昭和を代表する歌姫としてそして、絶頂期に歌手として異例の引退をした歌手として語り継がれる山口百恵さん。
若くして引退しても二度と表舞台に立つ事なく、俳優三浦友和の妻で在り続けた山口百恵には非情な父親との壮絶な過去がありました。
母子家庭だった彼女の生い立ちや、父親が医師でありながらつましい生活を強いられた生い立ちを追ってみましょう。
山口百恵の生い立ち~母子家庭として
1959年東京都渋谷区に誕生した山口百恵さんは、後に昭和を代表する伝説の歌手と言われる存在となります。
それは2018年の現在でも変わらぬ事実として度々、取り沙汰されますが何故彼女が売れっ子歌手の絶頂期にありながら、三浦友和との結婚と平凡な家庭人である主婦を選んだのか~
それが今回の生い立ちから垣間見えるのでは~と思います。
彼女の家庭は母親と妹の三人家族で父親のいない母子家庭として寂しい幼少期を送ったと言われています。
女で一人で二人の子供を養う事に、とても苦労した母親はどうしてそんな生活を選んだのか不可解ですが、ある家庭のある男性との間の子供として百恵さんら姉妹を母子家庭で育てたそうです。
苦労を重ねる母親を少しでも楽にさせたい。
そんな願いから百恵さんは当時の『スター誕生』に応募して歌手への道を志したと言われています。
山口百恵の父親は医師
ただ彼女らには正式ではないまでも家に出入りする、一人の男性の存在があったそうです。
それこそが父親の存在であったのです。
父親は医師だったそうで一説には百恵さんの母親は、看護婦として知り合ったのでは~と言われています。
そしてその父親には別のれっきとした家庭があったそうです。
百恵さんの母親は家庭ある男性との間に、百恵さんを含む二人の娘を出産するという当時としてはかなり思い切った行動で母子家庭を選んでいたのです。
恐らくは当時から一般サラリーマンよりは裕福な職種だったであろう、医師という職に就きながら娘二人の将来を考えて、母親が頼んだの認知までは渋々したものの、金銭的援助は一切なかったそうです。
恐らくはそれでもいいから認知して欲しい。
別れたくない!と百恵さんの母親が望んだ結果かもしれません。
それが証拠に苦しい生活の中『スター誕生』への出場を決意した百恵さんら家族に付き添う父親の姿もあったそうです。
交流はあるけど生活の援助は一切しない・・・
そんなスタンスの冷めきった親子関係。
物心付けばそんな事は分かりたくなくとも娘には、理解できたのではないでしょうか。
そして援助がないばかりか、その父親は時に暴力を振るう事もあったそうです。
最低の父親だった。
それでも母親は縁切りすることができなかったのでしょう。
どんな思いで幼い頃の百恵さんはそんな母親と父親を見ていたのでしょうね。
山口百恵の父親の非情さが酷い!
でも彼女は運命は自分で切り開くと言わんばかりに『スター誕生』で見事チャンスをつかみスターへの階段を駆け上がります。
1973年デビューして瞬く間にスターとなり数々のヒット曲を出した彼女は、文字通り昭和を代表する売れっ子歌手と成長します。
そんな婚外子である百恵さんに、幼い頃貧しい母子家庭の母子の生活を知りながら、無視を決めて時には暴力を振るった父親は、驚く事に百恵さんの芸能界での活躍を見て金の無心に走ったそうです。
その行為はマスコミへの売名行為。母親へ申し出た親権変更。
この非情過ぎる父親の行為に百恵さんは最後
手切れ金を渡して芸能界からの引退を決意したと言われています。
愛する人との出会いで自らが描き理想とした平凡な家庭で幸せな家庭を作る。
恐らくは何よりもこれを人生の1番の理想としていた彼女は、当時の考えらえない自身の人気より、女性としての幸せを選んだ。
母親や自分や姉妹を幸せにしてくれなかった父親に、最後の手切れ金を渡し、百恵さんは引退を選んだのです。
1973年から1980年のたったの7年間での歌手としての活躍と、大成功を見事に手放して家庭に入った山口百恵さんは、やはり辛い生い立ちがあったからこそ惜しげもなく歌手の成功を手放す事が出来たのかもしれません。
しかも当時の引退時の年齢は21歳です。
いかに凄い事をやってのけたのかが分る年齢ですよね。
そしていかに愛する男性との平凡な家庭を良しとしていたのかがこの引退からも生い立ちからも分かるかとおもいます。
それ程彼女の当時の人気は物凄い人気だったと言われています。
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おわりに
不幸な生い立ち、寂しい幼少期があったからこそ誰もが望む大成功を手にしながらも惜しげもなく手放すことができたのはやはり何が一番大切なのか?何が自分にとっての1番の望みなのか、若くてもしっかり理解していた山口百恵さん。あの引退はまさに引き際の美学を象徴する引退だったのでは~と今でも語り継がれる存在である事がまさに伝説の歌手なのかもしれませんね。
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