8月24日、全国唯一の特定危険指定暴力団である「工藤会」(本部・北九州市)トップの野村悟(74)、ナンバー2の田上不美夫(65)の判決公判が福岡地裁で行われました。
2人は市民襲撃の4つの事件で殺人などの罪に問われており、野村被告には死刑、田上被告には無期懲役が言い渡され注目されています。
指定暴力団のトップに極刑の判決がくだるのは全国初で、工藤会トップの野村悟の生い立ちにスポットが当たっています。
野村悟の若い頃から工藤会トップの道、驚愕の自宅と資産についてお伝えします。
野村悟(工藤会総裁)の4つの罪
北九州最大と言われる暴力団のトップである工藤会率いる野村悟の異例とも言われる死刑判決が今だに話題です。
問題となったのは工藤会を率いる野村悟氏が起こした4つの市民銃撃事件と、その指示による野村悟氏の関与です。
1998年に北九州市で港の公共工事への介入を断った元漁協組合長を配下の部下による指示で射殺。
2014年4月に北九州小倉南区で元福岡県警警部OBが銃撃。
この元福岡県警警部OB銃撃に対する工藤会のトップ野村悟の銃撃事件に事の重大さを認識した警視庁は国を挙げての、暴力団対策法を改正。
「工藤会」はこの事件を機に指定暴力団の中でも最も凶悪とされる、「特定危険指定暴力団」に指定されます。
にも拘わらず野村氏の暴挙は留まる所を知らず、2013年立て続けにまたも個人的接点を持った看護師も襲撃。
2014年には1998年襲撃した漁業組合の孫に当たる人物の歯科医医師も襲撃します。
これら全ての事件を工藤会を率いるツートップとされる、総裁の野村悟とナンバー2で会長の田上不美夫が、犯行を指示したとして殺人罪などで起訴されていました。
21年8月24日の福岡地裁の判決で野村悟は死刑、田上不美夫には無期懲役が言い渡されました。
野村は、市民襲撃4事件に関して元組員らが証言した被告に不利な内容について
「子どもじみた漫画みたいな話。検事と話して作ったんじゃないか」などと否定。
いずれの事件でも実行役の工藤会系組員らの実刑が確定していることに関しては
「(動機は)分からない。事情があったんじゃないでしょうか」と語っていました。(西日本新聞:引用)
4つの事件全てで2人の関与を認定し判決を言い渡した裁判長に対し、野村悟は判決を聞いた後に言った発言が
「こんな裁判あるんか、あんた生涯、このこと後悔するよ。」などと脅し文句のようなセリフを言い今だに話題となっています。
この裁判で裁判長が2度にわたって退廷を求めたことでも話題になりました。
野村悟の工藤会が特定指定暴力団
2012年北九州小倉南区で元警察官のOB男性が銃撃されましたが、 野村悟は配下に指示し、恨みを抱いていた福岡県警のOBを銃撃したとされています。
数々の凶悪事件を起こすこの事態を重く見た警察庁は、全国の警察から北九州市に捜査員を派遣するという異例の対応を取り、国も暴力団対策法を改正します。
そして「工藤会」を全国の指定暴力団の中でも特に凶悪な組織として、「特定危険指定暴力団」に指定。
「工藤会」を追い詰めようと試みました。
ところが野村悟は配下に指示し、2013年に個人的な恨みから(局部の増大手術の)女性看護師の接客態度と手術の経過が気に入らず配下の組員に殺傷を指示します。
その翌年には利権獲得のため、元漁業組合の孫にあたる歯科医師を殺傷し襲撃させ抗戦したとされています。
福岡県警の内部資料によると、野村被告が組織の実権を握った2000年以降、県内で発生した襲撃事件は113件起きています。
このほとんどが「工藤会」による犯行であると考えられています。
「特定危険指定暴力団」に指定されてからも市民襲撃を続け、恐怖に陥れた野村悟とはどんな人間なのか気になります。
野村悟の生い立ち~大地主実家の末っ子時代
前代未聞の特定危険指定暴力団のトップとして初の死刑判決を言い渡された野村悟氏(74歳)とは一体どんな生い立ちを送ってきたのでしょう。
