かの西太合の子孫に辺り中国最後の皇帝
ラストエンペラーとして時代に翻弄された
愛新覚羅府議。
華麗なる家系に誕生したものの時代の変革期に
何度も翻弄された最後の皇帝の溥儀が生きた
波乱の生涯を生い立ちから追ってみよう。
溥儀が生涯めとった嫁の数や嫁の中でも1番
過酷な最期となった最初の妻婉容との悲劇。
最後の妻との出会いと晩年まで日本と関係
あった愛新覚羅府議の生涯を追ってみようと
思います。
愛新覚羅溥儀プロフィール
氏名:愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)
別号:ヘンリー
生年月日:1906年2月7日
在位:1932年3月9日~1934年3月1日(執政)
在位:1934年3月1日~1945年8月18日(皇帝)
出身地:清 北京市 (醇親王府)
没年月日:1967年10月17日享年61歳
(中華人民共和国 北京市)
愛新覚羅溥儀の激動の生い立ち
中国最後の王朝である「清朝」12代最後の皇帝で
後に日本の「満州国」皇帝となった愛新覚羅溥儀
(あいしんかくらぶぎ)は波乱の時代を生き抜いた
ラストエンペラーとして有名です。
1906年2月7日愛新覚羅溥儀は病死した清朝11代皇帝
「光緒帝(こうしょてい)」の弟の長男として
北京で生まれました。
当時の最高権力者・西太后から皇帝に指名された
溥儀は1908年、わずか2歳10か月で12代皇帝
「宣統帝(せんとうてい)」として即位します。
幼くして母親から引き離され、現存する中国最大の
木造建築で皇帝即位などの重要儀式を行う場として
知られる紫禁城で皇帝としての教育を受けました。
何でも思いのままになる贅沢な生活の一方で、伝統と
格式が重い環境には、うっぷんがたまり、孤独な
溥儀が唯一心を許したのは乳母アーモだけで、友達は
アリやコオロギだったといいます。
皇帝時代の溥儀はわがままな性格で、臣官たちを
集め殴り合いのけんかをさせたりなどあたり散らし、
憂さ晴らしをしていたようです。
1912年袁世凱の民主化運動である辛亥革命によって、
250年以上続いた清朝が滅亡し、溥儀は6歳で皇帝の
座を追われてしまいます。
その後は革命後も紫禁城での暮らしを中華民国
政府に認められていたといいます。
事実上の軟禁生活でしたが1924年には軍事
クーデターで住み慣れた宮殿から退去を命じられ、
結婚したばかりの妻と共に北京の日本公使館に
保護され、天津で亡命生活を送ります。
いつの日か滅亡した清朝を再興させ、また紫禁城に
戻ってくるという希望を持ち続け、後に溥儀は新たな
国家「満州国」の元首として清朝発祥の地に戻って
いくことになります。
愛新覚羅溥儀の5人の妻
愛新覚羅溥儀には5人の妻がいたことも有名です。
★婉容(えんよう)(写真上)
溥儀の正妻、皇后、内務大臣の娘。
溥儀16歳、婉容17歳で結婚し西洋的な環境で
素だった生粋のお嬢様であり聡明な女性でしたが
皇帝を夢見る溥儀から愛情を受けることは生涯
ありませんでした。
苦悩の中、次第に溺れていったアヘン中毒で
療養のため溥儀のもとを離れ、戦後1946年
1人独房で亡くなります。
★文繍(ぶんしゅう)
溥儀の第2夫人。12歳で溥儀と結婚。
一夫一婦制を主張した婉容のいじめにあい、
自殺未遂し家出、天津時代に離婚しています。
★譚玉齢(たんぎょくれい)
満州時代1937年に溥儀と結婚。
満州貴族の娘。温厚で優しく円満な結婚でしたが
22歳で謎の病死を遂げています。
一説には日本側は溥儀と日本人女性との結婚を
望んでおり、1942年関東軍が日本人医師により
彼女の治療を命じ彼女が死亡したことから、日本に
よる謀殺ともいわれています。
少なくとも溥儀自身は、自身の半生を振り返り
そうだったと疑っていなかったようです。
★李玉琴(りぎょくきん)
15歳の時満州宮廷に仕え、17歳で溥儀の
側室になり1942年結婚。
溥儀は日本人女性と結婚してほしいと言う日本の
要求に従わなかったとされています。
明るく善良で最後はアヘン中毒で廃人と化した
婉容の面倒を最後までみたといいます。
彼女は戦後共産党に捕まるも、被害者として
釈放され後に離婚が認められました。
2001年71歳で死去。
★李淑賢(りしゅくけん)
溥儀の最後の妻。
看護師をしており戦後1962年溥儀と結婚します。
唯一の一般家庭で育った彼女の育ちは超の付く極貧
生活で苦労の連続の人生でした。
その為、あまりの身分の差から当初は溥儀と李淑賢
との結婚に周囲は大反対したそうです。
それでも最初の結婚から幾度の婚姻関係を結んだ
