薩摩治郎八の生い立ち~バロン薩摩と呼ばれた男の豪遊ぶりと子孫は

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バロン薩摩と呼ばれた薩摩治郎八と言う人物の
名前を聞いた事がある方は見えますか?

今から120年以上前の明治時代にこの世に生を受け
あの時代に置いて贅の極みを尽くしたと言われる男です。

しかもその豪遊ぶりを海外で認められた人物として当時と
しては異例の貴族の称号までつけられた人物なのです。

彼の華麗なる生い立ちから躊躇することなく貴族そのものな
豪遊散財で当時のパリの栄華を渡り歩いた薩摩次郎八。

パリ滞在10年間での驚愕の散財金額や、帰国後の
治郎八やその子孫についてなど、調べてみました。

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薩摩治郎八の生い立ち~家系がヤバすぎる

 

薩摩治郎八は、1901年に東京に生まれ、大富豪として
知られる人物です。

 
東京日本橋において、一代で巨万の富を築き「木綿王」
と呼ばれた薩摩治兵衛の孫として生まれました。

祖父治兵衛は幼い頃に父を亡くし、母と弟と主に小作農を
していたそうですが、収入が多くなく、10代前半の頃には
故郷の近江を出て江戸日本橋の織物問屋の商家で丁稚奉公
から始めたそうです。

仕事に真面目に取り組み、休日には読み書きの勉強に励む
毎日であったと言われています。

給料は雇い主に預けて、少しずつ母に仕送りを
していたといいます。

 
28歳で若衆頭となった後も、真面目に仕事をこなし
朝早くから後輩丁稚と拭き掃除をし、夜も仕事に励み
身なりも清潔にするよう心掛けていたという、清貧な
人物として評されています。

 
その後雇い主の娘を妻にもらい、分家主となりますが
妻のお嬢様っぷりのせいで早期に離婚、雇い主からは
「これまで通り働いてくれ」との意向を貰いますが
「離婚した事に変わりないのだから家はお返しします」
断って住み込み番頭となったようです。

 
34歳で改めてのれん分けされ自分の店として
「薩摩屋」を開くことになります。

 
その後、横浜でキャラコという、金巾(かなきん)
などとも呼ばれるインド産の平織り綿布に目を付け
外国人から積極的に仕入れるなどして財を成します。

この事から「木綿王」と呼ばれるようになったとか。

 
そんな祖父治兵衛の活躍全盛であったため、薩摩治郎八の
父、二代目治兵衛の記録はほぼ残っていないようです。

しかし治郎八が海外留学していることを考えても
店の切り盛りなどはしっかりとしていたのでは
ないかと思われます。

留学にかかる仕送りは、当時の金額で月に1万円
現在価値に換算すれば月に3,000万円とも言われています。

いかに薩摩治郎八の生家が商売屋の領域を超えた成功者
だったのかこの金額からして想像できるかもしれません。

幾ら金持ちとは言え毎月子供に3000万円仕送り出来る
家庭はそうそうありませんからね・・・汗

30万でも無理過ぎます・・・

薩摩治郎八の留学時代

 

第一次世界大戦後、1920年にイギリスはオックスフォード
大学に留学して、ギリシア演劇などを学び、イギリス軍人
であり考古学者のトーマス・エドワード・ロレンスや
日本人オペラ歌手の藤原義江などと親交を結んだと言われています。

 
留学二年目にはパリへ渡り、豪華な屋敷とリゾートを
行き来するような生活をしていたそうです。

その間も社交を続け、ジャン・コクトー等
芸術家とも親交を持っています。

 
また、当時芸術の都として日本からフランスへ渡っていた
画家などへの支援や、才能を認めた外国人画家らにもパトロン
しての支援を惜しまなかったといいます。

有名な所では画家の藤田嗣治のパトロンとしてかなりの
大金をつぎ込んで彼らの画家生活を支えたと言い伝えられて
いるから驚きます。

薩摩治郎八がバロン薩摩と呼ばれるまで

 

その豪胆な金遣いから「東洋のロックフェラー」「東洋の貴公子」
「バロン薩摩」
等と呼ばれるようになったそうです。

「バロン」というのは、封建社会の貴族の称号、当時のパリでは男爵
として使われるものであり、薩摩治郎八はもちろん貴族位を
持っていない、しかも異国の日本人に与えた称号としてはかなり異例の
命名だったと言われています。

