実業家の生い立ち

堤義明の生い立ち~若い頃から性豪は父譲り?華麗な家系図と今は

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巨大な西武グループ創始者堤康次郎の3男で、跡を継ぎ巧みな経営手腕でグループを拡大しその名を広めた堤義明。

堤義明は愛人の子で複雑な生い立ちがあり、その華麗な家系図の兄弟や父親譲りの性豪が話題になっています。

堤義明の生い立ち、若い頃からの性豪は父親譲り、華麗な家系図と今についてお伝えします。

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堤義明プロフィール

氏名:堤 義明(つつみ よしあき)
生年月日: 1934年5月29日(87歳)22年2月時点
出身地: 東京都
出身大学:早稲田大学第一商学部
職業:実業家
親:堤康次郎(西武グループ創始者)
親戚:堤清二(兄)、堤猶二(弟)

堤義明の生い立ち~母との別れ

堤義明は、東京の実業家の堤康次郎と内縁関係にある石塚恒子の間に生まれました(未入籍)。

堤の父親は、一介の不動産業者から企業王国・西武の基盤を固め、衆議院議長を務めたかの堤康次郎です。

母の恒子は新潟県出身の歯科医師で、衆議院議員を務めた石塚三郎の娘で、義明は康次郎にとっては嫡子とはいえ三男にあたります。

堤義明さんは三男ですが正妻の子ではなく、長男の堤清さん、次男の堤清二さんとは異母兄弟でした。

堤義明は小学校に入ると同時に、母親や弟たちと別れ、東京の目黒の父親の家に引き取られたそうです。

義明が小学校に入ってからは、母親との関係は切れ、その後父の康次郎に帝王学をたたき込まれたといわれています。

 
目黒には小学校3年までおり、父親には厳しくしつけられ、大変な緊張感を味わったようです。複雑な家庭事情の生い立ちのため、小学校時代はいくつかの家庭を転々としたそうです。

父親の築いた西武グループの後を継いだのは長男、次男をおいて三男の堤義明さんであることからも嫡子とはいえ、堤康次郎の期待を背負っていたことがわかります。

堤義明の生い立ち~父との生活の始まり

冒頭でもお伝えしましたが堤義明は、父親との生活が始まると母子を引き離し引き取ったにも関わらず父親の康次郎は厳しくしつけをはじめます。

その生活ぶりは大人の目線で考えても当時小学校低学年で、母親が恋しいレベルの子供だった義明には厳し過ぎるレベルで今でいうモラハラレベル。

例えば食事の際に父親に、沢山しょうゆをかけた、といっては怒られ、果物は子どもの食べるものじゃないと言われ、当時から既に唸る程金があったにも関わらず、子供に絹の布団もぜいたくだと使わせてもらえないなど、生活全般に注意が必要でした。

しかも怒ると言ってもその怒りようは、当然の如く暴力が制裁として付きまといます。

当然子供に過ぎない義明にとって、父親との食事は苦痛そのもので、「会話に全神経を集中させてたから、最後まで味なんかしなかった」などと述懐しています。

1964年父、康次郎の死により、堤義明は28歳で西武グループを引き継ぐことになるのですが、既に大学2年生で西武グループ統帥のレールが敷かれたといいます。

堤義明さんは、大学生の頃から父親の元で経営を学ぶこととなり、堤康次郎からのスパルタ教育がその後大きく開花したのはいうまでもありません。

堤義明の若い頃の経歴と評判

堤義明の若い頃の経歴と評判は、どうだったのか気になりますね。

堤康次郎の長男・清さんは、父に逆らい廃嫡され、次男・清二さんもまた、父の生き方に反することとなり1964年の康次郎の死をもって、帝王学をたたき込まれた堤義明は28歳で西武グループを継ぎました。

71年の父親の七回忌に、清二さんと鉄道、観光、不動産部門と流通、製造部門の事業分離を行い、父親の死後10年たった75年ころから事業展開を本格化。

強大な権力を持つ父から譲り受けた経営スキルと、時価12兆円(当時)といわれた全国に広がる膨大な土地をバックに、ホテル、スキー場、ゴルフ場といった、大規模リゾート開発に手腕を発揮し大成功を収めました。

堤義明さんがは経営に関して細かい指示を自ら行ったそうで、バス事業においては、バス車体に番号を大きく書き、運転手が走行する道のりを義明さんがヘリコプターに乗り込み追跡したといいます。

