石田三成の生い立ち~律儀な性格故の関ヶ原の戦いと最後の言葉とは

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石田三成アイキャッチ

豊臣秀吉政権下で猛威を振るった
石田三成。

有名な関ヶ原の戦いでは、敗者である西軍側の
主役だったので名前を聞いたことのある人も
多いのではないでしょうか?

秀吉に対する高い忠誠心と頭脳派、策士といった
イメージの石田三成ですが、度重なる部下の
裏切りや創作などで「嫌われ者」としても有名です。

実際はどんな人物だったのでしょうか?

石田三成の生い立ちから最後までを追ってみようと
思います。

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石田三成の生い立ち~

石田三成は永禄3年(1560年)、近江国坂田郡
石田村(現在の滋賀県長浜市石田町)にて、
誕生しました。

父は浅井家家臣である石田正継、母は浅井家家臣
土田氏の娘で、三成は次男でした。幼名は佐吉
(さきち)と言います。

石田という姓は、生まれた村の名前であることから
元々は土豪出身の家なのではないかと言われており
身分としてはあまり高くないことが分かります。

三成は幼い頃から学問を学ぶ為に寺に預けられており
勉学に励んでいました。

同時期、元亀元年(1570年)、織田に寝返った浅井家は
「小谷城の戦い」において織田・徳川連合軍に敗北し
滅亡します。

近江国は織田の手に渡り、信長の家臣である羽柴秀吉
(豊臣秀吉)が領有することになりました。

三成はこの頃、秀吉に気に入られたことをきっかけに
14歳で秀吉の小姓として働きはじめます。

秀吉との出会いのエピソード「三献茶」は有名です。

羽柴秀吉が長浜城主だった頃、鷹狩の途中で
喉が渇き、当時まだ幼少の三成が預けられていた
観音寺に立ち寄ります。

秀吉は、寺の小僧として働いていた三成に
「茶をくれないか」と頼みます。

汗だくの秀吉を見た三成は、まずは大きな茶碗に
ぬるいお茶をたっぷり入れて持ってきます。

秀吉が2杯目を所望すると、三成は1杯目よりも
やや熱いお茶を量は半分程で差し出しました。

秀吉が3杯目を求めると、高価な小茶碗に舌が
焼けるほどの熱いお茶をほんのわずかに入れて
持ってきました。

まずぬるめの茶で喉の渇きを鎮めさせ
後の熱い茶を充分味わわせようとする
細やかな心遣いに、秀吉が感動して
三成を召し抱えた――という話です。

この話は江戸時代になってから創作されたと
考えられており、事実ではない可能性も高いのですが
石田三成が相手の様子を見て、気配りができる
人物だったと言う事を物語るエピソードとして有名な
逸話として語り継がれています。

最後
※長浜の秀吉・三成出会いの像

また、この逸話とは関係なく、石田三成が18歳の時に
姫路で羽柴秀吉に仕えることになったと言う説もあります。

三成は、武功もそこそこあげましたが、主に
戦後処理などの外交、内政の事務仕事、武器や
食料の補給などの仕事を担当していました。

天正10年(1582年)、「本能寺の変」で信長が倒れ
羽柴秀吉が天下取りを目指すようになった頃、三成は
20代前半にして羽柴家の有能な家臣と他家にも名が
知られるようになっていきます。

天正13年(1585年)、秀吉が従一位関白となった際
三成も従五位下治部少輔に叙任されます。

天正18年(1590年)、天下統一へ向け、秀吉は
北条氏の討伐を実施。

三成は忍城の攻略を命じられますが
失敗してしまいます。

この時、忍城は城主不在、守備兵は500人程度
三成側は46倍もの戦力がありながらも失敗している
事から、三成は戦下手だと言われています。

文禄元年(1592年)、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)で渡海し
増田長盛や大谷吉継と共に漢城に駐留し、総奉行を努めます。

