ギリシャ系アメリカ人のソプラノ歌手として
一時代を築いて今もなお語り継がれる伝説の
ディーバマリアカラス。
その歌声の持つ表現力の広さと力強さはオペラ
ファンの心を鷲掴みにしました。
20世紀最高のソプラノ歌手と言われたマリアカラス
の生い立ちから華やかな表舞台とは違い裏側での
ドロドロした壮絶な人生を送った人物でもあります。
マリアカラスの生き方、彼女の心を揺さぶり
続けた非恋とは?
今回はマリアカラスの生涯を生い立ちから
調べてみました。
マリアカラスの生い立ち~母の英才教育と親子断絶まで
1923年12月2日ギリシャ系移民の子として
アメリカ合衆国のニューヨークで生まれます。
母のエヴァンゲリアは男の子を望んでいたため
望まれていない子だったマリアカラスは両親からの
愛に飢えていました。
寂しさを埋めるように姉が受けていた音楽の
レッスンを見て真似ていたのですが、それを見た
母は彼女に音楽の才能を見出し、マリアカラスは
以後英才教育を受けることになります。
その日からレッスン漬けの日々を送ることに
なりますが、姉と比べられ、厳しさと姉と
自分との愛情の差にマリアカラスは心を痛めます。
ストレスの影響でまだ15歳にもならないうちに
過食症になってしまいましたが、母もまた、美しい
声のためには脂肪も大事と考えており、ケーキや
砂糖菓子など甘いものをなんでも与え、そのまま
太らせたそうです。
そのせいで彼女のピークの体重は105㎏もの巨漢だった
と言われています。
両親が不仲となり離婚した際には母とギリシャへ
帰国しますが、厳しい母より父への愛情のほうが
大きかったマリアカラスは深い悲しみに暮れました。
13歳になったマリアカラスは、アテネ音楽院に
年齢を偽って入学。
ここで、スペイン出身の世界的に有名な
コロラトゥーラ・ソプラノ歌手、エルビラ・デ
イダルゴに出会い、彼女の生涯の恩師となります。
イダルゴは、教師であると共に母親代わりでもあり
マリアカラスにベルカント唱法や幅広いレパートリーを
教え、その才能に更に磨きをかけます。
1938年、15歳の時にアテネ王立歌劇場で
『カヴァレリア・ルスティカーナ』の
サントゥッツァを歌いプロデビュー。
この時点で姉よりも秀でた才能を見せていたようですが
マリアカラスは母親の影響もあったのでしょう、誰にも
負けたくないという気持ちで更に音楽に没頭します。
1945年にはキャリアを積むべく、母から離れ
遠ざけられていた父親のいるアメリカへ渡り
その後はイタリアなどにも活動の場を広げていきます。
彼女の歌唱法は、その才能に加え彼女の魂の
叫びが宿っており、感情の見え隠れする歌声は
多くのオペラファンを釘付けにしました。
しかし、自身の太りすぎた体型がコンプレックスで
内向的な性格は変わることはありませんでした。
後に、オペラ界で知らない者はいない程
有名になったマリアカラスは、30代の頃
母国ギリシャでのある公演に母を招待しました。
しかし、母は彼女の努力を労うこともせず
多額の金銭だけを要求したと言います。
そのあまりにもアカラサマな態度にようやく
マリアカラスは意を決して絶縁することに。
またそうしたマリアの絶縁を母親は恩知らずで
飛んだ親不孝者と世間に言いふらしたと言います。
母親に愛されたい、認められたい。
ただこの一心で歌を歌ってきたマリアにとっては
毒母意外の何物でもなかったのです。
マリアカラスの海運業と世紀の恋
ひたすら音楽ばかりだった20代の頃の彼女は
いつしか心の拠り所を求めるようになっていました。
はじめにマリアカラスを射止めたのが、
ジョバンニ・バティスタ・メネギーニという
イタリア人の実業家でした。
メネギーニは妻がいたものの、日に3通、4通と
マリアカラスに手紙を出し猛アタックの末に
愛人兼マネージャーとなります。
その後妻と別れマリアカラスと結婚しますが
メネギーニの本心は母と同じくマリアカラスの
持つお金が目当てだったと言われています。
既に名声を経て世界的ディーバとして注目を集め
巨額の金を生み出すマリアは彼にとっての良い金づる
でしかなかったのです。
それでも、マネージャーとして彼女を積極的に売り込み
