今から8年前肝臓癌で75歳の生涯を閉じた歌手の島倉千代子さん。そして島倉千代子没後8年のその日、因縁の細木数子が逝去したニュースを見て何とも複雑な心境になる人も少なくないと思います。
「人生いろいろ」など大ヒットした名曲を持つ彼女の人生こそ波乱に満ちた地獄の生涯だったと語られています。
改めて島倉千代子の生い立ちから旦那の屑過ぎる面々に、更に追い打ちをかけるかの如く現れた細木数子との関係や持ち逃げ騒動の真相など、生涯を生き地獄で生き抜いた島倉千代子を振り返ってみようと思います。
島倉千代子プロフィール
名前:島倉千代子(しまくら ちよこ)
別名:お千代さん
生年月日:1938年3月30日
出身地:東京都品川区
死没:2013年11月8日(享年75歳)
最終学歴:日本音楽高等学校
デビュー:1954年
職業:歌手
所属:コロンビア
島倉千代子の生い立ち~最初の不幸
警察官だった父、島倉としおさんと母、ナカさんとの間に2男4女の4女として誕生します。
ただ実際は、この6人兄弟の間に1歳と6歳で逝去した姉がおり、実際生存していたら8人兄妹だったようです。
終戦前の1938年に誕生した島倉千代子さんですが、1945年の終戦した年に食料事情なのか長野県松本市に疎開、その後両親の郷里である群馬県桐生市にも半年間疎開します。
この時、千代子さんは7歳でしたが最初の不幸として井戸に水を汲みにいった時転倒してしまい水の瓶が割れ、その瓶でまだ幼い彼女は左手首から肘までの47針を縫う大怪我をします。
当時、あまりの怪我から医師には左腕の切断を提案された程の大怪我だったようですが、それを母のナカさんが制止。
「女の子だから何とか腕だけは残して欲しい」と医師に懇願した事で切断を免れたようです。
ですが当然、幼い子供の47針にも及ぶ大怪我はその後、彼女の日常生活に影響を及ぼさない訳が無く、その大きな左腕の傷で学校でもイジメに合う事があったようです。
当然、腕の傷と学校での心無いイジメの影響もあり、なかなか腕の感覚は戻る事もなく幼少期の頃は左腕は動かなかった程の傷だったようです。
この47針も縫う大怪我の時にされた処置の輸血が、後の島倉千代子のC型肝炎の原因になったと言われています。
島倉千代子と歌との出会い
7歳と言う幼い子供の47針もの大怪我から積極的に学校の友達とも関わる事が出来なかったであろう、娘を案じて当時、戦後最大の大ヒットと言われる「りんごの唄」を聞かせたそうです。
後に歌手としてデビューする島倉千代子のデビュー曲「この世の花」もこの「りんごの唄」の作曲科である万城目正だったようです。
この母の何とか気持ちを明るくさせたい、の想いから当時の流行りの唄「りんごの唄」を4女である千代子に聞かせ、恐らくはその姉敏子にも聞かせていたのでしょう。
姉の敏子さんは当時から歌唱力がありましたが、幼い頃から小児麻痺を患っていたために歌手にはなれませんでした。
それ故、そうした姉の心情も察していただろう千代子が、「私が姉の変わりに歌手になる」そう思ったのが歌との出会いであり歌手を目指す一つのきっかけとなったようです。
それからは大好きな姉敏子に声楽を習い、2人で東京に帰郷した際には近所にあった「若旦那楽団」に入団し、左手には負担のなかったアコーディオンを担当します。
当時から姉の敏子に負けない歌唱力もあったためボーカルも担当したりしもして姉妹は、品川神社で開催される、のど自慢大会では毎回姉妹で参加していたそうです。
姉妹の歌唱力には、当時から定評があり地元では「のど自慢ならし」といわれる程になっていました。
その後コロンビア歌謡教室にも通い、才能を認められ16歳だった1955年に先に紹介した「この世の花」でデビューします。
そしてそれから2年後には昭和の大ヒットとなった「東京だよおっかさん」をリリース。
「この世の花」は映画の主題歌だった事もあり200万枚、「東京だよおっかさん」は150万枚で、こちらも映画化され驚異的な大ヒットを経て、19歳にして大スターの階段を駆け上がります。
この年、紅白にも初出場を果たしています。
20歳で港区高輪に一軒家を購入、同じ年には「からたち日記」も130万枚と言う大ヒットを経て、名実共に誰もが認めるスターとなっていました。
島倉千代子の旦那は屑そのもの
彼女の10代後半から20代にかけての1950年代から1960年代は、まさに全盛期。
飛ぶ鳥を落とす勢いの活躍だった彼女も1960年の22歳の時には既に紅白を6回に渡りトリを務める大御所歌手となります。
既に24歳となり日本中の誰もが知る有名人として活躍していた島倉千代子ですが、当然人気者はもろ刃の刃です、やっかみヒガミで講演会事務所に爆発物が届いてケガ人が出るなどの物騒な事件も起きています。
