2024年(令和6年)から新1万円お札の顔として
登場することになった渋沢栄一。
彼は今年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』の
主役となる日本有数の実業家です。
渋沢栄一とは何をした人だったのか気になりますね。
渋沢栄一の生い立ちや経歴、日本史に残る功績や
家族、子孫の現在についてお伝えします。
渋沢栄一プロフィール
氏名:渋沢栄一(しぶさわ えいいち)
出身地:埼玉県深谷市
生年月日:1840年(天保11年)2月13日
没年月日:1931年(昭和6年)11月11日
愛称:日本資本主義の父
信条:同徳経済合一説
(経済活動を行う企業は国や人類発展に責任を持つ必要があるとする思想)
渋沢栄一の生い立ち
渋沢栄一は1840年に埼玉県深谷市で生まれ、
幕末期で学校制度もなかった時代にありながら
裕福な農家の家の長男として誕生します。
6歳で父親渋沢市郎右衛門から漢籍の素読を習い
その後従兄弟の元で『国史略』『日本外交史』
などの書物を読み勉学に励みました。
とは言え代々商才と剣術ぬ優れた家系だった
事から渋沢栄一も文武両道として育てられた
ようです。
父親の市郎右衛門の生家は、名門だったそうで
婿養子に出されたそうですが一代で村2番目の
財産家にまで育てたというからすごいやり手
だったようです。
武芸にも達者だった父右衛門は「四書五系」
(儒教の経書)を読める程の教養のある父
でしたが、その父から中国古典を習い近所に
住む従妹からも日本史や中国古典を習い幼い
頃から教養を高めたと言います。
そうして血筋から本来優秀だったのでしょうが
環境が人を作るのは今も昔も常で渋沢自身も
興味の対象が当時からかなりハイレベルな教育
環境にあったと考えられます。
そうした中本人も読書に没頭しては時に歩き
ながら本を読み、溝に気が付かず落ちてしまう
事さえあったほど。
そんな姿を見て父親が
「昼夜読書三昧では困る、もっと家業にも精を出してくれ」
と言う程だったとか。
当然、素直な少年にすぎな渋沢は父親の指摘通り
その後は家業に専念し14歳で当時父が手掛けていた
藍玉の製造と販売に取り組み、直ぐ様商才を発揮します。
渋沢栄一の生い立ち~商才の片りん
既に知的レベルが相当高かっただろう渋沢は
父の指摘通り家業である藍玉を売り込むべく
新たな手法をどんどん取り入れます。
最初は葉の買い付けに始まり、次に葉の品質を
調べ藍玉を作る製造者を前に品質ランキングを
発表し、全ての製造者を前に結果を出しご馳走を
振る舞い職人の競争心をあおります。
当時から人心を理解していた渋沢は、どうしたら
人がヤル気を出し商売が更に発展するにはどう
職人達に対応すればよいのはを当時から理解して
いたのです。
家業を軌道に乗せ、自分が育った村全体も豊
にするためには己だけが一時的に潤えば良しと
の考え方に固執するのは将来的に誰にとっても
プラスにならない事を理解していたようです。
当時から合理的で古い考え方に固執しない柔軟性
を持ち合わせ、また当時の政府(徳川政府)への
強制的な年貢への強制的で高圧的な態度に大いに
反骨精神も持っていたと言います。
栄一は23歳頃に尊王攘夷思想の影響で高崎城
乗っ取りや横浜焼き討ちを計画していたといい
ますが、結局中止となり郷里を立ち京都へ移ります。
渋沢栄一は24歳の時に一橋慶喜に仕えることになり、
その後慶喜は徳川15代将軍となっています。
渋沢栄一27歳の時、慶喜の弟である徳川昭武と
共にパリの万国博覧会を見学し、長期間欧州滞在の
経験を得て諸外国の実情について学びを深めました。
28歳で帰国した時は既に日本は明治に移っており、
渋沢は静岡で謹慎生活をする徳川慶喜に会い静岡藩に
仕官、翌年日本初の株式会社「商法会所」を設立しました。
ここで殖産興業を進めながら藩の抱える借金を
返済する仕組みを作ります。
商法会所設立と同時に彼は民部大蔵省の役人となり
国の近代化に貢献します。
渋沢栄一は33歳で大蔵省を辞職し民間実業家として
日本初の銀行「第一国立銀行」総監役となります。
その5年後には東京株式取引所を設立、企業創設に
力を発揮し約500もの企業に関わる優れた実業家として
名を成したのでした。
渋沢栄一の経歴
渋沢栄一の実業家としての経歴を簡単にあげておきます。
・24歳で一橋慶喜(後の徳川幕府第15代将軍)に仕える。(1864年)
・27歳で徳川昭武(慶喜の弟)とフランスにパリ万博使節団として出立。(1867年)
・明治維新によりフランスから帰国し、静岡で慶喜に面会。(1868年)