しかしこう呼ばれるようになった理由は、前述した
社交界での豪胆な金遣いの他にも、派手な散財逸話にあります。
 

1929年、治郎八が28歳だった頃、パリ南部で建設された
パリ国際大学都市に日本館が建設されるのです。

その建設費用のほとんどを治郎八が支援し、その金額は
当時のお金で10億円以上だったと言われています。

しかも今から約100年近く昔の話ですので、凄さは
規格外だと思います・・・

もう基地外レベルだと思いますね。汗

 
日本の城のような外観で、地上7階、地下1階の60室の
客室を備えており、日本間開館式ではパリ屈指の高級
ホテルリッツで300人を招待し、1晩で1億円以上の
お金を使っての大晩餐会を開催したのだとか。

 
これらパリ時代10年間で使った散財金額は
総額600億円だと言われています。

 
こうして貴族ではないのに貴族以上の豪胆な散財を
行ったという伝説の男「バロン薩摩」として
有名になったそうです。

それにしても生まれ持っての金持ちとは言えバロン薩摩
(薩摩治郎八)自身は働いた事さえなかっただろうに
この散財ぶりには圧倒される金額です・・・

まぁむしろ働いて金銭を得る経験があったならこんな散財は
出来るものではないかもしれませんが・・・汗

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バロン薩摩の子孫の今

 

バロン薩摩こと治郎八は1926年に一時帰国した祭
山田英夫伯爵の娘、千代と結婚しています。

千代子と呼ばれる事もあったようですが、戸籍上は
千代であり、敬意尊称の意味で「子」が加えられる
ことがあったのだとか。

千代はフランスでモデルなどを務め、華やかな
パリ社交界の花であったそうです。

しかし42歳の若さで結核により亡くなっています。

 
治郎八がパリに滞在していた期間に第二次世界大戦が
終結しました。

そのため治郎八は、フランス内に取り残された
日本人の帰国を支援していたようです。

 
そして治郎八自身の帰国は1956年になってから
となります。

帰国した時の治郎八は文字通りの無一文だったといいます。

 
それというのも、フランスでの放蕩生活を支えてくれた
実家「薩摩屋」も、NY株式市場の株大暴落による世界恐慌の
波にのまれて1935年には崩壊していたのです。

一家が残した財産や土地も農地改革などで全て
没収され没落したとの話です。

 
帰国後は日仏親善団体の「巴里会」に加わり、日仏
プロ自転車競技大会を実施させるなどして、活躍
していたようです。

 
また、帰国した年の1956年に、浅草の踊り子小屋
(ストリップ小屋)の花形だったという真鍋利子と
再婚
しています。

1959年に徳島県を訪れ、旧友の墓参りを兼ねて
阿波踊りを楽しんでいた際に脳卒中で倒れ、そのまま
徳島で療養生活を送って、1976年に死去しました。

 
妻の情報は少し残っているものの、治郎八の子孫に
関しての情報は見つかりませんでした。

治郎八自身の晩年に関する情報としては、脳卒中で
倒れた後、徳島で17年ほど療養生活で、最後まで
妻利子と添い遂げたという話が残っている程度でした。

何という自由奔放な放蕩と愛とお金に満ちた生涯
だったのでしょうね・・・

ある意味真似しろと言われても到底できない薩摩治郎八の
規格外の海を渡った放蕩豪遊生活。

最後まで好いた女性に看取られて~と言うのも
なんとなくバロン薩摩と呼ばれた男に相応しい
最後だったように思えるから不思議ですね・・・

そして画像を見て分かるように100年以上前に誕生した
男性としてはかなりの美男子だったバロン薩摩。

きっと何もかもを持ってこの世に誕生された男性
なのかもしれませんね・・・

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おわりに

治郎八は、自身が築いた財ではなく、祖父が清貧に築いた富を使い散財したという事になるのでしょうか。それも彼の財産の一部と言えるのではあるのでしょうが…。しかし敗戦時に日本人が帰国するための支援をし続けていたと言いますし、やはりひとかどの人物だったのでしょう、持って生まれた才とでも言いましょうか。

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