早坂太吉の生い立ち~最上恒産バブルと馬主女金の地上げ屋

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早坂太吉アイキャッチ

「最上恒産」の会長として、かつて「地上げの帝王」の名をほしいままにした早坂太吉氏。バブルを象徴する人物で有名で、巨万の富を築いた彼の自宅には、融資を求める人々が連日のように列をなしたといいます。

早坂は、最上恒産を立ち上げ、金にものをいわせ馬を買い込んだ馬主伝説や、地上げ屋として知られた一方、小出明子らとの女性遍歴も華やかでした。

早坂太吉の生い立ち、最上恒産バブル、馬主と女についてお伝えします。

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早坂太吉プロフィール

名前:早坂太吉(はやさかたきち)
生年月日:1935年11月
享年:2006年1月25日(70歳)
出身地:山形県北村山群大石田町
職業:不動産・実業家

早坂太吉の生い立ち~大工の末息子として

早坂太吉は、山形県の片田舎の最上川に沿った北村郡大石田町出身で、大工を家業とする一家に生まれました。

男11人女4人の15人兄妹の末っ子として誕生します。ただ既に高齢だったかからか早坂が小学5年生で国鉄職員だった父は肺炎で死亡続けて、中学1年で母をも亡くす悲劇に出会います。

とは言え、15人兄妹だった彼には既に成人した兄弟が居た事から、20歳以上年の離れた兄夫婦が親代わりとなって早坂らを育てています。

兄は大工だった父の跡を継いで「早坂工務店」を経営する大工で、早坂太吉は中学卒業後、兄の大工見習いの後に、18歳で上京しています。

上京から2年後の1930年、早坂は資金援助を受け、練馬で「早坂建設」を開業、建て売り住宅の建設と販売を手がけました。

当時のマイホームブームに乗り、事業は順調にいきましたが、1936年に建築基準法違反強制退去命令を受け頓挫し、これ以降、さまざまな商売に手を出すもうまくいかず、手形の決済に追われ、街金融や暴力団金融の間を走り回る日々を送っています。

早坂太吉の生い立ち~最上恒産設立

早坂太吉は大工の末息子でしたが生まれ持っての才覚か、18歳で上京し22歳で建売業を始め、不動産業で成功し、東京・赤坂の一等地にビルを待つようになったといいます。

早坂は1954年「最上恒産」を設立し、翌年本社を南青山に移転してからは、最上恒産の快進撃が始まり大規模な土地買収を展開し、急成長を遂げました。

最上グループは1961年の全盛期には、最上恒産を中核にして17社を傘下におさめ、ホテル11軒、ゴルフ場2コース、2つの病院などを所有。61年の総資産は、1000億円とも言われた(デイリー新潮:引用)とか。

その後も地上げに成功し、バブル時代の波にのり最上恒産の名は全国に知られるところとなりました。

1986年、バブル景気直前の土地が高騰し始めた時期、東京・西新宿の地上げに成功し、その影響で企業所得第3位に最上恒産が初登場。当時は2000億円を超える金を動かし、女と競馬に数十億円を注ぎ込んだ。競走馬を120頭所有し、1レースに数千万円を賭けたこともある。傍ら、暴力団から恨みを買い、1986年2月22日、東京都世田谷区の自宅に銃弾を撃ち込まれる事件が発生。
のち西新宿の地上げに対して所得税法違反で摘発を受け、執行猶予2年つきの有罪判決を受ける。 (Wikipedia:引用)

早坂太吉の地上げの帝王に

「最上恒産」を立ち上げた早坂太吉がバブルで湧く日本経済でついた異名は「地上げの帝王」

早坂太吉の名が、代表取締役会長を務める最上恒産という社名とともに世に轟き渡ったのは、1986年のこと。申告所得が前年度の380倍におよぶ186億3千万円に跳ね上がり、この年の5月決算の法人会社3466社のなかで、いきなり第3位に躍り出たときだった。2年がかりで地上げした東京の西新宿の土地を、取得した数倍もの金額で売り抜いたのがその理由であった。以後、早坂は「地上げの帝王」の名をほしいままにする。
(Yahoo:引用)

関係者によれば、早坂は「事業は、バクチだ」と豪語し、馬を買い漁るのと同じように、土地やホテルを次から次に手に入れ急成長、事件屋、暴力団幹部、金融フィクサーなどの黒い人脈も噂されました。

