岩崎弥太郎の生い立ち~下級士族出身の三菱財閥の成り上がりまで

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三菱財閥のの創業者として数々の名言を残し
坂本龍馬らと同じ時代を生きた岩崎弥太郎。

今では三大財閥にまで育った岩崎弥太郎が作った
三菱とは一体どんな経歴で財閥となったのか。

土佐の下級士族出身だった岩崎弥太郎の幼少期は
貧困の中でも最下級と言われる暮らしの中学問を
修め、三菱前身の九十九商会設立、現在の三菱財閥に
至るまでどんな生い立ちから成り上がったのかなどを
追ってみました。

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岩崎弥太郎の生い立ち~土佐の下級士族として

 

岩崎弥太郎は、1835年に土佐国(高知県)で生まれた
実業家で、三菱財閥の初代総帥です。

岩崎弥太郎の本名は岩崎敏(後に岩崎寛)と言いますが
生涯を通称の弥太郎という名で通したといいます。

弥太郎には姉はつ、妹さき、弟弥之助という
兄弟が居たそうです。

 
岩崎家は甲斐武田家由来の家系だと言われています。

安芸氏や長曾我部氏に仕え、関ヶ原の戦いで認められた
山内氏入国後は、農耕に従事し、江戸中期には郷士として
山内氏に仕えたそうです。

しかし天明の大飢饉で一揆が起きるなどの混乱した
時期、弥太郎の曾祖父の代に郷士の資格を売り、地下
(じげ)浪人となったそうです。

岩崎弥太郎の壮絶貧困でも学問を究める

 

弥太郎は幼少の頃から土佐藩随一の儒学者
岡本寧浦
に学ぶなど学問環境に恵まれていました。

貧しくとも幼少時から頭脳明晰で
才能を発揮していたと言われています。

 
弥太郎は、1854年に江戸に移り見聞を広げます。

その資金にと、岩崎家は先祖伝来の山林を売って
弥太郎の遊学費用を捻出したとも言われ、学業には
お金を惜しまなかったようです。

岩崎弥太郎は木こりに算術を教わった

 

しかし父親が酒席で庄屋と喧嘩をしてしまい
投獄されたことを知って江戸から帰郷します。

奉行所に訴えたところ、商人は庄屋の味方をしたため

「不正を罷り通すがが奉行所かよ」

と訴え、壁に墨で

「官は賄賂をもってなり、獄は愛憎によって決す」

など大書したため投獄される事になりました。

この時の獄中で、同房に居た木こりをする人物から
算術や商法を学んだといいます。

この人物というのが、木こりであるとか商人だったとか
諸説ありますが、この事が後に商業の道に進む縁と
なったのだといいます。

出獄後に村を追放される事になりますが、吉田東洋が
開いていた小林塾へと入塾。

この私塾に、土佐藩士後藤象二郎が通っていて、弥太郎
は吉田東洋、後藤象二郎らとの出会いにより、その後
出世していきます。

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岩崎弥太郎の九十九商会発足起業家の始まり

 

土佐藩は、1867年に弥太郎を土佐藩の商務組織である
土佐商会の主任兼長崎留守居役に抜擢し、藩貿易の
責任者として新留守居組に昇進しています。

 
一方1866年1月に坂本龍馬らの仲介により薩長同盟が
成立しており、1867年4月には坂本龍馬が結成していた
亀山社中が海援隊として土佐藩の外郭団体となり、その
経理を弥太郎が担当しました。

 
海援隊が大洲藩から借りた「いろは丸」の処女航海中の
1867年4月23日、瀬戸内海で徳川御三家である紀州藩の
御用船明光丸と衝突し、いろは丸が沈没した事件で
弥太郎は持ち前の才能で巧みに交渉して紀州藩から
7万両もの賠償金を支払わせることに成功しています。

 
1867年12月、京都近江屋で坂本龍馬の暗殺がなされ
海援隊は求心力を失い分裂、1868年4月には解散させられます。
 

解散後の海援隊の事業を、後藤象二郎は土佐商会として
岩崎弥太郎は九十九商会として継承します。

この九十九商会が、後の三菱商会、郵便汽船三菱会社
(また後の日本郵船株式会社)、三菱商事などに発展
していくことになります。九十九というのは、土佐湾の
別名です。

