幼少期の凍傷から四肢切断の身で見世物小屋で
四半世紀を過ごし、自らの半生を恨む事無く
懸命に生きた中村久子さん。
日本のヘレンケラーと言われる彼女の生い立ち
から半生は壮絶過ぎる生涯です。
でも彼女が生涯を通じて最後に出した結論は
健常者より無い無い尽くしだったはずなのに
彼女が大好きだと残した詩は「あるあるある」
でした。
生涯に4人の夫を持ち3人の娘にも恵まれ人並み
以上の努力で人生を全うした中村久子さんの一生を
追ってみようと思います。
中村久子プロフィール
氏名:中村久子(なかむらひさこ)
出身地:岐阜県大野郡高山町(現高山市)
生年月日:1897年11月25日
没年月日:1968年3月19日(享年72歳)
職業:明治から昭和期の興業芸人、作家。
中村久子の生い立ち~病による四肢切断
中村久子さんは1987年岐阜県高山市で、畳職人をする
父親の釜鳴栄太郎と母あやの長女として生まれました。
幼名は「ひさ」だったそうです。
そんな久子さんが2歳の時、左足の甲に起こした凍傷が
手足にまで広がり、高熱と激痛の日々を送ります。
幼い久子さんは
「あんよが痛いよ、あんよが痛いよ」と
泣き叫んだと言います。
3歳で肉が焼け骨が腐る難病と言われる突発性脱疽
(だっそ)と診断され、家族で手術を検討している間に
左手が手首からポロリと崩れ落ちたといいます。
その後、久子さんは両腕を肘関節から、両足を膝から
切り落とし、手足のない達磨(だるま)娘と言われる
ようになったのでした。
おそらく岐阜県でも高山と言う極寒の地であった事
と当時の状況から乳児が健康に過ごせる温度を保て
なかったのが理由でしょう。
血液生涯からの凍傷が、よもやその後の人生を左右
する程の大ごとになるとは誰も想像が付かなかった
のだろうと思います。
幼い子供が凍傷がきっかけとなり両手両足への脱疽
を起こし、切断前に左手がモゲ落ちるなど今では
到底考えられない不遇としか言いようがありません。
生後すぐに難病による闘病生活を送るという不幸に
見舞われ、希望のない幼児期を送らざるを得なかった
中村さんを思うと絶句してしまいます。
中村久子の生い立ち~我が子の為に父の奔走
不幸にも凍傷から僅か3歳にして両手足を
無くした我が子を父親は嘆き悲しみ、その後
様々な医師に見せ奔走したと言います。
当時の久子さんの父親栄太郎さんを知る人に
よると仏のような善良な人物だったそうです。
それゆえ、自らの先祖の行いが悪かったから娘
久子がこんな目にあっているのでは?と懺悔の
日々を過ごし想い悩む日々を過ごしたそうです。
そうして行きついた先は現在でも良く聞くし
残念ながら、そうした人が大金をつぎ込んだと
言う話は後を絶ちませんが、久子さんの父親も
自らの先祖までに思いを馳せ最後は新興宗教に
その想いを捧げます。
こうしたら治る、もっとお布施をすれば娘は良くなる。
様々な言いようで父親はたかられたのでしょう。
藁にもすがる思いの親は必至です。
金に糸目を付けず継ぎこんで、久子さんの父親も
かなりの借金をしたそうです。
当然そんな宗教で娘の久子さんの病が治る訳も
なく失った手足が伸びてくる訳でもありません。
畳屋の商売そっちのけで奔走した結果多額の
借金を宗教につぎ込んで、そうした心労が祟り
父栄太郎さんは急性脳膜炎となってこの世を去ります。
当然女で一人で残された母あやが一人で返済できる
借金ではなかったため、母親は7歳の久子さんを祖母
に預けて働きに出る事になります。
中村久子~生い立ち~祖母ゆきの元で
7歳から母方の祖母ゆきの元に預けられることと
なった久子さんは、その祖母の元で教養を身に付け
人として人間らしい扱いを受けて育ったと言います。
祖母ゆきは丸野と言う医師の一人娘として育つ
当時としてはとても教養のある人物だったそうです。
その祖母の元、学校に通えない久子さんは
「万葉集や古事記」など全てを祖母に教えて
もらったそうです。
そして祖母が人とは違った事は誰が来客しても
『久子出てきなさい』と言い両手足の無い久子さんを
堂々と人前に出し
『うちの孫娘です』と紹介してくれたそうです。
当時の時代背景からしても、隠れなさいとか
隠すようにして障害児を持った家庭や家族には
そうした行為は珍しくなかったようですが、それとは
真逆の行為によって、最初は手足の無い子供を前に
戸惑う来客も、慣れてきて終いには、勉強もできて
字もかけた久子さんを訪ねてくるほどになったそうです。
「字はこう書くのよ、人が来たらこう挨拶するのよ」
そう言って祖母は人としての礼儀や勉強など独りの
人間として自らの可愛い孫として丁寧に接してくれたそうです。
この7歳から9歳の間がどれほど幸せだったことか・・・
その後母親との暮らしが始まり、久子さんは思い知る
事になります。
