演歌界の大御所でもありJRAの馬主としても有名な
北島三郎さん。
今年は息子さんの孤独死が訃報としてニュースに
なりましたが改めて北島三郎さんの生い立ちや
子供時代の逸話などを振り返ってみようと思います。
そしてサブちゃんと言ったら歌手を目指して流しを
した壮絶な下積み生活も、今となってはあの北島三郎が?
という彼の原点を追ってみようと思います。
北島三郎の生い立ち~子供時代
北海道上磯郡知内村出身の北島三郎さんは網元と
して当時盛んだったニシン漁をする両親の元7人兄弟の
長男、大野穣として誕生する。
その昔『神魚』と言われて2月末から3月にかけて大量の
漁獲量を確保できたニシン漁を生業にしていた大野家は
そのニシン漁ピークの1990年から北島三郎誕生の1936年
以降はかなり盛んでその数日の漁獲量で1年の生活を確保
出来ると言われる程の収入がありました。
北海道では有名な『ニシン御殿』はその最たるものですね。
でも1950年以降漁獲量がメッキリ減りだしたことから
幻の魚となっていったニシンはその多くの網元の生活を
困窮させていったのです。
そんな中当然ニシン漁が生業だった大野家も一気に
生活が困窮し没落していったそうです。
その為かなり成績も優秀だった当時の北島三郎さんは
長男である事や実家に金銭の余裕がない事を感じ取り
中学卒業後は就職する意向を示していたものの教師が
それを阻止。
両親に頼み込んで高校進学を進めてくれたそうです。
相当優秀だったのでしょうね。
両親は漁師の命とも言える船まで手放して長男の
三郎さんを名門函館西高校へと進学させます。
当時の時代背景からしたら相当な無理をして長男を
高校に進学させたのでしょう。
北島三郎の青年期逸話
高校時代の逸話は地元知内町で開催された
『NHKのど自慢大会』に出場した三郎さん。
出場した時鳴った鐘は2つだったそうですが
当時の司会者に褒められたことが歌手を意識した
最初のきっかけだったそうです。
『歌をやれば歌手の道もあるのかな?』
そんな事を胸に描きだした三郎氏。
時を同じくして海水浴で溺れた小学生を
助けたエピソードも当時の『函館新聞』に掲載
された事があり漁師の息子成程の泳ぎはかなり
得意だったのでしょう。
現在でも函館市の北島三郎記念館に『函館新聞』の
人命救助をした当時の高校生大野穣さんのエピソード
が掲載されているそうです。
北島三郎の壮絶下積み時代
そして高校を卒業して大野穣(三郎氏)は
『両親を楽にさせたい~親孝行をするために~』
の思いを胸に一代決心をして東京へと上京します。
当時18歳。
右も左も分からない大都会東京へ北海道の田舎から
たった18歳で彼は上京して流しとして生活をスタート。
しかもその間25歳までの7年間もです。
当時1960年代3曲100円で渋谷の飲み屋街をギター
片手に弾き語りをしたそうです。
7年間です・・・
凄い根性です・・・
7年はかなり長いです。汗
3畳一間のアパート暮らしから始まり北島さんは
そこで運命の出会いをするのです。
そうです、下積み時代にかかわらず大家の娘だった
現在の奥様と恋に落ち両親の大反対を押し切って
23歳で結婚します。
後に北島三郎さんの一番の大ファンとなって
応援してくれる義理の母親と現在の奥様の支えの
中ようやく運命が北島三郎を世の中に引き上げる
出会いをするのです。
相変わらずの流しの生活の中1曲1000円もの大金
のチップをくれたお客に声をかけられます。
『明日新橋の〇〇喫茶店で待っているから来なさい』
この人が日本コロムビアの芸能部長で、後に作曲家
船村徹さんと引き合わせてくれ、まだ大野穣だった当時
25歳になっていた彼は北島三郎として1965年に
兄弟仁義・帰ろかな・函館の女の三曲をこの同年にリリース。
全てが大ヒットして演歌歌手としての人気を不動の物と
したのです。
これ以降はみなさまの知っての通り。
今では演歌界だけに留まらない芸能界のドンとして
競馬会の馬主としても活躍する八面六臂の活躍ぶりで
裸一貫からここまで駆け上がってきた男。
それが大野穣の超絶下克上のルーツと全てです。
素晴らしい努力と根性と自分を信じて続ける執念が
引き寄せた超強運の持ち主、それが北島三郎という
過去前例を見ない演歌歌手へと引き上げたのですね。
素晴らしいの一言です。
おわりに
如何でしたか?一筋縄ではいかない北島三郎さんの下積み時代は想像より長く険しい生活の日々だったと言われています。流しでの1曲100円時代を乗り越えてこその今がある北島三郎さんの諦めないガッツとそれを支えた奥様の存在あっての現在なのでしょうね。もう紅白は辞退してしまった北島三郎さんですが益々お元気で競馬会も歌手としても頑張って活躍して欲しですね。
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