岩崎弥太郎と三菱の躍進

 

1870年、弥太郎は土佐藩の少参事に昇格
大阪藩邸の責任者となりました。

地下浪人出身からすれば異例の大出世でした。

 
弥太郎は明治新政府の参議・参与等に就任していた
後藤象二郎からの情報で、各藩が発行していた
藩札を新政府が買い上げて、全国統一の貨幣制度を
作ると知ると、10万両の資金を調達して信用の
なくなっていた藩札を安く大量に購入します。

 
そして1871年に廃藩置県と同時に藩札廃止令が
発せられ、安く仕入れていた大量の藩札を
明治新政府が当時の実勢相場で買い取り、巨額の
利益を生むことになります。

 
現代で言うインサイダー取引のようなものですね。

 
廃藩置県後には弥太郎が九十九商会の経営を引き受け
高知~神戸航路の他に、東京~大阪間の海上輸送にも
力を入れ始めます。

 
1872年、九十九商会は経営幹部の川田、石川、中川の
3つの「川」の字にちなんで「三川(みつかわ)商会」
と社名変更します。

 
その翌年にさらに「三菱商会」と改め、岩崎弥太郎が
先頭に立ち、オーナー社長として海運・商事を中心とした
事業展開をすることになります。

この時に有名な三菱マークが作られました。

土佐藩主だった山内家の三葉柏と、岩崎家の三階菱の
家紋を合わせて出来上がったものが、三菱のスリー
ダイヤモンドです。

 
当時の海運業最大手は、日本国郵便汽船会社でしたが
日本国郵便汽船は大きな態度で「乗せてやる」という
社風であったそうです。

そのため店の正面におかめの面を掲げ、ひたすら
笑顔で応対する三菱の方が、お客様本位だ
喜ばれたといいます。

 
この時のおかめの面は、現在三菱東京銀行本店で
保管されているのだとか。

1874年、台湾出兵の為に明治政府は政府係船会社の
日本国郵便汽船会社に軍事輸送を依頼します。

しかし、日本国郵便汽船会社は兵員輸送している間に
商売の顧客を三菱に奪われると危惧し、政府にはあまり
協力的では無かったといいます。

その為明治政府は三菱に依頼することに決定し、三菱の
弥太郎は「国あっての三菱」と快諾したといいます。

 
ここから政府船を託され、軍事輸送も手掛けるようになり
翌年にはその功労として政府から大型船3隻を委託される
などの援助もあり、三菱は国内海運を独占するまでとなります。

 
1875年に明治政府は、政府保護下で民族資本の
海運会社育成をすることになり、有事の際の
徴用を条件に三菱を助成することになります。

 
日本国郵便汽船会社の船舶18隻が無償供与されたため
三菱の所有船舶数は倍増、三菱商会から郵便汽船
三菱会社へ改称しました。

 
その後も弥太郎は敏腕振りを発揮し続け、国内船籍数の
73%の汽船61隻を所有し、その敏腕振りを「東洋の海上王」
と呼ばれるようになります。

 
その後は得た利益を鉱山事業などへ次々と投資して行き
三菱商会はどんどんと成長して行きますが、三井財閥系が
立ち上げた共同運輸会社との運輸争いが起こります。

その争いの中で、接触事故を起こしたり、値下げ競争の
激化等により、三菱は倒産寸前、共同運輸は内部分裂
という状況に陥ります。

 
その争いのさなか、岩崎弥太郎は胃癌により
50歳で亡くなってしまいます。

 
弥太郎亡き後その意志は、弟の岩崎弥之助に引き継がれ
三菱と共同運輸の共倒れを恐れた政府が調停に立ち、三菱と
共同運輸は合併して日本郵船株式会社を設立しました。

 
三菱を引き継いだ弥之助は「三菱社」と改名し
政府から借り受けた長崎造船所を中心に事業の
再生を行い、長崎造船所は後に日本屈指の
造船所となりました。

 
そうして三菱は日本を代表する財閥として
力を保ち続けることになります。

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おわりに

三菱の創業者としては有名ですが、改めてその生き様を追ってみれば、明治の動乱期を駆け抜けた、壮絶と言えるほどの人生ですよね。この人が居なかったら、明治以降の日本の発展はもっと遅れていたか、また違った形を取ったのかもしれませんね。

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