中村久子の生い立ち~母親の心を鬼に
夫に先立たれた母あやは久子さんの病気を
治す為に医師やら新興宗教に多額の金をつぎ込み
借金してこの世を去った夫に代わり借金を返済
する必要がありました。
そうして娘久子を母親に預けて働きに出て2年後
母あやは出先で再婚相手を探して久子さんを迎え
にきます。
相手の義父も子連れの再婚同士。
ただこの男性が良い義父とは言えず、祖母ゆきとは
真逆の対応で冷遇して久子さんをイジメます。
再婚相手の義父も亡くなった父親と同じく畳屋
を営む夫でしたが、その性格は陰湿で障害者である
連れ子久子さんの事を了承して再婚したにも関わらず
酷い仕打ちのオンパレード。
来客が来たら2階に入れられたり、奥の部屋に入れられる
など日常茶飯事。
その状態でいつまでも独り部屋に閉じ込められ
おトイレを我慢するのがご飯を抜くより辛かった
と後に次女に話していたそうです。
そんな日々でも手間のかかる金のかかる久子に
日に日にキツク当たるようになった義父は終い
には虐待までするようになったそうです。
切断した両手足がどれほど痛んだか、その痛さと
義父からの虐待のストレスで彼女は9歳にして目まで
見えなくなってしまったと言います。
そうした夫に見かねた母あやは決意したのでしょう。
それまで溺愛していた母親がです…
きっと想う所があったのでしょう。
手足に加え光まで失った我が子…
母のあやさんは、久子さんを負ぶって自殺も
考え久子さんを背負い山道を登り川の上流で
立ち止まったと言います。
その様に幼いながらに久子さんが
「かか様、怖いよ~」と泣き我に返って母親は
死ぬに死ねず家に帰ったと言います。
これを期に心を鬼にした母親あやさんは、他人に
頼れない現実を目の当たりにして娘の久子さんに
それまで以上に厳しく躾けをするようになったと
言います。
その厳しさは、久子さん曰く
「これが本当の親か」と思ったほどの厳しさだった
そうです。
口で文字を書き、肘で針をはさんで歯や唇で
糸を通したり、着物を縫うなどができなければ
食事さえさせてもらえないため、必死で努力を重ね
久子さんは15歳で立派に単衣を縫うまでになります。
両手、両足が無い我が子に母親のあやは、こう言います。
「出来るまでやってみること、やれないことははやってみないからなのだ。」
「出来ないのは横着だからです」と言い決して
諦めず許さなかったと言います。
という母親の言葉を自伝でも紹介しており、
火おこしや掃除、布団の上げ下げまで
したといいます。
できずに苦しむわが子を目の前にどんなに
つらい思いだったことでしょう。
再婚相手や再婚相手の子供らの心無い久子さんへの
態度を見て自分が心を鬼にしてでも一人前にするしか
生き残る道は無い。
きっと母親はこう決意したのでしょう。
40代と若くして亡くなった母あやの事を後に久子
さんの次女が人づてに鬼婆だ。幼い頃に聞いていた
と言います。
手足が無い娘に、手助けもせず、全てをやらせた
鬼婆だ、と。
そうでは無いのですが他人から見たら、それほど
鬼気迫る勢いで母あやは久子さんを一人前の女に
育てようと豹変したそうです。
間違いなく手助けしたかっただろうに…
じっと見て出来るまで見守った母あやの想いは
いかほどだったのか、と胸に詰まるものがあります。
こうして祖母や母親が女性の身につけるべき
教養を、ハンディのある久子さんに区別することなく
教え込んだことが生涯彼女を支えたことは
いうまでもありません。
中村久子の人生は自分で切り開く(見世物小屋に)
そうした厳しい母親や祖母のしつけにより一通り
自らの事も一人前の女性としての生活も自立して
出来るようになった久子さん。
1916年20歳で高山を離れ上京し、横浜市などで
一人暮らしを始める事になります
時を待つべくして久子さんは母親と再婚した継父に
身売りされ、名古屋大須で「だるま娘」
の名前で見世物小屋での芸人として働きます。
不自由な身で、母親らから仕込まれた裁縫や編み物や
文字書きを芸として披露するという型破りを堂々と
やってのけますが、障がいに対する偏見も多く屈辱も
大きかったと思われます。
久子さんは、この頃を振り返ってこう言っています
「恩恵にすがって生きれば甘えから抜け出せない。一人で生きていかなければ。」
と決意し、国による障害者制度の保障を生涯
受けることは生涯無かったといいます。
他に頼らず、自分の人生は自分で切り開くものという
強い信念は、体の不自由さを超えて久子さん独自の
人生観へと連なっていき、人々の共感を広く誘う
ものとなります。
久子さんは47歳までの長い間、子育てをしながら
見世物芸人人生を送ったということです。
中村久子の生涯に夫は4人
20歳で自立して生きてきた中村久子さんは後に
結婚し、子供をもうけていますが生涯4人の夫が