・静岡藩に「商法会所」を設立し明治政府に仕える。(1869年)
・33歳で大蔵省を辞め、第一国立銀行を開業、総監役となる。(1873年)
・第一国立銀行頭取となる。(1875年)
・東京会議所会頭。東京府養育院事務長(後に院長))(1876年)
・45歳で日本郵船株式会社創立。東京養育院院長。(1885年)
・日本女子大学開講・会計監督(後に校長)・東京・飛鳥山邸を本邸とする。(1901年)
・76歳で第一銀行の頭取などを辞職し実業界を引退する。(1916年)
・1931年(昭和6)11月11日、91歳で永眠。
渋沢栄一の日本史に残る功績
渋沢栄一の人生は幕臣から明治政府の官僚、
実業家と日本の激動の時代と共にあり、欧州から
学んだ広い見識を生かし日本の資本主義の発展に
貢献したことで知られています。
彼の日本の歴史に残した功績としては、様々な
業種で約500もの会社を立ち上げたことがまず
挙げられます。
会社名を、いくつかあげてみると現在までよく
知られている大きなものばかりで驚きます。
★金融・・日本銀行・日本興業銀行・三井住友銀行・東京海上火災保険
★日本郵船・・日本航空輸送・日本無線電信
★商工業・・王子製紙・東京石川島造船所・秩父セメント
・渋沢倉庫・理化学研究所・帝国ホテル・キリンビール
・サッポロビール・川崎重工業
★ライフライン・・東京ガス・大阪ガス・東邦ガス、東京電力
★取引所・・東京株式取引所、大阪株式取引所
また他にも約600もの教育機関と社会公共事業の
支援も幅広く手掛けたことも知られています。
特に1874年から50年以上生涯をかけ関わった
「東京養育院」の運営は、資本主義が発展し
豊かになる日本の裏側で広がった貧富の格差を
痛感した彼の思いが込められたものといえるでしょう。
日本赤十字社や聖路加国際病院、日本放送協会や
東京会議所などの他、早稲田大学や法政大学、
日本女子大などの教育機関なども支援しており
まさに日本資本主義の父という名にふさわしい
実業家だったといえます。
渋沢栄一の家族や子孫とは
渋沢栄一の子孫や親せきなども有名のようで、
特に世間に知られている方についてあげておきます。
🍀渋沢篤二(栄一の長男・先妻千代の子)
栄一の後を継ぎ日銀総裁、大蔵大臣となるが
女癖の悪さを非難され廃嫡。
🍀渋沢歌子(栄一の長女・先妻千代の子)
日本初の法学博士
🍀渋沢武之助(栄一の次男・後妻兼子の子)
石川飛行機製作所(軍用機製造)2代目社長
🍀渋沢正雄(栄一の3男・同上)
石川飛行機製作所初代社長
🍀渋沢秀雄(栄一の4男・同上)
田園都市株式会社にて土地開発に従事、東宝の
取締役会長。
🍀渋沢敬三(栄一の孫・前妻千代の長男篤二の子)
財界人、民族学者でもある。栄一の後継者として
第一銀行取締役、日銀総裁、大倉大臣を歴任。
300以上の企業に関わった。
🍀鮫島純子(栄一の3男正雄の長女)
エッセイスト、書籍『祖父・渋沢栄一に学んだこと』
🍀渋沢雅英(栄一のひ孫・敬三の長男)
渋沢栄一財団の理事長。
🍀大川慶次郎(栄一のひ孫)
競馬の解説者。競馬中継の予想的中率が高く
「競馬の神様」とも呼ばれた。
🍀澁澤龍彦(栄一の親戚)~作家、評論家。
渋沢栄一の子孫ではありませんが、栄一の
いとこの靏吉(つるきち)の子孫、澁澤侑哉さんも
近年注目されています。
ファッションモデルでフジ系「テラスハウス・ハワイ編」
に出演し渋沢一族と話題になりました。
渋沢栄一は2度結婚し男4人女3人計7人の子がいたと
いうから驚きですが、愛人も多く庶子を含めると
20人以上子供が生まれていたと言うのもすごいですね。
まさに英雄色を好むを地で生きたような人物
が日本史にその名を残し来る近未来に新札として
日本の顔となるのが渋沢栄一なのも納得できる
見事な経歴と言えるでしょう。
どの方もやはり渋沢氏のように様々な分野で
活躍し社会貢献を果たしているところは見事
というしかありませんね。
おわりに
日本資本主義の父といわれ、日本を支える数々の企業の創設などに関わり生涯をささげた渋沢栄一は、若い頃から勉学に励み官僚、また実業家として海外経験も生かしながら多数の会社を作り上げ日本の発展の礎を築いた功績で有名です。
彼は新一万円札の新しい顔にふさわしく、多大な功績を持ち、その子供たちや親族もそれぞれ実業界や芸術その他で幅広く活躍しており彼の業績は広く受け継がれてきたことが再認識されています。
日本経済の基盤を作り、長く日本を支えてきた彼の目指した理想が、今の困難な日本の状況下でまた生かされることを期待しています。
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