マリアカラスはついにはスカラ座の女王となります。
歌うことに妥協をしない彼女の無理な発声や
難しい音域もごまかさず歌い続ける姿に彼女を
不安視しはじめる観客もいました。
そして、妻のいる男を寝取った女として世間からも
バッシングを受けていたマリアカラスの心と体は
疲れ果て、悲鳴をあげていました。
そんな時、マリアカラスが37歳を迎えた頃に
二度目の恋が訪れます。
世界で「海運王」と呼ばれる大富豪アリストテレス
オナシスが、自身の所有する豪華客船の度に
マリアカラスを招待しました。
マリアカラスは気分転換もかねてそれに
参加するのですが、この船旅でオナシスとの
関係が親密に。
メネギーニのように利益を求めてこない
オナシスをすぐさま深く愛するようになります。
不倫としてマスコミに知られ、世間にまたも
厳しく叩かれますが、マリアカラスにとっては
愛をくれるオナシスがいればそれでよかったのです。
マリアカラスは、オナシスと共に生きる
道を選び、メネギーニと離婚します。
しかし、その先に待っていたのは幸せな
結末ではなく、最悪な結果でした。
マリアカラスが46歳の頃、オナシスは何故か
アメリカ大統領ジョンFケネディの元妻の
ジャクリーン・ケネディと結婚してしまいます。
オナシスにとってマリアカラスは、自分の
名声を得るための存在でした。
深い関係が長く続いたとは言え、彼が妻として
選んだのは、それよりももっと有名な女性
ジャクリーン・ケネディを選んだのです。
マリアカラス失意のうちの自殺未遂
「オナシスなしでは、私はつまらない人間です。私が女になるのは彼の目の中でだけ」
マリアカラスにとってオナシスの
存在は大きすぎました。
オナシスの理想の女性になる為、過酷な
ダイエットや私服、髪型など、オナシスの
言うとおりにしており、歌に仕事に疲れていた
彼女には、オナシスと彼のいる派手な社交界は
唯一の心の拠り所でした。
オナシスを忘れようと再びオペラ歌手として
コンサート活動も再開するも、オナシスに合わせた
喉に気を遣わない生活を続けてきたせいで
思うように声が出ませんでした。
純粋なマリアカラスは、オナシスに裏切られた
ショックで精神異常に誓い錯乱状態となり
薬物を乱用するようになります。
睡眠薬で自殺未遂を起こすほど、彼女にとっては
あまりにも大きすぎる傷でした。
「浮気女」と呼ばれてもオナシスを思い続けた
彼女の本当の愛は、こうして終りを迎えました。
マリアカラスの晩年
1974年、日本でピアノ伴奏による
リサイタルを行い、これが彼女の
最後の舞台でした。
真紅のドレスを身にまとった彼女は、優雅な
笑みを浮かべひとつの役になりきっており、声は
衰えていたものの、オペラの舞台を思わせる
その演技は観客に深い感動を与えたそうです。
そしてそれを皮切りに世界から隠れるように
パリ16区の自宅アパートに引きこもって
いたといいます。
ほとんど誰とも会うこともなく、飼っていた
2匹のプードルとともに静かに暮らしたそうです。
1977年、自宅で入浴中に心臓発作で
亡くなります。
わずか53歳でした。
睡眠薬の多用によるオーバードーズが死因と
言われていますが、彼女に薬をあげていて、遺産を
横領したヴァッソ・デヴェッツィというピアニスト
による毒殺説も噂されています。
20世紀のオペラ界を支えた伝説的なディーバ
マリアカラスは最後まで愛を求めて孤独な
ままこの世を去ったのです。
おわりに
求めれば求める程彼女の期待を裏切るマリアの周囲の人達、実の母親はじめ、愛した男全てが彼女を心の底から求める事はしてくれませんでした。喉が引きちぎれる程の熱唱で愛の歌を歌い人々を感動させたマリアカラスの儚くも小さな夢は世界のディーバになっても叶わなかったと思うと悲しすぎる生い立ちと生涯だとしか言いようがありません。
オペラ歌手としての成功などマリアにとっては本当はどうでも良かった事だったのかも~そう思えるほどに切なく儚い生涯であった事を想いつつ人には名声もお金も本当ならさほど重要ではないのかも~とも思えてしまう程です。
マリアカラス永遠に~
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