2020年1月、98歳で亡くなったかのロッテグループ創業者の重光武雄(韓国名は辛格浩シンギョッホ)氏。
彼は18歳で来日し、在日韓国人ながら日韓にまたがる巨大企業グループ「ロッテ」を築き上げた成功者ですが、彼の衣錦帰郷の人生には数々の波乱がありました。
2014年、重光武雄は息子達によってロッテ追放という現代のリア王ともいうべき姿をさらしたことは記憶に新しいところです。
重光武雄の生い立ち、息子に刺された男の衣錦帰郷までと最大の過ちについてお伝えします。
重光武雄プロフィール
氏名:重光 武雄(しげみつたけお)
韓国名:辛 格浩(シン ギョッコ)
国籍:大韓民国
生年月日: 1922年11月22日
死亡日: 2020年1月19日, 韓国 ソウル ソウル峨山病院(享年98歳)
出生地: 韓国 ウルサン
職業:日本、韓国の実業家。
本名:辛 格浩
出身校:早稲田実業学校
主な経歴:ロッテグループ会長、日本プロ野球の千葉ロッテマリーンズと韓国プロ野球のロッテ・ジャイアンツのオーナー。
韓国第5位のロッテグループ財閥の元総帥。
重光武雄の生い立ち~日本統治時代の両班として
日本ではお菓子メーカーのロッテや球団のロッテの創業者として知られる重光武雄は、日本統治時代の朝鮮の南東部、蔚山(現大韓民国)で10人兄妹の長男として1922年に辛 格浩(シンギョッコ)として生まれます。
当時はまだ残っていた両班と言う貴族階級に生まれながらも田舎の貧しい農家で、父親が怠け者で全く働かず、いつも麻の白い服を着てキセルを咥えているような男で、その大所帯を支えたのは働き者だった重光の母親でした。
現在も家長制度の厳しさは日本とは比較にならない韓国ですが、当時のそれは今とは比較にならないレベル。父親は長男であるシンギョッコが17歳になった頃村一番の富農の娘との結婚を決めます。
家長である父親の言葉は絶対、この決め事に逆らえる訳もなく結局後の重光武雄で当時のシンギョッコは最初の政略結婚を17歳でします。
そんな中でも武雄は伯父に学費の援助を受け、農業実修学校を卒業し、日本が作った種羊場に職を得ていました。
ただ当時から一目置く存在だったのでしょう、その種羊場の獣医出身の日本人場長は、頭も良く礼儀正しいシンギョッコの事を「このまま農場の作業員にしておくのは惜しい」と既に祖国に未来が無い事を悟っていたシンギョッコを後押しするべく、日本行きの手配をしてくれたそうです。
この日本人場長の協力が後押しとなり、故郷や両親、既に身ごもっていた妻をも捨てて失踪する事を決意したシンギョッホは紆余曲折ありながらも日本行きを決意します。
小さな農村に育ったことで、昔からの老人らの家長制度が根強い風土を嫌い、自由を求めた重光は、『老人が牛耳る故郷の発展は無い』と日本行きの決心を固めたといいます。
最初にして最大の一大決心をした少年が日本に到着した事によって、シンギョッホから日本名である重光武雄と名乗るようになったと諸説ありますが言われています。
重光武雄の故郷と嫁子供を捨てて日本へ
重光武雄は故郷韓国を出るにあたり、当時既に韓国では結婚していたのですが、嫁と子供(娘)を韓国に残し、1941年(昭和16年)終戦前の日本に所持金83円を持って関釜連絡船に降り立ちます。
当時の重光武雄の年齢は僅か18歳、風呂敷1つを手に作業着にナッパ服、長靴姿で降り立った彼は文字通り素寒貧の裸一貫での日本上陸です。
この10人の我が子の中でも長男だった武雄のこうした行動を父親は制止するべく警察に捜索願を出し、国境での検問にも何度も引っかかり激しい拷問にもあったそうです。
でも、こうした両親や妻子までも振り切っての故郷からの家出は、重光少年は高校時代から本人の中では計画していた様子です。
さかのぼって昭和13年ウルサン公立農業実習学校を卒業後、就職先だった種羊場に就職していた頃から、その工場長やその夫人に猛烈に日本行きをアプローチしていたそうです。
当時の日本統治時代においても、日本本土の渡航許可書は一般人にはそう簡単に、手にできる物ではなかったようで、その種羊場の経営を任されていた日本人工場長の支援があったからこそ手に入れられたようです。
