「自殺ほう助」では
ないかという議論がネット上などで話題に。
いまだ日本では認められていない安楽死について
議論が再燃しています。
誰もがその可能性を孕んだ難病に犯された時
明確な意識を持った状態で少しずづ確実に身体
の自由が確実に身動き取れなくなることを想像
してみてください。
死にたい。
生活の全てを他人に委ねなくては生きられない
状態となった人が望む最後の死さえも自分で果たす
事が不可能になったん人の尊厳死は認められない今の
日本の法制をどう思うでしょうか。
誰も自分には関係ないとは言い切れないこの
命の選択を彼女は切望して望み、それを叶えて
くれた犯人を決して憎むことなく亡くなって
行ったと思うのです。
林優里の生い立ち~同志社卒の建築家として
日本の法制度に尊厳死が認められていない以上今回
の事件は被害者となる林優里さん自身が望んだとはいえ
嘱託殺人と言う事件となっています。
そんな林優里さんの生い立ちは、子供の頃から優秀で
自立心が強く、決めたことはかならずやり遂げる
性格だったそうです。
母親は約20年前に病気で他界し、父親はいますが
一人での生活が長かったようです。
林さんは海外旅行が好きで、海外勤務の経験もある
キャリアウーマンでした。
林さんの学歴についてはFacebookページに掲載
されたものによると、1992年に京都の同志社大学を
卒業。
その後一時的に東京の商業施設に就職するも程なく
して退社。
その後は更なる高みを目指して渡米しサンフランシスコの
アカデミーオブアート大学というアメリカ最大級の
美術大学で建築学を学んだと言われています。
またその後、マンハッタンにあるニューヨーク市立
大学シティカレッジ建築学部卒業とも出ており建築家
として欧米の地で活動していました。
2001年には父親を現地へ招き、アルバイト先の
日本料理、ジャズ演奏会に連れて行く親孝行もする
父親想いの娘さんだったようです。
こうした学歴や経歴から考えても、かなりの学歴と
知性を持った女性だったことがわかります。
知性と行動力に長けた素晴らしい人であったことが
想像できます。
そして自分の生き方も自分で決めるという
はっきりとした意思が、安楽死への想いを
さらに強めていったといえるでしょう。
林優里のALS発症後の絶望
林優里さんがALSを発症したのは帰国後直ぐの
2011年頃40代のはじめの頃だったようです。
歩行の違和感を感じ病院で検査したところALS
発症を告知されます。
華やかなキャリアウーマンの過去もあり、その後
思うように動かなくなる体の変化におそらく大きな
絶望を感じていたはずです。
その後、死に直面する訳ではないものの確実に
日に日に目に見えて出来た事ができなくなる。
少しずつ確実に身体の自由が奪われていく。
ALS発症から車いす生活となった後も活発で自立心
の強い彼女は1人でハワイ旅行や元々好きだった
テニス観戦など病になってからも1人で海外に旅行
していたそうです。
でも、それもどんどん叶わなくなります。
全ての身体の自由に制限がでだしたら当然
かもしれません。
しかも、それは身体の不自由なだけで頭の中は
何一つ変わらない明確な状態で自身の身体が朽ちて
いく術を目の当たりにするのです。
食べる事も物を飲み込むことも不可能になった
彼女の最後の状態は胃ろうの施術も受け食べ物
さえ切開された喉から栄養を流し込むだけの生活。
排泄や入浴の全ても他人にお願いするしかない。
唯一の救いだったのか、今思えば、だからこそ
最後死を選ばざる得なかったのか、頭脳の意識と
目での反応だけが可能な状態だったのです。
だからこそ、最後まで尊厳死という安楽死を
渇望した林優里さん。
死期が迫ってはいなかったのですが、殺害されたと
される去年の19年11月30日にはALSの症状もかなり
進み発言や身体の自由もほぼ利かない状態になって
いました。
最期の状態で自力も意思で残された力は視線のみで
目を動かすことによりパソコン入力は視力入力措置
を使い、メールなどで意思を伝えていました。
20年前に母は病で亡くなり父子1人の父子家庭
であった彼女ですが日に日に進むALSの症状に
生活保護と24時間看護が必要な身体になります。
すぐに24時間体制が整わない中、当初は父親が
一人娘の優里さんの介助を手伝っていたそうです。
でもその後30人態勢での24時間看護状態が整い
彼女は年老いた父親を気遣い京都のマンションで
一人暮らしを最後までしています。
林さんは障害福祉サービスの「重度訪問介護」
を利用し、24時間ヘルパーから生活全般の
介護を受け、京都府中京区内のマンションで
一人暮らしをしていました。
ALS発症後の壮絶な苦しみと明確な意識の中全ての
自由を襲われ、全ての動作に他人の力を借りなければ
生きる事が不可能になっていまった自分に如何ほどの
絶望と孤独を感じて生きていたのか。
知的で優秀なキャリアウーマンだったからこそ
想像を絶する慟哭の中最後の頼みである尊厳死と
言う方法を模索し続けていたと言われています。
二人の医師に依頼した嘱託殺人ですが、その報酬
に130万円を支払っている林優里さん。
何とも主治医やへヘルパーにもスイスの団体にある
尊厳死の存在を訴えていたと言います。
既にその頃から、行く先の自身の身を案じて
死にたい。
これ以上の人としての尊厳を失う前に自分の力では
もはや実行することさえ不可能な死をほう助する
団体にその身を委ね死んでしまいたい。
そう願った林優里さんの思考を誰が責められる事が
できるでしょうか。
林優里の安楽死への想い
林優里さんは既に日本とは違い法で認められたスイス
での安楽死の存在を調べ2018年5月に
