日本が誇る細菌学者として現存するお札にも
残されている伝説の人野口英世。
彼の生い立ちは不幸な左手の火傷から始まった
と言っても過言ではない。
貧しい家庭に生まれながら懸命に自らの不注意で
大やけどを負わせてしまったとの想いから母親は
必死に昼夜を問わず働いた。
そんな母親の存在無くして今に語られる野口英世の
功績はなかったと思える生い立ちを追ってみよう~
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野口英世の生い立ち~左手の大やけど
今も日本人には身近な存在として現存するお札の顔と
して残っている最近学者として数々の功績を遺した
野口英世。
彼は福島県耶麻郡三ッ和村の農村地帯に1876年
(明治9年)11月9日に農家の長男として誕生。
農業を営む野口家でしたが父親佐代助は人当りはよく周りから
好かれる好人物ではあったものの今でいうヒモ体質な男で
ぐうたらで酒飲みで女好きで働かない夫だったと言われています。
そんな夫に変わり働き者だったのが後に野口英世を語る
のに欠かせない母シカの存在です。
野口英世には姉がいましたが、英世が誕生した事で
家族が増え更なる負担が母シカにかかる中悲劇が訪れます。
野口英世1歳の時寒い冬に暖炉の横に息子を置いて
温かく過ごさせていた時、両親(母親)の不注意で
幼い英世が暖炉に落ちてしまい左手に酷い火傷を負って
しまいます。
貧しく食べていくだけで精一杯のこの時代に医者に見せる
金があるわけも無く泣く泣く火傷が治るのを待つのみの
状態で今で言う自然治癒力に任せた結果が松ぼっくりの松の実
のような拳を握った状態の左手になってしまったそうです。
母のシカは激しく自分を責め『こんな手で清作(22歳で改名
するまで清作が本名)は農業も出来ない』と思い勉強に力を
入れさせるべく学問の道を後押しします。
野口英世の生い立ち~母子の奮起
母親のシカは、この息子の大やけどを大層苦にして
これまで以上に働くようになったと言います。
この子清作(22歳で改名するまでの本名)のこの手
では農業はもはや出来ないだろう。
その思いから昼は畑仕事を夜は子供を寝かしつけてから
川にエビを取りに行き、取れたエビを翌朝売りに町まで
売りに歩いたと言います。
かなりの距離を自分が収穫したエビと近所の人らから
預かった工芸品の数々を担いで何十キロもの道のりを
歩いて売り、その帰り道には又近所の人達に頼まれた
物を買い、それらを担いで何十キロもの道のりを歩いて
帰る生活を送ったそうです。
その距離片道30㎞!
自分の不注意のせいで息子(清作)の左手を使えなくして
しまったとの思いから、当時は裕福な家の子供しか通う
事が出来ない小学校への進学を何としても清作にさせるため。
その為だけに母シカは寝る間も惜しんで働いたそうです。
そして母の願い通りに念願の小学校入学から医師を目指す
志を持った清作。
当時自らの左手の不自由さを思いのままに作文に書いた
清作は、その作文がきっかけとなり先生や生徒の心を打ち
手術費用を集める募金活動がされる事に・・・
幼少期のお火傷で適切な治療も受けずに小学生と成長していた
彼の手は開けるどころか何も出来ない状態でした。
そんな彼の手をこの時の募金で集まったお金でアメリカ帰りの
医師に手術してもらう事が出来て彼は始めて指が使える状態に
なったと言われています。
この時手術をしてくれた医師の家に小学校卒業後は
住み込みで働きながら医学を勉強し独学で20歳で
医師免許を取得したと言います。
もちろんここでは紹介しきれない程の様々な人の手助けも
されながら彼の努力とやっぱり1番は母親のシカの願いや
これまでの努力が清作(野口英世)の医師への道を強く
後押ししたのは言うまでもないでしょう~
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野口英世が天才となったのは左手の火傷のおかげ
ただ忘れてならないのが絶対的なルーツとなっている
のはやっぱり母親のシカである事。
放蕩な父親はそんな環境の中でも家庭を見返る事が
なかった人物である事からも母親のシカの支えなくして
世界に名を遺す野口英世は存在しなかった。
1歳の時の左手の火傷は相当ひどく(治療が出来なかった故)
当然普通とは違う状態の左手を小学校の同級生はイジメの
対象として
『てんぼう てんぼう』(註)といい、からかいの対象に
なっていたと言われています。
そういわれた時の清作はじっと耐えるしかなくある時
学校に行くのも嫌になって学校をサボっていた所を母のシカに
見つかってしまいます。
当然烈火のごとく怒られると身構えた清作、
でもその時の母シカはこういい清作に対して
謝ったそうです。
『許しておくれ、火傷をさせてしまったのは母ちゃんのせいだ。辛いだろうがここで勉強をやめてしまったらせっかくの苦労が何にもならない。お前の勉強する姿だけが楽しみなんだ。我慢しておくれ』
そう泣きながら謝る母シカ。
この母シカの涙を見て清作は奮起するきっかけになった
そうです。
幼いながらに、いかほどまでに母親が自分の身を投げ出して
昼夜を問わず働いて学校に行かせてくれていたのか。
そう自答自問したときに彼はこの事がきっかけとなり
学校に行くだけでなく猛勉強を始め学校の教師も認める
程の成績となり終いには11歳で教師に変わり代用教員と
して同級生に勉強を教えられる程の学力を自力で身に付けた
そうです。
後に彼が語った言葉にこんな言葉があります。
『私の人生を振り返ると、この火傷が良かったのか悪かったの分かりません。ただこの火傷があり、その後の私があるのです』
そして天才ではなくいかに彼が努力をしたかが分かる言葉として
『ナポレオンは1日3時間しか寝なかった』
これが彼の医師免許を目指し勉学に励んでいた時の
口癖だったと言われています。
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おわりに
不幸にも1歳にして、男児が農業がまともにできないだろうと言われる程の不自由な左手となってしまった野口英世はそんなハンデも母シカの愛情と猛烈な努力を見て腐る事なく医師への道を独学でつかみ世界の細菌学者として名を遺した人物です。いつの時代も両親から得る影響の大きさを感じざる得ない素晴らしい母親の愛情が世界の野口英世を育てた1番のルーツであった事とどんな時も必死で息子を支えた母シカの強さと愛情に心が打たれます。野口英世に母シカの存在がなかったら恐らく今の千円札は存在しなかった~母は強しですね。
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