一代にして巨大な「西武グループ」を作り上げた大物実業家で、“ピストル堤”の異名を持つ堤康次郎。
堤康次郎は大正・昭和の日本経済を大胆に切り開く大きな存在でしたが、実はその成り上がりの人生には似つかない色好みで、異常なほどの子供の数が話題になっています。
また正田美智子様と堤氏の血縁関係が噂されており気になります。
堤康次郎の生い立ち、異常な子供の数や正田美智子様との血縁の真相について探ってみました。
堤康次郎プロフィール
氏名:堤康次郎(つつみやすじろう)
出生地:滋賀県愛知郡愛荘町
生年月日:1889年3月7日
没年月日:1964年4月26日(75歳没)
出身校:早稲田大学政治経済学部政治学科卒業
職業:日本の実業家(西武グループの創始者)、財界人、政治家(滋賀県選出の衆議院議員)
経歴:衆議院議員、第44代衆議院議長
称号:滋賀県大津市名誉市民、正三位勲一等
堤康次郎の生い立ち~子供時代から成り上がるまで
堤康次郎は、1889年(明治22年)3月7日、滋賀県愛知郡で、農業と麻の仲買商であった家の長男として生まれました。
堤が4歳の時に父親が腸チフスで無くなり、母も実家に戻されたため、康次郎は妹と共に祖父の清左衛門と祖父に育てられます。
堤康次郎は、八木荘小学校高等科を卒業後、祖父を手伝って農業に従事しますが、祖母が亡くなると祖父と彦根に引越し、米相場や肥料商をはじめますが失敗、再び八木荘に戻り耕地整理や土地改良を行っていました。
康次郎は、1906年に京都の海軍予備学校に入学し、翌年18歳で卒業後は郡役所で働いていましたが、その年に祖父が亡くなります。
妹と2人となり途方にくれた堤康次郎は、祖父の残した田地を担保に5000円のお金を借りて上京し、早稲田大学政治経済学部政治学科に入学しました。
康次郎は授業にはほとんど出ずにアルバイトや政治活動に夢中になり、早稲田卒業後には、大隈重信が主宰した政治評論雑誌である「新日本」に社長として携わります。
ところが、その後も彼は色々な事業に手をかけますが、思いに任せず当時は何をしても失敗に終わります。
堤は最後に不動産事業に全て託し、今の中軽井沢駅周辺で当時の沓掛村一帯の別荘地の開発を手掛けました。
その当時は隣の軽井沢が欧米の宣教師の別荘として、人気でどんどん発展していたことに目をつけ、沓掛一帯の分譲を行うために、「千ヶ滝遊園地株式会社」を設立(資本金25万円)します。
日本商工会議所の初代会頭であり貴族院議員でもあった、藤田謙一を社長にし事業を拡大していきました。
堤康次郎はすぐに藤田を社長として箱根土地株式会社(後のコクド現在は消滅)を設立し、更に湯の花沢10万坪を13万5千円で買収、1923年には駿豆鉄道(現在の伊豆箱根鉄道)の経営権を掌握します。
康次郎はホテルや百貨店への事業にも意欲的で、1946年にGHQが、秩父宮・高松宮・三笠宮の直宮家を除いた11宮家に臣籍降下と財産税の納付を申し渡したことを機に、財政難に陥った宮家の邸宅を買収し、その跡地に「プリンスホテル」を建設していきました。
また同年、西武鉄道の株を取得し堤康次郎氏が社長に就任、路線を拡大し、西武鉄道のターミナル駅の池袋を拠点として更なる発展を果たします。
こうして堤康次郎氏の事業はリゾートに始まり、鉄道や不動産に百貨店それにホテルまでと巨大化し成功をおさめることとなったのです。
堤康次郎の子供の数が異常?