「スイスで安楽死を受ける」ことを目標にブログを
開設しており、闘病の様子を綴っていました。
彼女は新しいALS治療法や薬のニュースにも目を
通し希望を持っている反面、今の自分を惨めだと
記し悲嘆しています。
そのブログには早く死にたい、安楽死させてほしい
などの想いが頻繁に出てきていたそうです。
(文春オンライン)
明確な意識の中彼女は幾度となく死に繋がるよう
主治医にも切望して胃ろうへの栄養補給の量を
減らして欲しいと何度も懇願しています。
「死ぬために治療を中断する」と明確な意思を
持って提案していたそうです。
主治医もそうした林優里さんの主張を周囲の医師に
相談していたそうです。
ただ当然ながら、そこにはばかる壁に法の問題
医師としての倫理観が断ち、彼女の意思を尊重する
事は叶わず、林優里さんに思いとどまるよう説得する
しかなすすべがなかったのです。
そうした経緯からも主治医は林優里さんの尊厳死の
願望は誰よりも理解していたのだろうと思います。
恐らく誰よりも…です。
林優里Twitterから分かる慟哭
彼女がTwitterからの発信を始めたのが2018年
5月からの発信だったようです。
常に自分の思う事や願いを明確に理解していた
彼女は自分と同じように好まずとも難病に犯された
同士の為にTwitterやブログが残れば良いと考えて
いたようです。
自身の病についての林さんの心の叫びが頻出
しており、悲痛な様子が表現されています。
「ツイートも視線入力のパソコンを使ってるのですごく時間がかかる。もっと言いたいこといっぱいあるのに」
(2018年5月3日)
テニスの全仏オープンを観戦した日には
「全てを賭けて戦う姿には心打たれる。あんな風に生きたらどんなものが見えるんだろう?」
(2018年5月31日)
重度障害者に対する看護婦に対する姿勢にも彼女の
ツィートが刺さる文面です。
子どものように扱われているというツイートに
「看護婦さんにも多いんだよね。幼児に話しかけてるの?と思う」
(2018年5月31日)
「難病があろうが障害があろうが、一人の人間として尊重され、尊厳をもって扱われなくてはならないはずだ」
「介助者や医療従事者が、障害者や高齢者や患者に対して、上から目線のパターナリズムを発揮するのは暴力」
「私も安楽死を受けられることになれば、記録を残して公開したい。同じ願いを持つ患者さんに希望を与えたい」
(2018年5月10日)
「65歳ヘルパー 体ボロボロなのは私のトイレ介助のせいなんだと責める 施設行きになる あそこに入ったら殺されると脅される むかついてもやめろと言えない 代わりがいないから 惨めだ」
(2019年11月25日)
yahoo:引用
このツィートは嘱託殺人直前のツィートとなり
林優里さんは、この5日後の11月30日に渇望した
死を迎えます。
他にも
「本人の意識がはっきりしていて意思を明確に示せるなら、安楽死を認めるべきだ。」
「なぜこんなにしんどい思いをしてまで生きなければならないのか、私にはわからない。」
安楽死を渇望する内容も見られ、その想いの
強さを感じることができます。
「安楽死を受けるために海外に行くのに付添人は自殺ほう助罪に問われるのでしょうか。」
自殺ほう助の問題をクリアにすることが一番の
課題とも語り、亡くなる2ヶ月前にも同様のことを
述べるなど、当時、安楽死を差し迫った問題として
とらえつつあったことがわかります。
「死ぬ権利を求めることは、わがままじゃあないんだ。」
「医師は気持ちはわかると言うけれど現状を理解しているとは思わない。」
「屈辱的で惨めな毎日がずっと続くひとときも絶えられない」
と彼女のTwitterの中でも死ぬ権利が
強く主張されています。
日本の現行法では安楽死を認めていませんが、難病で
生きる苦しみに絶望し逃れたい人の想いをどこに
向ければいいのか。
今ある制度はこの苦しみを真に救えるのか、医学が
発達した現代だからこそ治る事の無い進行性の難病に
かかった人の苦しみは当事者にしか分からず、その選択の
先に尊厳死と言う選択がある事は間違いなのでしょうか。
林さんの事件の投げかけた課題は大きいといえるでしょう。
答えが出ない今回の林優里さんの選択ですが、少なくとも
あの世での林優里さんがこの世に未練を残しては居なかった
のではないか。と思えて仕方ありません。
どうぞ安らかにお眠りください。
おわりに
ALS患者として安楽死を願っていた林優里さんの生い立ちは、子供の頃から優秀で同志社大学や海外の有名美術大学などで建築学を学び、建築士として活躍するキャリアウーマンでした。
40代での難病発症後の絶望は大きく、スイスでの安楽死を渇望し、死ぬ権利についてブログなどで発信し、苦しみからの救済を求めていた林さん。死を求める彼女の強い意志や言葉がメディアで報じられ、たくさんの難病で苦しむ人々の姿が大きくクローズアップされてきています。
SNSを使った出会いの危うさはもちろんですが、苦しい病と向き合うことの難しさを痛感させるこの事件を通して、誰もが真に幸せに生きることの意味を改めて考えなければならないといえるでしょう。
もしもあなただったら自分が林優里さんと同じ病に犯されたら、あなたなら朽ちていく自身の残りの人生にどんな希望が持てるのでしょうか?
そしてそれを絶対に支えてくれると信じられる家族は今居ると即答できる人がどれほどいるのでしょうか。そう考えると法に逆らった方法で嘱託殺人を犯した医師は殺人とはいえ、全てが悪だったのか?と思えて仕方がありません。
コメント
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