そうこうしている時、既に年頃となっていた彼女の心の支えとなったのが、元阪神タイガーズの藤本勝巳でした。
この藤本勝巳こそ彼女の、この後の人生を波乱への道のりに陥れた最初の人物でしょう。
栄華を極めた25歳の時、父が他界、この悲しみで落ち込む彼女を支えたのも藤本勝巳だったと言われています。
ただ残された母や兄妹らは、藤本勝巳との結婚には家族総出で大反対したそうです。
でも既に交際して子供も堕胎する程の関係だった2人は家族の反対を押し切り1963年で25歳で結婚します。
反対はしたものの結婚への持参金として当時のお金で1000万円を用意した母親でしたが、この結婚が失敗だった事は第三者から見たら明らかだったようです。
恐らく当時の1963年島倉千代子25歳当時の1千万円は現在のお金にしたら、相当な額となるでしょうがこのお金は直ぐに消えてしまったと言います。
藤本は結婚前から相当お金にだらしない男だったのです。
既にツケがあったらしく
・オーダーの洋品店
・スナック、キャバレーの事業失敗
これらで返済できずにいた負債を全て千代子の結婚持参金で清算します。
でもこれで終わればまだ可愛かったのです。
この藤本は相当質が悪く、当初から島倉千代子との結婚はお金が目的だったようです。
これだけのお金を使い込んでも、まだ足りず彼はその後も構わずどんどん借金を重ねます。
1968年に別れるまでの5年の結婚生活の中で作った借金が6千万から8千万だったそうです。
そう、全て妻だった島倉千代子にそれらを負わせたのです。
この5年の結婚生活でも千代子は藤本の子供を2回堕胎していると言います。
結婚前の1度と結婚後の2度、藤本との間に出来た子供3人を堕胎して夫となった藤本は、所かまわず大ボラを拭いては妻の名を盾に借金を重ねたのです。
島倉千代子の更なる転落
母や兄妹の反対を押し切って結婚した藤本勝巳との結婚は、散々な結果となり彼女を追い詰めました。
でもここで終わらないのが人生いろいろなのでしょうか、この失敗は島倉千代子のほんの助長でしかなかったのです。
更なる地獄は、この後想定外の人物からまたも騙される事になるのです。
デビューから順風満帆だった24歳の頃、ファンが投げたテープが目に辺り、その目の処置をしてくれた守屋眼科の守屋義人が失明するかも?と言われる程の怪我から見事に回復させます。
この時の縁から、藤本と離婚後の千代子と守屋は男女の関係になったようで愛人関係とも言われていました。
が、愛人とはいえ守屋は千代子の本質を見抜いていたのでしょう。
この守屋と関係を続けていた千代子は1975年に守屋に頼まれ実印をかしてしまったのです。
他人の連帯保証人として勝手に印鑑を使用された千代子に残った、その借金は当時のお金で16億円と言われています。
この時、千代子37歳でした。
藤本で8千万円とも言われる借金を作られ返済した彼女に、16億と言う巨額の借金の保証人に勝手にされてしまったのです。
泣く泣く別れた藤本と離婚後は家族を頼り帰ったものの、家族の大反対を押し切って藤本と結婚した事を家族は許さず門前払いしたと言います。
ただせめても救いが母親のナカさんも1972年千代子34歳の時、この後の娘の大転落を見る事なくこの世を去っています。
でもタラレバの話ではありますが、藤本との離婚後に、家族が支えてくれていたら、と思わずにいられません、この後彼女は孤独と本来持ち合わせた人を疑わない性格から更なる窮地に立たされることとなるのです。
見た事もない赤の他人(複数人)の保証人に16億円、守屋自身も事業に失敗し不渡りを出し、当然この守屋の連帯保証人にもなっていた千代子は、この守屋の借金もプラスで背負う事となります。
16億と守屋の事業失敗で保証人となっていた額が2億4千万。
あわせて20億円以上の巨額の借金が島倉千代子の借金になったのです。
この後、守屋は失踪し行方知れず、ちなみに元夫の藤本勝巳は存命しているようです。
島倉千代子と細木数子がした驚愕の持ち逃げとは
彼女の転落ぶりは留まるところを知らず、この巨額な借金の返済に名乗りを上げたその人こそ、当時戦後の高度経済成長期に夜の蝶として時代の寵児と言われて財を築いていた細木数子です。
ヤクザの女の顔を持ちながらも、数々の夜の店を取り仕切り、そのどれも大繁盛で大盛況を極めていた細木数子が、国民的スターの島倉千代子の巨額借金返済に名乗りを上げたのです。
銀座で運営していた自分の「クラブ艶歌」に千代子の債権者全てを呼び出し集め、借りた額を一人一人確認し全て返済したと言います。
その額、現金で3億円!