溥儀が唯一自らが望んで結婚をしたいと言った女性。
56歳にして溥儀のはじめての恋愛だったと言われ
彼はようやく夫婦の幸せを実感したといいます。
彼女は溥儀の死後、その遺志に基づき後半生の
手記を書いています。
愛新覚羅溥儀の退位の理由
1931年満州事変の勃発により、日本の関東軍
(満州を管轄する軍隊)が中国東北部を占領。
大陸進出を果たし、新たな国家満州国の元首に
当時27歳だった溥儀を迎え、彼は1934年満州国の
皇帝の座につきます。
しかし当時の満州国は日本人が官僚、軍隊の
実権を握り傀儡国家に過ぎず、溥儀も操り人形とも
言われていました。
1945年ソ連の日ソ中立条約の反故により対日参戦
となり、圧倒的強さのソ連軍侵攻に関東軍、満州国は
太刀打ちできませんでした。
そして1945年8月15日日本の敗戦により、その3日後
満州国政府は国家の解体と皇帝退位を決定し、建国
から13年で満州国は崩壊し、溥儀も退位することになります。
愛新覚羅溥儀の晩年
愛新覚羅溥儀は満州国皇帝退位の翌日ソ連軍に
逮捕、抑留されます。
そして1950年に中国に引き渡され、溥儀は戦犯
管理所で満州国皇帝としての罪を告白し、中国
共産党の思想を学びます。
当時は既に毛沢東が大躍進計画を猛進中の真っ只中。
新たな中国の変革期とあり、毛沢東は中国最後の
皇帝である溥儀をその中華人民共和国の象徴として
民衆へ溥儀との良好な関係をアピールしたそうです。
溥儀と言えば、またも時代に翻弄されるべく共産党の
道を歩こうとする中国国家主席らの手前、自己を見つめ
人間らしさを取り戻す思想改造を受け、1959年中国誕生
10周年の特赦で釈放されています。
そして北京の植物園に勤務し草や花を育て、
満州族代表として中国人民政治協商会議の全国委員
となり、元気に庶民の暮らしをしていたと言われています。
1967年10月17日溥儀は腎臓がんによる尿毒症で
死去し、享年61歳、文化大革命の最中で晩年は
北京の一市民として静かに生涯を閉じました。
病床の晩年に食べたいものを聞かれると、溥儀は
「日本のチキンラーメン」
と答えたというエピソードがあります。
朝日新聞が
「溥儀は素朴な味を好み、日本から送らせていたそうだ。」
と伝えたといいます。
皇帝退位から一市民の生活に一変したとはいえ、
愛する妻や普通の生活の中で人間らしく生きる
時間が生まれた穏やかな晩年だったといえます。
ただ、溥儀が穏やかな晩年を過ごす間も、中国国内
の民衆は毛沢東らが扇動する文化大革命で多大なる
飢餓者や行方不明者を続出しているさ中でもあります。
溥儀は中国最後の皇帝として生まれ、その後時代の
変革期に日本の傀儡国家と言われつつ満州国の皇帝
となり、そして日本の敗戦と共に退位となる。
まさに時代に翻弄された皇帝でもあります。
溥儀が子供を持たなかった理由や最後の皇帝として
どう生きたか、孤独なエンペラーと時代に翻弄された
1人の男の生涯が描かれた映画「ラストエンペラー」
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ほんの50年前まで生きていた溥儀の生涯と最期が
見事に描かれ、5人の妻との関係や何故子孫が残って
居なかったのか?
ラストエンペラーは史実に沿って完成された映画です。
愛新覚羅溥儀は、果たして悲劇の皇帝だったのか?
おわりに
清朝最後の皇帝であり、満州国の皇帝として歴史に名を刻んだ「ラストエンペラー」愛新覚羅溥儀の生い立ちは清朝11代皇帝の弟の長男として生まれ、2歳で皇帝の座に就き、紫禁城で皇帝教育を受けますが伝統や格式を好まず、外界を夢見ている少年時代だったことがわかります。
溥儀は生涯5人の妻がいたとされており、日本の大陸進出の一環として建国された満州国の皇帝となりましたが、日本はソ連侵攻軍の強さに勝てず、日本の敗戦という理由で退位に至り、ソ連軍に逮捕・抑留された後中国に引き渡されました。
晩年は一般市民となり、植物園勤務や全国委員を務める穏やかな晩年ではありましたが、がんにより61歳で死去します。幼少から皇帝の座にあり特別な扱いを受け、中国の激動の時代をくぐり抜けてきた愛新覚羅溥儀に市民としての生活があったことも驚きですが、後年彼は人としての幸せをやっと得ることができたのではないかと感じます。まさに時代に変革期に翻弄された中国最後の皇帝ラストエンペラーの数奇な運命は日本の戦前戦後の歴史と大いに関係あった事が分かります。
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