2年目には碧蹄館の戦いや、幸州山城の戦いに参加。

この文禄・慶長の役が原因で、文治派の石田三成と
武断派の加藤清正、福島正則と激しく対立してしまいます。

最初の出兵である文禄の役で清正は戦果をあげたのですが
身勝手な進軍や、勝手に豊臣清正と名乗るなどしていました。

三成はその件を秀吉に「清正が和睦の邪魔をしている」
と報告し、秀吉は激怒。

清正を即時帰国させ、謹慎処分にしました。

清正はこれに怒り、

「三成を一生許さぬ。たとえ切腹となっても仲直りなどできぬ」

とまで言ったほど。

元々、第一線で戦ってきた武断派の家臣から
してみれば、安全な場所で命をかけるわけでもない
文治派の三成の立場は面白くありません。

そんな中、慶長3年(1598年)に秀吉が亡くなり
豊臣家家臣の仲違いのブレーキ役でもあった前田利家も
慶長4年(1599年)に続けざまに亡くなってしまいます。

当時は、秀吉の子供である豊臣秀頼がまだ小さく
石田三成を中心にした「五奉行」と徳川家康を中心にした
「五大老」という二つのグループによって政治が行われていました。

しかし豊臣家の内部は崩壊、対立関係も仲裁者がいないので
悪化してしまい、加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興ら
武断派は
、利家の死後すぐに大阪にある石田三成の屋敷を
襲撃します。

これを仲裁したのが、徳川家康です。

この対立を利用し、武断派を味方につけて
豊臣政権の弱体化をはかりました。

結果この対立がきっかけで、慶長5年(1600年)
有名な「関ヶ原の戦い」へと発展します。

石田三成はその野戦で多くの裏切りに遭い
あっけなく破れてしまいます。

その後、家康の命により京都の六条河原で斬首され
41歳という若さでその生涯を終えました。

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石田三成と豊臣秀吉への想い

石田三成は、豊臣秀吉の死後も豊臣家に対して
忠誠を誓い、関ヶ原の戦いへ踏み切ったと言われますが
三成の秀吉への想いがわかる逸話があります。

毛利輝元が、季節外れの時期に、秀吉に対して桃を
献上したいと持ってきた際、三成は

「季節外れの果物を秀吉が食べ、それが原因で秀吉が病気になるようなことがあってはならない」

とし、輝元に伝え、返上したと言われています。

「成るべく、季節のものをば進上ありたし」

これが名言となり、秀吉の健康に対する
気遣いがわかります。

関ヶ原の戦いで三成を裏切った
小早川秀秋に対しては、

「汝に二心あるを知らざりしは愚かなり。されど、義を捨て人を欺きて、裏切したるは、武将の恥辱、末の世までも語り伝へて笑うべし」

と言っており、義を捨てて人を欺き裏切った事は
武将として恥なので末の世まで語り、笑うべき
という意味のもの。

大一大吉
一方で、石田三成の思う天下統一は旗印の大一大万大吉の通り

「1人が万民のために、万民は1人のために尽くせば、天下の人々は幸福(吉)になれる」

という志からなるもので、主君秀吉の天下統一は
庶民と武士の身分をはっきりと分けた、まったく
別のものでした。

この考えの違いから晩年の秀吉に対する忠誠心は
薄れていたとも言われています。

石田三成の性格は律儀な堅物?

豊臣家臣との対立、関ヶ原の戦いでの重なった
裏切りから、世間では三成は「嫌われ者」「悪者」
「嫌な奴」
といったイメージが突出しています。

でも、意外な一面もあります。

三成は義理堅く、自分のことには
無欲だったといいます。

秀吉が「三成に土地をあげる」と言った際も
きっぱり断り、反対に自分が認めた家臣には
自分の報酬をあげる等していたそうです。

三成と親友だったと言われる大谷吉継との
エピソードも有名です。

大坂城で開かれた茶会において、招かれた豊臣諸将は
茶碗に入った茶を1口ずつ飲んで次の者へ回していきました。

この時、ハンセン病だった吉継が口をつけた茶碗は
誰もが嫌い、後の者達は病気の感染を恐れて飲むふりを
するだけでしたが、三成だけ普段と変わりなくその茶を
飲んだという話です。

