小佐野賢治の家系図から見る生い立ち!死の商人と呼ばれた男の生涯

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小佐野賢治アイキャッチ

現職総理大臣が逮捕されるという戦後最大の
汚職事件として有名な「ロッキード事件」

その事件で、渦中の人となった元総理の
田中角栄氏と親しく事件の仲介役として
名があがり逮捕された小佐野賢治氏。

国会での「記憶にございません。」の
答弁も印象的でしたが、彼は貧乏な生い立ち
ながら、数々の名言も残した実業家としても
立派な方だったことが知られています。

小佐野賢治氏の家系図からみる生い立ちや、
戦時中から軍需に取り入り金もうけをする
「死の商人」と呼ばれたその生涯について
お伝えします。

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小佐野賢治プロフィール

名前:小佐野賢治(おさのけんじ)
生年月日:1917年2月15日
没年月日:1986年10月27日(69歳)
出身地:山梨県東山梨郡(現甲州市)
配偶者:小佐野英子(堀田伯爵家出身)
子供:なし
出身校:尋常小学校高等科卒
職業:実業家、国際興業グループ創始者

小佐野氏は「運輸・交通」「観光レジャー」
「流通・商事」「開発・不動産」事業で日本
ハワイ、アメリカ西海岸などを含む総合事業会社
国際興業グループを作り上げ、一代で巨額の
富を築きました。

バス王・ホテル王ともよばれ、日航と全日空の
個人筆頭株主でもあり個人資産は一兆円とも
いわれる大資産家でした。

ロッキード事件で話題になり世間に知られる
ところになり、昭和60年帝国ホテルの会長に
なりましたが、翌年69歳で亡くなっています。

小佐野賢治の家系図

小佐野家系図
小佐野賢治氏は4男2女の長男で、戦後日本一の
金持ちとうたわれ巨大な国際興業グループ
率いた実業家です。

昭和61年賢治氏の没後は11歳年下の弟で4男の
小佐野政邦氏が代わって社長となり指揮を
取りましたが、次男、栄氏の息子の隆正氏が
国際興業社長、帝国ホテル取締役についています。

次男(元社長)と三男(元専務)も既に亡くなって
いますが共に国際興業グループを支え、賢治氏の
妻英子さんも監査役に就くなど家族でグループ経営に
携わっていたことがわかります。

小佐野賢治の生い立ち~極貧生活の青年期

小佐野賢治氏は山梨県で農業を営んでいた
父・伊作と母・ひらの間に生まれた4男2女の
長男
として育てられます。

とても貧しく粗末な小屋で養蚕を営んで生計を
たてていましたが、住む場にも困り寺の軒先で
過ごしたこともあるそうです。

小学校に入学すると毎朝3時に起きで新聞配達
して家を支える苦労をし、尋常小学校高等科
卒業後上京します。

家を出る時に父親からは

「いい事でも、悪い事でもいいから日本一になってこい。」

と送り出されたといいます。

極貧の貪欲な精神を忘れず、クリーンで
なくともよいというたくましい生き方を
伝えた父の言う通りの人生を、実際に
小佐野氏は歩み出すことになります。

彼が極貧生活の青年期を経て人生逆転の
大実業家になるとはこの時誰も思って
いなかったことでしょう。

小佐野賢治が死の商人と呼ばれるまで

小佐野賢治が戦後最大の実業家として莫大な
財産を築いた方法は戦前、戦中に絶対必要
不可欠だったモノに目を付けた所にあります。

まさに時代多くの死者を生んだ戦争を利用し
商売を行い大金をつかんだことから、
「死の商人」と呼ばれ非難を受けました。

小佐野氏は、高等科上京後、自動車部品販売店に
就職し経営を身に着けます。

1938年に陸軍入隊で中華民国に渡りますが
足の負傷や急性気管支炎で内地送還され、戦争
で活躍する事はありませんでした。

1940年東京トヨタ自動車に入社、翌年には
自動車部品会社「第一商会」を立ち上げています。

小佐野氏は郷土の名士と呼ばれる田邊七六という
代議士を頼り、彼の力を利用し軍需省の民間委託を
手にし、高等官二等で左官(将官の下、尉官の上)
という厚待遇をもつかんだのでした。