堤はルート通りに運転しているか、上空からトップ自らチェックしていたのだとか。

堤義明は食事に関しても、社員に向かって「なるべく残すことのないように」と、厳しい指導を行い、戦後の食糧難を生き抜いた堤義明さんらしいとも言われました。

堤義明さんは、1978年にクラウンライターライオンズを買収して西武ライオンズのオーナーになりました。

当時のライオンズは下位の成績が続いており、球場も試合前にゴミが目立ち、お手洗いも観客席まで臭気が漂うなど、清潔さに欠けていたそうです。

そこで堤義明さんは最新鋭の設備を次々に導入し、全面的に球場の改修を行いファンの快適さを追い求めました。

球団カラーやキャラクターも子供が好むデザインに刷新すると、徐々に観客は増え収益アップし、関東において読売ジャイアンツと人気を分ける程になったのです。

球団に所属する選手の待遇も増やし、若手の選手が住む「若獅子寮」の建設も行い、快適な生活が送れるように心配りをしました。

これらにより成績が好転したライオンズは、1982年に24年ぶりの日本一となり、その後もリーグ優勝5連覇、西武ライオンズ黄金期を作ったのは堤義明と大きな話題を呼び、その経営手腕と数々の斬新な事業で評価を得ていたといえます。

二代目とは言え、あの松下幸之助が「西武には凄い人がおる、あの人は二代目やのうてやる事は創業者、新規に事業を興させる時の目の付け所がええ、企画力がほんまに凄い人。」と生前堤氏の実業家ぶりをべた褒めしています。

昭和の総理では誰もが知る田中角栄も「「彼は明日の日本をしょって立つリーダー」と言わしめる程。

堤康次郎が長男、次男を置いても嫡男で三男だった義明を後継者としただけの人物だったのは、確かな事業家としての実力は確かだったのかもしれません。

但し、西武グルーブが全盛期の話ではありますが…後術しますが全盛期の堤義明氏を賞賛した大人物もいる、いたと言った方が正しいのかもしれません。

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堤義明の性豪は父親譲り

優れた実業家として有名な堤義明ですが、その性豪は父親譲りといわれています。

父親の堤康次郎さんは女性関係がとにかく派手な艶福家として知られており、堤義明さんには血のつながった弟2人の他に、多くの異母兄弟がいます。一説によると愛人は100人はいたとか。

一方で、息子の堤義明さんも、父親に負けず劣らず女性関係がかなり派手だったことで知られています。

ただ籍を入れなかった妻も入れて5人もの妻を持ち、100人もの愛人が居たと言われた父親と違ったのは妻は1人で、三井物産海外施設部次長の長女だった由利さんと結婚

子供は二男一女をを儲けたのみで、父親康次郎氏のように嫡男の存在は、現時点では明らかにされていません。

もしかしたら存在しても全く可笑しくはありませんが、一応表立って存命しているのは、正妻である由利さんとの間の3人とのことです。

ただ愛人と呼ばれる女性は、数人いたようです。中でも人気女優である沢口靖子さんが長年の堤義明史の愛人という噂がでており有名です。

まだデビューしたばかりの沢口靖子さんが、プリンスホテルグループのキャンペーンを担当したことで、堤義明さんと出会い、これがきっかけで愛人になったと言われています。

一般的に当時の若手女優は、水着などのグラビアを経験することが売れっ子女優へのステップといわれましたが、沢口靖子さんはこういった仕事を受けておらず、堤義明さんから何らかの支援を受けていたのではないかと噂になったのです。

これまでに2人でゴルフを楽しむ姿が目撃されていますが、本当に愛人関係なのかは噂の域にすぎないようです。

堤義明さんの愛人の噂は数多く、大物女優や一般人の女性などとの関係も絶えず囁かれてきました。

その中で大物女優というのは、吉永小百合さんではないかとも言われています。

吉永さんと堤義明さんとの出会いは、堤からスキーを教わったことで親密になったのだとか。

2人が西武ドームで一緒に野球観戦している場面を目撃されたことがありました。

巨人ファンだった吉永小百合さんが、堤義明さんと親密になってから西武ファンへと転向したらしい、などとも噂されているのです。

大物女優との噂が出てはいますが、確かなものではなく実際はわかりかねますが、それほど堤義明の存在は注目されてきたことがわかりますね。

他にも西武グループから退任された後に当時の年齢を振り返ってもやはり康次郎氏の息子として忖度無いレベルの性豪と言われる由縁なのかもしれません。

2005年の名義株事件で証券法違反容疑に問われて西武グループから縁切りされる形となった堤氏は、退任後、東京杉並区に住ませていた愛人荻窪夫人や、萩窪夫人と切れた後はT女史(コクドの女帝)と呼ばれた女性と行動している事が多いと言われていました。