重光武雄の素寒貧の裸一貫から
ともあれ当時まだ18歳だった重光武雄が故郷も家族をも捨て目指した日本は、何もしらない異国の地でもあり、渡った後は正式な渡航許可証を持ちならがも警察に帰国を命じられている状態で、韓国からの帰国命令から逃げている状態が続きます。
転々と各地をする中、東京にたどり着いた重光ですが決してそんな状況にもめげる事なく、東京着の翌日から牛乳配達や新聞配達のアルバイトを始めるなど職を選ばず猛烈に働たといいます。
裸一貫で日本にやってきた重光武雄は、さまざまなアルバイトをしながら、早稲田実業学校の2部(夜間3年生)に入学。
昼働きながら夜は勉学に励む重光の当時の希望は、可能なら作家に、それがダメならジャーナリストになりたかったと希望していました。
そんな苦学生の中、重光は「何か技術を学んで、発明家にでもなったほうが出世の近道ではないか」と、応用化学科に所属し学びました。
重光武雄を見初めた日本人達
昭和19年当時、勉強とアルバイトに精を出しながら働く重光は学校を卒業し、旋盤の研削油などを開発する研究所でも働くようになった頃、重光のその猛烈に勤勉で誠実な働きぶりを見込んだ日本人の花光八太郎が若い重光に惚れ込む。
既に60代と老人だった花光は人生最後に一花咲かせようと思ったのでしょう、重光を見初め出資5万~6万円を出資。
「カネはわしが出すからカッティングオイルの工場を始めないか。儲けの3分の2はわし、3分の1は君だ」と身1つで海を渡ってきた重光武雄その人を見初めて一大投資すると言ったといいます。
昭和19年当時のサラリーマンの給料が80円から100円の時代に、6万円の出資と言う事は現代の紙幣価値にして数億円です。
それを重光に託して事業をしようと声を掛けた老人花光八太郎も先見の明があったのでしょう。普通に考えたら何の保証もない異国の青年に数億の金を投資するのだから凄い人すぎます。
というのは日韓を股にかけて在日一世として大成功した重光武雄の諸説らしいです。
この花光八太郎氏は元々田園調布で衣料品店も経営していたらしく、当時の衣料品店仲間でビジネスパートナーだった小島と言う当時30代だった男性にも重光武雄を紹介します。「優秀な男だ」と言って。
その言葉通り、後にこの小島も花光八太郎が認めたように重光武雄の成功に確信を持ったといいます。
「彼は絶対に成功する。成功しない限り、韓国には帰る事もないから安心だ」そう言って2人の男(花光八太郎と児島)は重光武雄のスポンサーとなるのです。
当時から、この青年ならイケる、と思わせるだけの知恵と勤勉さが重光武雄にはあったといいます。
重光にとってもこの花光八太郎と小島の事業出資が、当時実業家など考えて居なかった重光武雄の事業家の第一歩の始まりと後の大成功の足がかりとなったのは言うまでもありません。
ただ、この時の花光八太郎の最初の出資には成功までに紆余曲折あり、簡単に成功した訳ではありません。
重光武雄の最初の挫折~それでも諦めない
こうして老人花光八太郎や小島と言う日本人らに見初められる幸運に出会い巨額の資金を手にし、金属加工の工場を東京大森に作ることができました。
ところが、ここからという時その工場は1945年昭和20年4月15日深夜の城南京浜空襲で全焼、全て消失したといいます。
この城南京浜大空襲では大田区全域が米29爆撃機202機によって、焼失家屋は約7万戸、一説には22万戸もの家屋が焼失841名の死者が出たといいます。この1つで最初の第1号だった重光武雄の大森工場も消失します。
東京の中心とは言えない大田区が狙われた理由は、昭和7年から112ヵ所、昭和16年には148ヵ所と下請けなどの軍事工場が増加していた事が明らかだった事から狙われたと推測されています。
くじけそうになりながらも重光の心は「こんな事で私は潰れるものか」と即効今度は大規模な工場がなかった八王子に工場を再建します。
ところがこの八王子の工場も終戦前の8月2日の15日の終戦まで残り2週間で八王子大空襲にあい全焼ではないものの被害をこうむります。