ふくらみに膨らんだ20億とも言われる借金を見事、借りた分の3億で目の前で現金で支払う事でケリをつけたと言います。
ただ、ここで終われば何という豪胆で情の深いママだったのだと究極の美談で終わるのですが、ココで終わらないからこその女ヤクザと言われた細木数子様です。
この3億でケリを付けた細木数子は当然の如く、この後の島倉千代子の興行権を手にします。
この興行権を手にした細木数子がしたこと、それこそが無期限状態で馬車馬のように島倉千代子を働かせたというのです。
世間知らずのお人よしの千代子は、私を助けてくれた「細木のママ」と慕い疑う事もせず言われるまま、地方のドサ周りから、キャバレー周りから何でもさせたと言います。
泣きっ面に蜂状態の千代子とはいえ、プライベートは波乱万丈でも表面上は売れっ子スター。
当時の千代子の売れっ子ぶりと売り上げから換算して、どう考えても1年も働けば返済可能な額だったと言われています。
こうした状態にも関わらず細木数子は、興行権を手にしたその時から、速攻芸能プロダクション「ミュージックオフィス」を設立し意のままに島倉千代子の稼ぐ収入を懐に入れたと言われています。
その期間3年もの間、千代子の稼ぐ報酬を手にしていた。
この詐欺まがいの行為を「持ち逃げした」と言われているようです。
ちなみに、このあまりの暴挙に見ていられなくなったレコード会社コロンビアが細木数子に話をして千代子の興行権を買い戻したそうです。
はい、等の昔に自分の出した3億は回収し、そこから3年売れっ子歌手をタダ働きさせた状態で、コロンビアから興行権を譲渡して欲しいの申し出には2億の提案でケリを付けたと言います。
そうですコロンビアからも2億で興行権としてお金を手に入れたのです。全ての完済に足かけ7年かけて完済したそうです。
凄すぎます、細木数子様…
ヤバすぎです。
後に回想録(著書)であれほど温厚そうな島倉千代子さんですが、明確な名前は入れてないものの、「殺せる者なら殺してやりたい」と言わしめた細木数子様、ハンパじゃありません。
島倉千代子の地獄の生涯
波乱の1970年代でしたが、これだけのプライベートの中でも歌手としての人気が衰える事はなく、穏やかな1980年代を迎えた中千代子46歳で歌手30周年記念を迎えます。
48歳の時には紅白出場30年連続30回出場を達成、史上最多記録を打ち立てます。
1987年から1988年には現代にも語り継がれる「人生いろいろ」が大ヒットし、第30回日本レコード大賞を受賞し30回出場で区切りをつけ辞退していた紅白に2年ぶりに復帰。
この年、姉の敏子が目黒川で投身自殺、1989年には歌手の中でも一際慕っていた、美空ひばりが他界します。
1993年に55歳で初期の乳癌に、その後手術は成功。
1991年歌手生活45周年を迎え2004年には歌手生活50周年記念を66歳で迎えた千代子さん。
そんな折に忘れた頃の2006年最後の最後また彼女を裏切る人物が現れます。
信頼していた事務所のスタッフに全財産、資産を奪われ多額の借金を抱えます。
この最後の裏切りに会った時千代子は「同じ過ちを犯すのは自分のせい」といい事務所を解散し、簿記から習いなおし経理も自分で全てこなすようになったそうです。
この後も精力的に借金返済の為に働き、全ての借金を清算して2013年11月8日2010年12月から発症していた肝臓がんが悪化し眠るように息を引き取ったと言います。
他人が作った借金の全てを返済して。
島倉千代子と細木数子の奇遇
そして島倉千代子没した2013年11月8日から8年後の2021年11月8日、あれほど疑う事を知らず言われるがままに馬車馬のように働かされた島倉千代子の命日に、千代子が稼いだお金を「持ち逃げした」とまで言われた細木数子さんがお亡くなりになりました。
島倉千代子享年75歳
細木数子享年83歳
真逆とも取れる対照的な人生を生きた2人の同じ日が命日と言う奇遇に驚きながら、あの世でも、やはり千代子さんは細木数子さんを避けるのだろうなと思いつつ、不思議な気分に陥っています。
おわりに
疑う事を知らない箱入り娘だった島倉千代子さんの壮絶な人生はまさに人生いろいろ。
最期までスタッフに騙されその全てを自らの責任として完済してこの世から旅立った島倉千代子さんのご冥福を改めてお祈りしたいと思います。
両極端な人生を歩んだ島倉千代子と細木数子さんが同じ命日と言う不思議にも人生の不思議を感じつつ…
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