1946年11月に福岡県小倉市の現在の北九州小倉北区に誕生していますが戦後の生まれとはいえ、彼の実家はかなり裕福な農家に誕生しています。
しかも野村氏は6人きょうだいの末っ子でした。
野村悟被告(74)は過去の公判で自身の生い立ちをこう説明しています。
農業を営んでいたとはいえ父は地元北九州市内に田んぼや山林を多数所有する大地主でした。
1945年以降ち言うと終戦後の混沌とした日本であり、高度経済成長に突入する前の地方はじめ国が生まれ変わる前の状態です。
北九州一体に土地を大きく所有していた野村悟氏の父親はそれらの土地を、団地や企業に社宅用地として売り多額の財産を築いたようです。
その規模は現在の工藤會本部の一体はかつては父親が所有していた土地だったと豪語するレベルの大地主ぶり。
それに付け加え6人兄妹の末っ子だった野村悟氏は、どうひいき目に考えて手も戦後とはいえ、裕福で余裕のある両親から溺愛されて育ったのではと想像できます。
既に他界している両親ですが、その両親が残した財産も規格外、約30年前に母が亡くなった際には7億円もの巨額な資産にプラス不動産も数千万から億レベルで相続したというから半端ではありません。
野村悟の生い立ち~ヤンチャ坊主から極道の世界へ
末っ子だった野村悟は、3人の兄と2人の姉がいたそうです。
そんな野村悟氏は想像ではありますが恐らくは、裕福な家庭でかなり甘やかされて育ったのでしょう。
大地主のお坊ちゃまとして潤滑な財力を持つ家の末っ子息子として子供時代から、悪ガキを集めては悪さを繰り返していたようです。
10代の頃から非行が目立つようになった野村悟氏の中学時代を知る人物によると、当時の時代背景からしても素手で喧嘩するガチの喧嘩番長のようなタイプでは無くむしろ苦手としていたようです。
ステゴロ(素手)での喧嘩を嫌い木刀をを持ち歩いていたため「木刀の野村」と呼ばれていたのだとか。
中学時代から、彼の素行はどんどん悪くなり、10代で賭場に出入りしだしたり、自動車を盗むなどを繰り返し少年院に送致されたこともあったとか。
こうした繰り返しから彼は中学の卒業式でさえ少年院に入っていたため出られなかったそうです。
当時を知る幼馴染の話によると、既にこの頃には少年院を出たり入ったり入ったり出たりを何回繰り返したか…と言う状態。
大地主の末っ子でありながら何不住なく暮らしていただろう野村悟は、恐らくは地元では有名なヤンチャ坊主に育っていたのでしょう。
時代が時代とはいえ、現在でも当時でも、やぱり少年院に出たり入ったりと言うレベルのヤンチャぶりは常軌を期した荒くれもの。
恐らく両親も相当手を焼いたのではないでしょうか。
この頃には急激に悪くなり、悪に磨きがかかった野村悟氏を幼馴染だった人物は急に悪くなった、と話している事からもヤクザな世界に入る野村氏に大きな影響を与える人物に出会ったのでしょう。
20代前半でで工藤會田中組組員の舎弟となり暴力団の道に入ります。
その後10代の頃から出入りしていたと言う「博徒」として鳴らし、小倉北区の繁華街の元すし店や自宅にサイコロ賭場を開きます。
本人も裁判で発言していますが、博才があったのか若い頃の野村氏が賭場にのめりこむきっかけとなったのは賭場での運営で才能が開花したからに他なりません。
野村氏が20代前半と言えば昭和の高度経済成長の走りの時代でしょうが、この時代に一晩2000万~3000万円を稼ぐ手腕を発揮しだします。
その賭場は暴力団関係者や金融・不動産業者、市議や町議を客に、一番多い時には一晩2億円以上手にし、勢力をつけていったといわれています。
この賭場は1980年に開帳して2000年まで20年間運営していましたが、その後手を引く事に。
ただこの20年間の賭場での儲けは約10億の資産を手元に残す程の成功ぶりで、その資金の一部も融資に回す程、大地主と呼ばれた父親と同じく資産運用やお金集めには長けていた部分もあったようです。
ドップリと極道の世界に身を投じ、莫大な金も手に入れる事に成功した野村悟氏は両親からの巨額の資産と、自ら指揮を取った賭場での成功から既にこの当時かなりの巨額の資産を自由にできる力を持っていたようです。