この大森工場に相次ぐ八王子工場の消失によって老人花光八太郎から出資された全財産は消失され、全ては泡となって消えたかと思われました。
当時の重光武雄の状態は無一文どころか多額の借金まであったといいます。この当時の話には諸説あり自らの過去を話す事を極端に嫌った重光の諸説として2度の空襲で無一文になり花光八太郎は、重光にこの不の連鎖にこう言い重光を慰めた。
『これも運命だ、お前の生きる道を探せ、私は田舎に行く』。こう言い残して田舎に帰った花光でしたが、重光の心だけは失意のどん底に居ながらも心は折れなかったと言います。
当時を振り返って重光は当時の相次ぐどん底時代をこう回想しています。
「どうしてもお金を儲けて恩返しをしなければいけない。」
重光武雄の終戦後の追い風と最初の成功
1945年昭和20年8月15日の終戦後、その2週間前の八王子大空襲で最後の砦となった八王子工場も損害を受けるも多く語られているように全焼ではなかったといいます。
先に花光八太郎の紹介でスポンサーとなった小島の息子、小島恒男が言うには、重光はこの後再起を誓って同じ八王子の農家の納屋で鍋を借りて研削油の原材料であるひまし油を使って石鹸の製造を始め闇市で売りさばきます。
終戦後の敗戦国として日本が負った賠償金や民間復興事業によるハイパーインフレーションへと突入し重光の作る石鹸も飛ぶように売れたそうです。
ただこの終戦の世情に続く20年12月に行われた預金封鎖や新円切り替えなどの立法化などが追い風となり慢性的な物不足へとなり生活に必要な物は何でも飛ぶように売れる状態となり重光武雄の事業再起と、大成功へと導きます。
この1945年10月から1949年4月の3年6ヵ月の消費者物価指数は約100倍と言われる程の凄まじい上昇率で、文字通り重光の作る石鹸、靴油、ポマード(男性用整髪料)ヒマシ油を用いた製品全てが飛ぶように売れます。
この戦後最大のハイパーインフレを追い風にして重光武雄は、猛烈に働き自分を見初めてくれた花光八太郎に借りた金を返す為に猛烈に働きます。その姿は粉骨砕身そのものと言わんばかりだったとか…
1946年昭和21年の5月には杉並区にも100坪あまりの新工場を建てます。ただその建物も豪奢な物ではなくトタン板張りの粗末な工場で石鹸を作る鍋は炊事用の大釜です。
それでも何もかもが無かった時代に、この重光武雄の作る石鹸やポマードは、工場を開けたと同時に小売業が列を成して並ぶ状態でバカ売れします。
その様は「作っても作っても、追いつかない状態」だったとか。
この初めての成功体験に重光は女性用化粧品も投入、当時のお金で10円で販売した女性用化粧品は更に飛ぶように売れ、重光のこの女性用化粧品は利益で毎月4万~5万の利益を上げる程の莫大な利益をもたらします。
終戦後の1946年とは言え、この当時の日本のサラリーマンの月収は平均200円とされた時代です。
如何にこの時の会社の利益4万~5万が凄まじい売り上げだったかが、しかもこの利益は元々販売していた石鹸や靴磨きや男性用ポマードを入れない利益です。
こうして戦後の混沌とした時代の物資不足を渡りに船と言わんばかりに、2度もの大空襲で全てを消失させ出資人だった老人花光八太郎さえ「これも時の運」と投げ出し諦めた事業を大成功に導いたのです。
そして驚く事に重光の凄い所が、ここで得た利益で、この花光八太郎に借りた金(6万円)の全てを返しに行ったというのだから凄すぎます。
花光氏と当初約束した通りには事業は行きませんでした、でも重光武雄は満額の出資金全てを返済し、そうした行為への感謝を込めて家1軒を送ったといいます。
この重光武雄の行為に、花光八太郎は涙して、「俺の選んだ男に間違いはなかった」と言ったそうです。
儲け全てを自分のモノにしても花光八太郎氏も誰も恐らく文句は言わなかったでしょう。2度の大空襲で花光氏の出資金全てを泡にしたことは誰のせいでもありません。
花光八太郎氏の言ったように「これも時の運」
それで終わりに出来た話です。でも何も持たなかった自分を信じで信じられない程の巨額の資金を提供して事業させてくれた花光八太郎氏を忘れず、自ら裸一貫で始めた戦後の事業で成功させ、泡となったはずの出資金全てと家と言う大きな熨斗を付けたのです。