いたことには驚きます。
久子さんはまず見世物小屋で働く中、谷雄三と言う
男性と23歳の時に結婚し、長女美智子をもうけますが、
2年後夫と死別します。
見世物小屋とは言え、当時から朝鮮から台湾まで
世界をまたに共興してあるく身の久子さんに男手は
どうしても必要だったそうです。
それから2人目の夫、進士由太と再婚し次女富子が
生まれますが、この夫とも不幸にも2年後に再び夫と
死別することになります。
3人目の夫の定兼俊夫と再婚し、三女、妙子が生まれ
ますが、夫は女道楽が激しい放蕩男として有名だった
らしく三女も10ヵ月ではしかで亡くなる不幸が続きます。
夫とは、その後離婚。
そして離婚後の昭和8年最愛の人であり9歳年下の
4人目の夫となる中村敏雄と結婚しています。
笑顔を絶やさない温厚な人で久子さんに献身的に
サポートできる人だったそうです。
見世物芸人として働きながら、妻として家事や子育てを
するという大変な苦労をしながらも立派に自活し、幸せを
つかんだ久子さんには脱帽せざるを得ません。
中村久子の名言
その後、ようやく安住の地である夫との出会いもあり
見世物芸人としての生活を終え、生きる喜びや希望を
模索し念仏の道に入った中村久子さん。
50歳位から72歳で亡くなるまで執筆活動に加え、
婦人会、学校、刑務所、お寺など全国で講演活動を
重ね、心に響く感動の名言を数々残しています。
「人の命とはつくづく不思議なもの。確かなことは自分で生きているのではない。生かされているのだと言うことです。どんなところにも
必ず生かされていく道がある。すなわち人生に絶望なし。いかなる人生にも決して絶望はないのだ。」
「人間は肉体のみで生きるのではなく、心で生きるもの。」
「『無手無足』は私が仏様から賜った身体です。この身体があることで、私は生かされている喜びと尊さを感じています。」
この世に生を受けた全ての人々に、生きる力と
希望の灯をともしてくれるような素晴らしい言葉の
多くが今も語り継がれています。
昭和12年来日したヘレン・ケラーに
「私より不幸な人、私より偉大な人。」
と賞賛され、手足がないというハンディこそが
自身の人生を作りだしてくれたのだとする中村さんの
不屈の魂は、困難に立ち向かう勇気を与えてくれます。
体のハンディや身近な人の死、離婚など苦難を多く
乗り越えてきた中村さんが見いだした教えは、時を
経ても胸に刺さるものがあり、人生に悩み苦しむ
人々をこれからも救っていくことでしょう。
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最愛の夫との自作の詩「ある ある ある」が泣ける
必要に迫られて結婚してきた過去の夫とは違い
自らが求めて結婚した最後の夫中村敏雄との自作の
師が素晴らしいです。
題名【ある ある ある】
さわやかな
秋の朝
“タオル取ってちょうだい”
“おーい”と答える良人がある
“ハーイ”とゆう娘がおる
歯をみがく
義歯の取り外し
かおを洗う
短いけれど
指のない
まるい
つよい手が
何でもしてくれる
断端に骨のない
やわらかい腕もある
何でもしてくれる
短い手もある
ある ある ある
みんなある
さわやかな
秋の朝
yahoo:引用
「人生に絶望なし。いかなる人生にも決して絶望はない」
1968(昭和43)年 脳溢血で倒れて死去。
本人の遺言により地元岐阜大学医学部に献体として
解剖されます。
既に72年による生涯で酷使した身体はボロボロ
だったそうですが
その際に彼女の身体を献体した医師が泣きながら
言ったそうです。
「生前、どれだけ苦しかったか……この体でよく72年間生きられました。お見事としか言いようがありません」
おわりに
五体満足でこの世に生まれ育ててもらっても、ああだからこれが出来ない、こうだから無理と私達は言い訳を並べて出来ない理由を探します。生前筆まめだった久子さんが、可愛がってきた姪っ子に手紙を送り、なかなか返事を掛けない姪っ子にこういったそうです。「手のある人は筆無精ね」この言葉が全てを物語っているのかもしれません。手足が無いからこそ全て揃った人以上に人並みの努力を重ね掃除洗濯料理など全てを完璧にこなせる女性だったそうです。中村久子さんの生涯を知り今一度人生を考え直すきっかけになる人が多いのではないでしょうか。出来ないのは横着だと言われ続けて人の100倍、もしかしたら500倍の努力を重ねて生涯を全うした中村久子さんの詩「あるあるある」がその全てを物語っているのかもしれません。
私達にはどれほどの物があるあるあるなのか、と、既に高いされて半世紀の時が経っていますがご冥福を心よりお祈りします。
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