2016年頃の話題なので現在は関係が継続しているのか定かではありませんが、当時の2016年頃の年齢だとしても既に80歳を超える高齢でありながら愛人を持っていたと言う事実に、やはり性豪と呼ばれるだけの艶福家だった康次郎氏の血を引いているのにも納得です。

堤義明の華麗なる家系図の兄弟とは

堤義明の華麗なる家系図の兄弟にも視線が集まっていますが、どんな人々なのでしょうか。

長男の堤清さんは、堤康次郎さんが当時経営していた郵便局の、事務員として勤務していた女性・岩崎そのさんが産んだ子供です。

正確な生年月日が不明ですが1913年生まれであることが判明しています。幼い頃は、西武グループの後継者として期待されて育ちましたが、不用意な発言が多ことなどで廃嫡。

その後は、清さんは一族からは離れ、近鉄鉄道の社長に就任したことが分かっています。

次男の堤清二さんは、堤康次郎さんと愛人関係にあった青山操さんとの間に生まれました。成城高校(現在の成城大学にあたる)に進学すると、同人誌「近代説話」の同人になります。

大学を卒業した後、父親の秘書を経験、1954年に西武百貨店に入社しており、翌年から取締役を務め、西武鉄道の取締役も兼務しました。

一方で趣味の詩にも熱を傾けて詩集を発表し、優れた誌の作品に送られる「室生犀星詩人賞受賞」を受賞しています。

周囲からは、父親亡き後は西武グループの後継者にとみられていたようですが、結局はグループ物流系企業の経営を任され、西武グループ母体は腹違いで三男の弟、堤義明さんが相続しています。

清二さんはまだ規模の小さかった西友の事業拡大や、パルコや無印良品、ファミリーマートなどの店舗拡大にもかかわり、晩年は、1991年にバブルの崩壊で経営が悪化したセゾングループの代表から辞任し、作家活動に専念しました。

堤清二さんは、2013年11月25日、肺不全のため86歳で亡くなっています。

義明氏の下の兄弟には、同じ母親(石垣恒子)との間に誕生した実弟で、康弘氏が豊島園社長や西武建設取締役を歴任。

その下にも三男の猶二氏が東京テアトル取締役やプリンスホテル社長を歴任した人物もおります。

また先の異母兄弟である長男清や次男清二の下にも妹の邦子がおり、生前には愛人100人と言われた程の艶福家だった父康次郎氏の嫡男を入れたら途方もない兄弟姉妹が存在した可能性もあります。

実際、康次郎死去後の葬儀には、康次郎によく似た子供を連れた女性が列を成していたと語られている程なので、噂の領域を超えた事実である可能性が高いようです。

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堤義明の今

現在の堤義明さんは、西武グループのオーナーという立場を離れています。

2004年に西武鉄道、伊豆箱根鉄道の有価証券報告書に虚偽があったことで、上場廃止が決定し、その責任を取る形で堤義明さんは、西武グループ会社の役員から追い出される形で辞職しています。

その後、堤家で資産管理しているNWコーポレーションの株214憶円相当を、西武ホールディングスに譲渡すると発表、さらには西武ホールディングス株7億円相当の株も売却したことで、株主という立場も外れることになったのです。

堤義明さんと西武グループ会社の縁が全て切れることとなり、彼は表舞台から姿を消しました。

その後2013年、JOC(日本オリンピック委員会)の理事会において、堤義明さんを最高顧問として迎えることを発表しました。

堤はスポーツ好きで、ゴルフやスキーなどは相当な腕前だったとか。

堤義明は、主にオリンピックの招致活動に尽力し、オリンピックの競技大会やアジア大会への選手派遣を推進する重要な役割を担うことになり2004年以来の公の場への参加となりました。

80代後半での登場ですが、経営の優れた経歴やスポーツ貢献など、彼の力が日本に大きな役割を果たしたことを裏付けているといえるでしょう。

おわりに

希代の実業家として西武グループを一代で築いた堤康次郎の後継者として、高度経済成長の真っ只中に更なる事業展開で西武グループをけん引して時代の寵児と呼ばれる程の活躍をした堤義明氏ですが、結局巨大グループと化した西武グループを守り切る事が出来ず最後は追い出される形で西武から縁切りされています。
バブル絶頂期に長者番付にその名をあげ3兆円の資産家と呼ばれた堤義明は今晩年を迎えて何を想っているのでしょう。
金持ち3代続かずを時で生きた堤義明氏の栄華は誰よりも太く短い短命に終わってしまったようです。


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