どう考えても只者ではない重光武雄のサクセスストーリーはこの後更なる怒涛の勢いで日韓を股に掻けた男となるのです。
重光武雄の超下剋上と巨大ロッテグループまで
やがて当時の進駐軍らがくれたガムをヒントにチューインガムに注目し、ガム製造に乗り出し1年ほどで株式会社ロッテを設立する大偉業をなしていきます。
裸一貫、開業前の工場焼失という不幸にであった重光ですが、彼は株式会社ロッテを設立し、一気に超下剋上を成し遂げていきます。
重光武雄は、早稲田で学んだ化学の知識を生かしポマード、化粧品で人気を集め、終戦後はガムの製造に切り替え成功し、1948年、株式会社ロッテが誕生しました。
祖国韓国からの渡日から、僅か7年後、資本金100万円、この当時の公務員の初任給が3000円の時代です。それほどの資本を牛耳るまでの会社に育てあげた重光武雄の快進撃は、上昇気流のほんの始まりだったようです。
1950年代、ガムの大手といえば、大阪のハリスでした。ロッテでは入手困難だった天然素材のチクルを原材料に採用したのに対し、ハリスは合成樹脂のGPチクルを使っていた。これが強みとなります。
ロッテはそれまでの2倍の20円で「スペアミントガム」を発売、売上を伸ばし、やがてハリスを凌駕しました。
(中略)その後、チョコレート(ロッテガーナチョコレート)にも参入する。スイス人技術者を引き抜き、「どんなに原価が高くなってもいいから、あなたがスイスで作ったチョコレートよりもっと良い製品をつくってほしい」と言い渡したという。(Jcast会社ウオッチ)
新しさと最高の技術と品質にこだわったロッテの手法は、まさに重光武雄の18歳にして求めた理想と重なるといえるでしょう。
重光武雄の新規事業参入や商品開発で見せた、的確な経営判断・マーケティングセンスは高く評価されています。
この後重光は日本を拠点に祖国韓国でも漢江の奇跡と言われる韓国社会の高度経済成長の架け橋となり、時の大統領朴正煕ら政府の要望も聞き入れ巨額資金を投じて、韓国の民主化の礎となるべく様々な事業へと乗り出します。
菓子以外に化学、建設、ホテル、流通、観光などにも参入した日本のロッテグループの売上高は2019年度で3021億円(ロッテ会社概要OVERVIEWより)。日本の製菓メーカーで売上高トップ(明治乳業との経営統合で売上高が倍増した明治グループは除く)を占め、世間に知れ渡りました。
重光武雄の衣錦帰郷
巨大ロッテグループは重光の「衣錦帰郷(いきんききょう)」(故郷に物質的還元を行うという朝鮮儒教の思想)の精神がなしたものする声もあがっています。
重光はこの思想のもと、日本のロッテ事業の投資の莫大な利益を、祖国である韓国での事業への投資に注ぎ込んだといわれています。
韓国ロッテグループの売上高は2018年度で8.4兆円(84兆ウォン。1ウォンを0.1円で換算)もの規模になる(ロッテプロフィール2019)。
日本のロッテの30倍近い規模だ。その売上構成を見ても、3分の1は流通業で、もう3分の1を化学・建設業が占め、食品は全体の8.9%でしかない。菓子とアイスが売上高全体の9割を占める日本のロッテとは、もはやまったく別物の企業グループだ。
ちなみに韓国ロッテグループの売上高を日本の上場企業(2018年度)と比較すると、8位の日立製作所(8.7兆円)、9位のイオングループ(8.6兆円)に次ぐ10位相当の規模である。(DIAMOND online)
当時韓国の公正取引員会の調査によれば、韓国の財閥(資産額上位企業集団)の上位はサムスン(三星)、現代自動車、SK、LG、ロッテの5社とされ、韓国のロッテグループの巨大化もまた日本での成功なくしては成しえなかったと思われます。
朝鮮戦争で世界最貧国の一つに転落した韓国にとって、大きな資金を持つロッテはソウルオリンピック開催に向けて開発独裁を進めていた朴正熙政権にとって必要なパートナーでもあり、重光武雄も故郷に大変な恩恵をもたらしたといえます。
重光武雄の息子に刺される現代のリア王の悲劇