戦後の高度経済成長へと右肩上がりの日本経済の流れに乗った堤康次郎氏は女性関係も常識はずれで、性豪と言われる程の、その子供の数が異常といわれていますが事実でしょうか。
堤氏の女性関係は、「女」であれば、「お手伝いさんから華族まで」と言われる程で、かなりの艶福家だったことが伝わっています。
お手伝い、女子社員、部下の妻、看護婦、マッサージ師、乗っ取った会社の社長夫人、秘書、別荘管理人、旧華族、有名女優など、もはや手あたり次第と言った感じ。
子供12人というのは嫡子として認めた数にすぎず、本人も正確な数さえわからないといい、一説では100人を超えるともいわれています。
堤氏の葬儀には、彼に似た子どもの手を引いた女性が行列を作ったといいます。
操夫人について驚くべき有名なエピソードがあります。彼女は入籍した妻としては3番目なのですが、倒産した東京土地の社長青山芳三が父親でした。
倒産した東京土地の残務整理で青山家に通っていた上林国雄氏の話によると、堤康次郎氏は没落した青山家の姉妹四人をすべて愛人にしようと考えていたようだと言います。
その中でも青山家の長女は、康次郎の好みではなかったようですが、あとの三人は美人ぞろいで、康次郎は先に操のすぐ上の姉から手をつけ、次に一番下の妹であったといいます。
何年かのち二人とも相次いで身籠り、姉の子が次男の清二さんであり、妹の子が後にフランスに移住してフランスで亡くなっている邦子さんですと上林国雄氏は語っていますが、戸籍上は清二と邦子の母親は操になっているそうです。
操夫人は一番好みだったといい、後になったのだとか。
堤氏は側に置いておいた女性から、生まれる子を私生児にしないために、3年ごとに離婚しては入籍するという解決策をとり、全て嫡出子にしたと言うのも凄すぎますね。
流石、希代の実業家の中では性豪と呼ばれる程の人物だったのも頷けます。
堤康次郎と正田美智子様との真相
ネット上では上皇美智子様が、堤康次郎と正田富美の間に生まれた娘という噂が、まことしやかに噂されています。
真実は分かりませんが、噂では美智子様の母は大陸育ちの朝鮮人夫人といわれた、正田富美さんです。
実は美智子様が、西武グループ創立者の堤康次郎と富美さんの不倫でできた子で、正田家の娘でないなどといった説がでており、当時の上流階級の人々の間では、そういったことは皆知っていたともいわれています。
そして、堤の出自は滋賀の部落民らしいということで、美智子様も部落出身であるとか、堤康次郎と美智子様の顔が似ているなどの指摘もあるなど、驚愕するほどの噂の数々。
堤の奔放な女性関係から出たところも大きく、どの噂も明確なものではなくその真相はわかっていませんが、美智子様まで相手に上るとは凄い人ですね。
堤康次郎の人間性と悪評
巨大な西武グループ創始者として偉大だった、堤康次郎氏の人間性については、かなりの悪評が出ていることでも有名です。
「ピストル堤」の異名も有名ですが、この名の由来は、堤康次郎氏の強引なやり方に対抗して、暴力団の手を借り日本刀で乱入してきた相手にピストルで応戦したので「ピストル堤」という名前になったという説があります。
またピストルを乱射して乱入してきた暴徒に、得意の柔道で投げ飛ばしたという説も。
ともかくヤクザまがいかという横暴で強引な経営手法も伴って、土地買収や開発で事業拡大を進める堤の成功の裏では恨みをかうことも多々あったようです。
評論家の大宅壮一は噂だと断った上で、堤康次郎が関東大震災直後、一家全滅した焼跡に、かたっぱしから焼け野原状態だった土地に我が土地かの如く「堤康次郎所有地」と書いた棒杭(ぼうくい)を立てて回ったとしています。
どこからも文句がでなければそのまま堤康次郎氏の所有となるし、文句が出れば法廷でお抱えの弁護士を使い、所有権を証明する為の物的証拠を示させるといった強引なやり方。
関東大震災以外にも、最初に不動産での成功の手がかりとした軽井沢でも、当時大地主だった早大教授の市村今朝蔵は、広大な土地を争って、庶民相手に弁護士の費用などで、泣くに泣けぬ状態におとしいれられ泣き寝入りを見込んでの裁判を展開したと言います。
大宅壮一は堤康次郎を「近江の知能犯」言い、徹底的に批判しており、ノンフィクション作家でジャーナリストの立石泰則氏は、堤康次郎氏のやり方は「とてもまともな実業家の姿ではないことは確かである」とも評しています。
巨大なグループにしていくために、また戦後社会を発展させていくために活躍した彼のリーダーシップは稀有ともいえる強大さであったといえるでしょう。
おわりに
一代にして西武グループを築き、偉大な経営者として有名な堤康次郎の生い立ちは、農業を営む家庭に育ち事業に失敗を重ねつつ不動産業界で土地を操り会社を広げ、事業展開に大成功した成り上がりだったことがわかります。
堤康次郎の栄光の影に、数多の女性関係や美智子様が娘という恐るべき噂がとんでおり、その悪評は絶えませんが彼の強権ぶりを際立たせるものとして後世まで語られていくことでしょう。
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