一説には、吉継が飲む際に顔から膿が茶碗に落ち
その膿ごと茶を飲み干したとも。

「嫌な奴」とは思えないような内容です。

石田三成の柿の逸話も有名です。

武断派の細川忠興と文治派の三成はとても仲が悪く
三成は仲直りしたいと考え、同じく五奉行の一人の
前田玄以に仲介を頼みます。

仲直りに、と設けた席で、盆に柿を載せた
三成が現れました。

そしてそれを忠興の前に置き、

「越中守(忠興)は柿がお好きだと聞いている。私のことは気にせず、まあ食べてくれ」

と言いました。

細川忠興は元々怒りやすい性格だったのもあり
挨拶もせずいきなり柿をよこしてきた三成に怒って
帰っていったという内容。

コミュニケーションが苦手で不器用な
堅物らしい逸話です。

三成の腹心の部下である島左近は、

「決断が遅いからいつも失敗する」

と言っており、大谷吉継は

「才知に長けているが勇気が足りない」

と言っています。

かなり慎重派であるのもわかります。

石田三成の場合は、その立場的にも批判は
されやすかったでしょう。

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石田三成の関ヶ原の戦い最後の賭け

石田三成が、天下分け目の戦いとも言われる
「関ヶ原の戦い」を起こしたのは、徳川家康に
亡き秀吉の豊臣政権を乗っ取られるのを阻止
する為でした。

死んででも、この豊臣政権を守るために
立ち上がったとされます。

合戦の前に、三成は

「内府ちかひ(違い)の条々」

全国の大名に発行します。

13か条にわたって家康を弾劾した宣戦布告文書です。

これに反応して集まった武将が、毛利輝元、増田長盛
長束正家、大谷吉継、小西行長、脇坂安治、安国寺恵瓊
小早川秀秋
といった顔ぶれ。

石田三成ら西軍は総勢10万、徳川家康ら東軍は7万。

先に石田勢が陣を構えたことから、徳川勢は
不利な配置でした。

にもかかわらず負けてしまったのは、複数の裏切りから。

敗因の決め手となったのは小早川秀秋の東軍へ
寝返りで、小早川秀秋の率いる大軍がいなくなった
ことが痛手となりました。

これをきっかけに、他の部隊もいくつか寝返ることに。

さらに総大将である毛利輝元や、増田長盛は
布陣もしていませんでした。

この戦いはたったの半日で決着がつきました。

「コミュニケーション下手で人望がない」

事が災いして、石田三成が豊臣政権を
壊す形になってしまいました。

石田三成の最後と最期の言葉

関ヶ原の戦いで負けた石田勢のうち主な
役割を果たした、石田三成、小西行長
安国寺恵瓊は家康に捕らえられます。

家康は、処刑前に3人に小袖を与えます。

他の2人が受け取る中、三成は

「この小袖は誰からのものか」と聞き

「江戸の上様(家康)からだ」と言われ激怒します。

「上様と言えば秀頼公より他にいないはずだ。いつから家康が上様に成ったのか」

と小袖を受け取りませんでした。

また、処刑場の警備兵に対し

「喉がかわいたので、白湯でもくれないか」

と頼むのですが、

「柿でもかじって我慢しろ」と言われます。

それに対し三成は

「柿は痰たんの毒になる(喉に悪い)からいらぬ」

と断りました。

「処刑される直前なのに、今さら体を気づかって何の意味があるのだ」

と笑われましたが、三成は死の直前まで自身の
志を遂げることを諦めていなかったと言われています。

「命を惜しむは、ひとえに我が志を達せんと思うがゆえなり」

死ぬのが怖いということではなく、自分の信念を
達成できずにこの世を去ることが悔やまれる、
という意味の言葉を残し、その生涯は幕を閉じました。


石田三成の最後の決戦である映画『関ヶ原の戦い』が
面白いです。
演技派俳優として活躍するV6の岡田准一が堅物な
石田三成を主演で演じています。

上記のエピソードにあった「三献茶」での秀吉との出会い
や小早川秀秋らの裏切りなど迫力満点で天下分け目となった
関ヶ原の戦い。

これ私去年映画を見に行きました。

久しぶりの邦画でしたが迫力満点で面白い。

是非ご覧になってない方は映画『関ヶ原の戦い』
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秋の夜長に是非石田三成の波乱に満ちた
人生と戦国時代の苛酷な下克上の様をご覧に
なってくださいね。

おわりに

敗者となった石田三成は家康によって「悪者」という扱いをされ、伝え続けられましたが、石田三成の残した「大一大万大吉」という文字紋が文献で登場するようになり、石田三成が平和な世の中を夢見ていたということがわかります。
三献茶や、柿にまつわる逸話だけでなく、一記事では伝えきれないほど、三成の人となりのわかる話はたくさん残されています。最期の言葉からも決して揺るぐこと無い思いが伝わってきますし、かっこいい戦国武将だと思います。


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