1961年2月には、世田谷区砧(きぬた)に新築した早坂の豪邸に、銃弾が撃ち込まれる事件も起きましたが早坂は

「俺たち中小企業は、大手不動産とまともに勝負したら、商売にならない。暴力団などが絡んだ複雑な土地に手を出し、整理することに生きる道があるんだ」(デイリー新潮:引用)

と豪語し、我が道を進み続けました。

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早坂太吉のバブル馬主伝説

地上げの帝王と化した早坂太吉のバブル馬主伝説は有名で、巨額の金を集めたことで知られています。

“この日、早坂の鞄の中から、4億7000万円の現金が消えた。馬主となってわずか2、3年で、持ち馬はおよそ300頭。牧場主が血統書を持ってくれば、馬の写真も見ずに何千万もポンと出す。競馬につぎ込むカネも、ケタ違いだった。札束をテーブルに積み上げ、100万、200万円単位で次から次に賭けていく。根っからのギャンブル好きで、韓国のカジノでは1億、2億円を平気で張る。自家用ジェットヘリを2台所有し、とりわけ自慢は特注のベンツのリムジン。ワインクーラーやレーザーディスクが装備されたそのリムジン、値段は1億3000万円。(デイリー新潮:引用)

300頭の競走馬を抱え、毎週韓国のカジノに通う全盛期時代の早坂は、数百億から一説では2000億動かせたともいわれています。
 
馬主だけでなく地上げによる収益も莫大で、早坂の最上恒産は61年、全国番付で全国第3位となり世間をあっといわせ話題になりました。

早坂太吉のバブルな小出明子と女性遍歴

地上げやの帝王と呼ばれた早坂太吉の凄さはまさに英雄色を好むそのもので、バブルな女性遍歴も話題となった人物です。

早坂太吉は私生活では、妻を癌で亡くした後、カマキリと呼ばれた銀座のバー(「トワ・エ・モア」)の元マダム安達洋子と内縁関係にありました。

ところが早坂は、安達ママの娘の同級生である19歳の小出明子(後に川添)を気に入りの愛人とし、スキャンダルとなったこともありました。(のち小出明子は、女優風吹ジュンの元夫の川添象郎と結婚)。

小出明子は19歳にして地上げの帝王、早坂と交際していたことから「魔性の女」とか「小悪魔」などと呼ばれ、林真理子の小説「アッコちゃんの時代」の主人公のモデルともなった人だそうです。

早坂は全国各地に愛人をつくり、子どもを2人産ませていたとか。これらが元で、1963年安達ママは早坂邸を出ました。

早坂50歳、小出明子は19歳と親子ほど違うカップルにマスコミも愛人と書き立て話題をさらいました。

早坂は彼女に原宿の1LDKの賃貸マンションを買い与え、外食や派手な遊びもするわけでなく一緒にいたといいます。わずか半年で早坂の過剰な束縛を嫌った小出が別れを切り出したと言われています。

バブル崩壊後、1993年に最上恒産は1千億の負債を抱えて倒産、ですが倒産後も金には不自由せず、2001年には伊東に別荘を購入しています。

そんなさ中でも1994年、再婚相手で元歌手の円山理英子と離婚、1998年と2001年には別々の韓国女性と再婚したといわれています。

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早坂太吉の最期

最上恒産が倒産し、愛人らも離れ、それでも、かつて「競馬と女だけはやめない」と語り、暴力団関係者に追われながらも競馬場通いをやめず、結婚と離婚を繰り返した早坂太吉。

晩年は、わずかに所有するビルの賃貸管理や、手持ちの物件の売却で生活し、全盛期のような生活が叶う財産はなかったといわれています。

“帝王”早坂太吉の最期は、2001年に脳梗塞で倒れ、意識が戻らないまま06年1月25日、70歳で帰らぬ人となったといいます。

早坂は最初に担ぎ込まれた病院で単なる酔っぱらいと間違えられたことから治療が受けられず、他の病院で脳梗塞と判明した時には脳死状態となっていたといいます。

東邦大学医学部付属大橋病院に入院し、生命維持装置で生き永らえ、2006年1月25日午前4時頃に死去したということです。

おわりに

バブル時代、地上げの帝王として知られ「最上恒産」の早坂太吉は、大工の末っ子で上京後不動産で成功し「最上恒産」を設立、巨額の富を築き馬と女に目がなく、華やかな女性遍歴や19歳の愛人小出明子も話題になりました。
一時代をつくった帝王早坂の最期は脳梗塞で、財産もわずかで孤独な死を迎えていましたが、バブルらしい自由奔放な生き方を全うしたのだろうと思われます。


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