こうして在日韓国人一世の中でも最も成功を収めた人物として、今も語られる重光武雄の日韓を股にかけて成し遂げた事業は、日本ならず祖国でもある韓国の朝鮮戦争後の漢江の奇跡として大成功をおさめ、巨大ロッテグループを率いるまでとなります。
ただ、誰もが認めるカリスマ経営者重光武雄でしたが、自身がたった一代で築いた巨大ロッテグループを晩年は息子に追われる事となります。
あまりに悲劇的なその最期を迎えるロッテ創設者、重光武雄は、「現代のリア王」の悲劇ともたとえられているようです。
2014年94歳の重光武雄追放を主導したのが彼の二男で、日韓のロッテグループの頂点に立つ持株会社ロッテホールディングス(ロッテHD)の重光昭夫会長でした。
大財閥ロッテグループを一代で築き挙げた重光武雄は、ロッテ王国を長男の宏之に承継させるべく30年以上を費やし、ロッテグループの資本構成や人員・組織を再構成し準備を進めていたといわれています。
日本ロッテ会長となった武雄氏は日本事業を長男宏之氏に、韓国事業を次男昭夫氏に担当させました。
ところが2015年宏之氏が解任され、武雄氏も代表権のない名誉会長に退くという次男昭夫氏のしいた体制がもとで、長男宏之氏が原状回復を求め訴訟を起こすなど争いに。
当時、経営権をめぐって親子が対立したロッテのお家騒動として話題になりました。
そして重光武雄は、二男昭夫によりロッテHDの全ての代表権を剥奪され、会長職を解任、ロッテ王国を追放されてしまいます。
まさしく最晩年の武雄は、悲劇の王、リア王そのものだったといってもよいかもしれない。甘言を弄する長女と二女に国を譲った老王は国を追放され、自身が追放した三女の助力で2人と戦うが敗れてしまい、結局、三女も王も死んでしまうリア王の悲劇。それは、嘘で塗り固めた告げ口で長男を追放し、後に自身も二男によってグループを追放され、長男と共に挑んだ経営権奪還の戦いの半ばで病に伏し、失意のうちに死を迎えた武雄の軌跡と見事なまでに重なる。リア王の長女と次女は天罰が下って悲惨な最期を迎えるが、“平成のリア王”の終幕もそう遠い先のことではないだろう。(DIAMOND online:引用)
裸一貫で両親や妻子を捨てて韓国を出、異国の国日本で幾度の大災難にあいながらも、不屈の精神で諦めず戦後の日本の復興と共に大成功をおさめ、その成功を手掛かりに祖国韓国でも日本で稼いだ巨額資金を可能な限りつぎ込み我が国を栄えさせ、衣錦帰郷(いきんききょう)とされた重光武雄。
全てを手にしたかに見えたその晩年は、ほぼ完ぺきでありながら「画竜点睛を欠く」(ほぼ完全に出来上がっているのに肝心の部分が抜けているため不完全な状態になっている)「現代のリア王」と呼ばれる悲劇の事業家として今も尚語られています。
創業者として重光武雄が明確に早くから跡取りを長男宏之にと正式に任命していたら、このような最期にはならなかったでしょう。
そのつもりで居ながら、あれほどの巨大グループを作り育て挙げた張本人が、ただ一つ成し遂げなかった事こそ世襲問題だったのです。
それが為に長男宏之も、自身までも我が会社の一切合切から追い出される形となってしまった、重光武雄の苦悩は想像を絶する心境だったに違いありません。
晩年は認知症を患い記憶も曖昧な中、我が子である次男昭夫の名を聞くと、ブルブルその身体を震わせたといいます。
2020年98歳で亡くなった重光武雄の現代リア王の悲劇は語り継がれ続けますが、彼にとって最大にして唯一の無念だったことが想像できます。
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おわりに
反日問題が未だ残る日韓ですが小さな島国の日本と、更に小さな国土の韓国を股に掻けて約100年前に裸一貫でここまでの事業を興して今の残した人物がいる事に驚きを覚えます。
そして重光武雄氏の全てを掛けて構築したであろうロッテグループを我が子に足蹴にされる形で追い出され全ての権限を亡くすという誰もが予想もしなかった悲劇的な最期は想像を絶する程の絶望と悔しさに満ちた最期だっただろうと思わずにはいられません。
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