野村悟の生い立ち~工藤会トップの道のりは金金金
野村悟が暴力団に加入したのは1972年ごろで、野村の知人によると、暴力団抗争の際には札束を詰めた箱を差し出し、仲間の組員に「好きなだけ持っていけ」と、資金力を見せつけたエピソードが語り継がれています。
彼が80年ごろから賭場開帳で大成功し、「最高で1日2億円を稼いだ」と公判で語りますが、工藤会の内情に詳しい捜査関係者は「豊富な資金を背景に組織内でのし上がった」と話しています。
86年野村は工藤会傘下組織の組長となり、豊かな資金にものを言わせ、組織内抗争に挑み昇格していきます。
そして彼は2000年に会の事実上のトップに就任、11年には総裁となりその道のりは金金金、絶大な権力を掌握することになります。
野村と直接話ができるのは一握りの幹部で、ある組員は「末端にとっては雲の上の存在」とそのカリスマ性を語っています。
意に逆らう者は一般人でも襲撃するその「恐怖支配」は、みかじめ料(用心棒代)支払を拒む飲食店、建設会社を狙う事件でも明らかです。
工藤会トップの野村の持つ莫大な資金力が、工藤会を大きくし様々な事件につながっていったといえるでしょう。
野村悟(工藤会)の莫大資金源と個人資産が驚愕
野村の元々持っていた実家の莫大な資産や、博徒による億単位の金による資金源の拡大は目覚ましく、彼の権力の基盤となったことは明らかです。
工藤会の莫大な資金源に加え、野村悟の個人資産も驚愕と話題になっています。
市民襲撃事件に先立つ上納金を巡る脱税事件の公判では、工藤会が飲食店や建設会社、パチンコ店などからみかじめ料などとし莫大な資金を集め、一部野村被告の取り分があったことがわかっています。
野村が2015年に脱税で逮捕された際には、その資産額が20億円とも報じられていました。これには不動産が含まれておらず、実際はもっと多いとされています。
今年2月に確定した判決では、野村が10~14年に会の上納金から個人所得として約8億円を得たとしています。
野村は「9000万円の絵画や1億円の車を買った」など公判で話し、私生活では結婚と離婚を繰り返したようですが、ワイン好きで自宅に業務用ワインセラーを備えるなど贅沢な暮らしぶりだったようです。
野村悟の自宅はまるで城
北九州市小倉北区にある野村悟の自宅は、駐車場も完備された大豪邸と話題になっています。
野村の自宅のあるエリアは、戦前は日本帝国陸軍が弾薬を保管していた山田弾薬庫と呼ばれる施設があり、戦後は同施設をアメリカ軍が1972年まで管理していたという曰く付きの土地だったとか。(MATOMEDIA:引用)
自宅は要塞のような防壁で囲まれ、門には何台も防犯カメラがあったといいます。
野村被告宅は「本家」と呼ばれ、「部屋住み」や「当番」の組員が身の回りの世話をしたそうですが、かなりの広さでセキュリティもすごかったのではと思われますね。
野村悟で検索すると、大半の方は見た事がないだろうレベルの豪邸が出てくると思いますが、それは映画レベルの豪邸で自宅玄関から敷地外に出るまで車で何メートル?と言うレベルのお城のような豪邸です。
思うままに金と権力を手にして極道の世界で頂点を極めた男の一世一代の自宅は、まごうことなく一般人のソレとは天と地程の違いがある豪奢な自宅に圧倒されるレベルの自宅だと言えるでしょう。
おわりに
死刑宣告を受け注目されている工藤会総裁野村悟の生い立ちは、大地主の実家の末っ子で莫大な資産を持ち、暴力団加入後も賭場などで大きな資金を稼ぎながらトップへの道を歩みました。
20億ともいわれる驚愕の個人資産や、広大な自宅などが報じられ、工藤会がいかに大きな特定指定暴力団だったかがわかります。死刑の判決にも真っ向から凄んでみせる総裁野村悟の姿は、いまだに強烈な印象を与えています。
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