日本でも有数の資産家として年収や名言など
いつも話題となる事業家の孫正義さん。
ご存知1代でソフトバンク創業者となった孫正義さんの
生い立ちから幼少期の貧困生活、国籍問題や
家族への想い。
『竜馬がゆく』に影響受け十代で決意し
渡米したいきさつなど、現在までの過去の
生い立ちを追ってみよう。
孫正義の生い立ち~幼少期の貧困と祖母
今でこそソフトバンク社創業者として
大きな富を築いている、孫正義さんですが
その幼少期は非常に貧困に喘いでいたといいます。
孫正義さんは、在日韓国人実業家の2世として
佐賀県に生まれました。
家畜と一緒に生活し、非常に不衛生で貧しい
環境だったそうです。
住んでいた家もバラック小屋で、汽車が
通るたびに煙で家の中が真っ暗になったり
雨が降れば大洪水、家畜の糞が井戸に流れ込む等々
かなり過酷な生活だったようです。
孫正義さんの祖母が日本に移民して来た時
たったの14歳だったそうです。
そのまま14歳の時に結婚、孫正義さんの祖父に
当たる方は30何歳だったそうです。
どうやって移民しきたのかは孫正義さん自身
も詳しくはご存知ないそうですが、聞いた話によると
漁船の底の裏に潜り込んで日本に来たという事だそうです。
やっとたどり着いた日本、当然住む所などない状態で
そうして一緒に潜り込んで入ってきた何人かの家族が
住みついたのが、JR(当時は国鉄)線路脇の空き地に
トタンで板を張って住んでいたそうです。
そのせいで戸籍には「無番地」との記載がされているとか。
過酷な状況の中で3歳や4歳の頃、可愛がってくれた
祖母の事をはっきり覚えているといいます。
駅前や近所の食堂から豚の餌にするための残飯を
貰うため、黒く汚れてぬるぬるするリヤカーで
廻っていたのですが
「毎日おばあちゃんが「正義や、散歩いくぞー」
「しっかりつかまっとけよー」と声をあげ
ぬるぬるしたリヤカーにしがみついていたのを覚えている。
その頃は子供だったので、別に辛いという事はなく、楽しかった」
と、語っています。
祖母が大好きだったとの事ですが、その後物心ついたころに
大嫌いになってしまったのだとか。
祖母=キムチ、そしてキムチ=韓国という図式を
否応なしに感じることがあり、それに纏わる様々な
生きていくことに辛いことがたくさんあったといいます。
それがコンプレックスになり、大好きだった祖母が
大嫌いになってしまった、避けるようになってしまったそうです。
孫正義の生い立ち~家族
そんな過酷な貧困時代ですが、それほど
長い期間では無かったとも言われます。
もともと密造酒や鉄くず集めで生計を
立てていたようですが、すぐに金融業へと
移行します。
この時に「無番地」生活からも抜け出せたそうです。
金融業で成功していたにも関わらず
「これは長くやる商売ではない」として
続けてビジネス展開していきます。
そのうち頭一つ出ていたのがパチンコ業でした。
孫正義さんが10歳の頃にパチンコ業で大成功
佐賀福岡で併せて56店舗ものお店を経営していたそうです。
孫正義さんは小学生時代から父親や家族の
ビジネス進化といえる過程を見続けていたわけです。
そんなある時、父親が吐血して入院してしまいます。
1歳年上の兄は高校中退して働きに出て家計を助け
泣きながらも一生懸命働く母を支えたといいます。
これを切っ掛けに、孫正義さんは事業家に
なろうと腹をくくったそうです。
中学生の頃には、自身で塾経営をしようと考え
先生を呼び出し事業計画書を見てもらったり
していたようです。
その時の誘いは断られてしまい塾事業は
諦める事になりました。
中学生ではなく、高校大学まで進めば道は
開けるのだと考えたそうですが、そこで
問題が浮上します。それが国籍の問題でした。
孫正義の竜馬が行くで覚醒?
高校の成績に関しては、志望すれば
どこの大学でも狙ったところに行けるだろうと
言われる状態の当時から優秀な学生でした。
しかし、仮に大学を無事卒業したとしても
国籍問題で官僚や大企業起業は無理だという
事に気が付きます。
その問題を抱えていた頃、語学研修でアメリカ研修に
行く機会がありました。
規模も技術も日本とは比べ物にならない、自由の国
アメリカでは国籍を気にせずに勉強も仕事も出来る。
そう感じたそうです。
また当時読んでいた小説『竜馬がゆく』の「志高く」
という言葉に影響を受けていたそうです。
「一度しかない人生、世のため人の為に、引きちぎれるほど
頑張って何か事を成さなくてはならない。志高く生きなければ」
と考え、渡米を決心し高校1年の1学期で
退学届けを出して単身アメリカへ渡ります。
孫正義の家族を振り切り渡米を決意
しかし当時は父親が吐血入院していた時でもあり
身を切られるような思いだったといいます。
母に泣かれ、担任に止められ、周りの人からは
冷たい息子だと言われようとも「志高く」
あろうと決意したといいます。
そんな思いで渡ったアメリカでは、授業は
1度も休まず、常に教科書を読んでいたそうです。
とにかく死に物狂いで学び、アメリカで高校に
行ったのは3週間だけで、その期間で3年分の
教科書を全部読み、そのまま大学に行きました。
大学3年生の頃、初めてマイクロコンピューターの
チップを見ることになります。
生まれたばかりのチップを見たとたん
ものすごい衝撃を受けたそうです。
「人類はなんちゅうすごいことをしたのか。人類が初めて自らの
脳の働きを超えるかもしれないモノを作った、発明した。」
と、震えるほどの感動を覚えたと語っています。
そこから、何か発明しようと考え始めます。
1日1つ何かを発明して、その中から1つ1年間かけて選んで
それで一山あてようと考えたのでした。
その結果、しょうも無いものも含めて、1年で
250程発明します。
その中に世界初のフルキーボードのポケット
コンピューターも含まれていたそうです。
自分一人ではモノ完成まで辿り着けないということで
世界的に有名な大学教授や研究員5-6名に声をかけ
孫正義さんの発明を実現するためのプロジェクト
チームを作りました。
当時孫正義さんは19歳でした。
そのときに人生50か年計画というのを立てたそうです。
・20代…名乗りを上げる
・30代…軍資金を貯める
・40代…ひと勝負かける
・50代…事業を完成させる
・60台…次の世代に事業を継承する
というものです。
おわりに
この人生50か年計画、驚くほど計画通りではないでしょうか。現在60歳の孫正義さん、次世代への継承という事で有望な若者育成にも余念がないようです。これから彼の意思を継ぐ方がまた様々な分野で活躍していくのでしょうね。
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