こうして小佐野氏の第一商会は太平洋戦争で
暴利を得、終戦後は米軍に近づきGHQに宿舎提供
などを行う指定商として重用されます。

大日本の終戦後に勃発した朝鮮戦争でも米軍基地での
バス運行で儲けるなど、そつのない商人ぶりで
とてつもない利益を得ることとなります。

ホテル・バス事業に進出し、社名を「国際興業」
としさらに事業を海外にまで発展させていきます。

「金儲けは慈善事業ではない。」をモットーに、
小佐野賢治氏は方法を選ばず、戦争でさえ金に換え
儲けるための手段であるとする独特の発想を持った
人だったことがわかります。

ただ本人の人物像は貧農からたたき上げで
のし上がった腹黒いイメージとは違い、実際は
物静かで温厚な紳士で、人間関係を重んじ朝一番に
出社し熱心に仕事をしていたようです。

社会情勢の動きに敏感で、遅れずに先をいき
利益をつかみ取る現代的な経営者たる手腕を、
彼がこの時代に既に発揮していたことに驚かされます。

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小佐野賢治と田中角栄

小佐野賢治氏は先に紹介した軍需事業での成功を
足掛かりに戦後はホテル業界にも参入します。

まず熱海ホテルや山中湖ホテル、その後ハワイの
ホテルなど数々の観光ホテル買収を手掛け、バス
事業にも乗り出し、旧伯爵家(華族)の令嬢
堀田英子と結婚するなど順風満帆に時代の波に
乗っていきます。

小佐野氏は1950年長岡鉄道という今の越後交通の
バス部門拡充の仕事で、まだ代議士になりたてで
長岡交通社長の職にあった田中角栄氏と出会い
親交を深めます。

その22年後自民党でも有力者となり総裁選に
上がった田中氏を支え、60億という巨額の
軍資金をも投じ総理に至らしめたといわれており
2人が深い仲であったことがわかります。

世間を賑わせた「ロッキード事件」では、
現職総理大臣だった田中角栄氏とロッキード社の
秘密代理人で政財界の黒幕とも言われた児玉誉士夫氏を
つなげた重要人物だったのが小佐野賢治氏とされています。

ロッキード事件とは、アメリカの航空機製造の
大手ロッキード社の旅客機受注をめぐって現職の
総理大臣が受託収賄、外為及び外国貿易管理法違反の
疑いで逮捕されるという戦後最大の汚職事件です。

児玉氏や小佐野氏は国会の証人喚問にも呼ばれ
テレビ中継になりましたが、質問に対する小佐野氏の

「記憶にございません。」

の発言は当時の流行語にもなりました。

事件の鍵を握る児玉氏は病気の末亡くなり、田中角栄
氏も上告後死亡し控訴棄却、小佐野氏も懲役1年の判決
控訴後ストレス性潰瘍で亡くなり控訴棄却という関係者
たちの怪死の展開が続きました。

不透明なまま事件終着を迎え「黒い霧」と言われた
ロッキード事件の中に埋もれて消えていった小佐野氏
ですが、戦中戦後も金になるものは全て金にし、支える
べき人を支え復興を目指し、立身出世を遂げるたくましい
生き方には見習うべきところが大いにあるといえるでしょう。

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おわりに

日本の戦後復興に大きく貢献し、一代で栄華を築いた実業家小佐野賢治氏の家系図から見る生い立ちは、山梨の貧農夫婦の長男として生まれ、極貧の青年生活をしながらも事業を多方面に手を広げる経営手腕を発揮し、軍需の波にのり金儲けで成功する「死の商人」として頭角を現しました。
小佐野氏と交通事業で知り合った田中角栄氏と親密な関係だったと言われ、日本最大の汚職事件「ロッキード事件」での2人の関係が取りざたされますが、関係者らの死でうやむやの結末となっています。
独力で戦後の貧しさからの脱却を果たし、鋭い直感による俊敏な事業展開で飛躍的な富を導き復興を支えた小佐野賢治氏のたくましさは、不安の多いこの現代社会に生きる者にも大事に受け継がれていくべきものといえるでしょう。


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