明治維新立役者の生い立ち

大久保利通の生い立ち~西郷隆盛との対立と最後の暗殺状況が悲惨

大久保利通アイキャッチ 明治維新立役者の生い立ち

「維新の三傑」の一人として知られる
大久保利通。

維新の三傑とは、西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通の
三人からなる倒幕・維新に尽力した人物のこと。

多くの人は知名度の高い西郷隆盛を連想するかも
しれませんが、日本の歴史を語る上で大久保利通の
存在は外せません。

現在も彼の子孫には現在も政治家として活躍する
麻生太郎がその遺伝子を次いで現代の日本で
政治家として活躍されています。

幕末から明治維新期まで、ふたつの時代を跨いで
日本の産業化、西洋化を進めた超重要人物です。

現在の日本の文化や法律も、大久保利通が明治の
近代化を図り大きく貢献した事が、かなり影響しています。

西郷隆盛との対立など、実はあまり知られていない
大久保利通の生い立ちや、暗殺された最後の死因や
理由など調べてみました。

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大久保利通の生い立ち~

文政13年(1830年)9月26日に、現在の鹿児島県である
薩摩藩士の家に長男として生まれています。

父は大久保利世といい、母は福といいます。

大久保家は薩摩藩士でも御小姓与呼ばれる
身分で、下級の藩士でした。

幼名は正袈裟(しょうけさ)といい、この頃に
住んでいた下加治屋町には3歳年上の西郷隆盛や
西郷従道がいます。

共に学問を学び、親友・同志となりましたが
大久保利通は少々体が弱く、読書や勉強を
好んでいたといいます。

西郷隆盛とは随分と仲がよく、何も言わなくても
お互いのことがわかったほどといいます。

武術は苦手でしたが、討論や読書などの学問は
郷中の中でも抜きん出ていたと言われています。

天保15年(1844年)、15歳で元服して、通称を
正助(しょうすけ)と改名します。

弘化3年(1846年)、18歳の頃に藩の記録所書役助
として出仕します。

本当ならここで活躍するはずでしたが、嘉永3年
(1850年)に、自身の父が薩摩藩主の後継者トラブルに
巻き込まれてしまい、大久保利通と共にクビになります。

有名なお由羅騒動です。

大久保家は他に男手もおらず、かなり苦しい生活を
余儀なくされます。

当時の借金依頼の文書などが大久保の最も古い
文献として現在も残っています。

後に、島津斉彬が藩主になった際に罰を解かれ、嘉永6年
(1853年)、24歳の時に記録所書役助に復職しています。

安政4年(1857年)には、西郷隆盛と共に徒目付へと
出世、誠忠組のリーダー格となり、島津斉彬の死後は
藩主となった島津忠義とその父・島津久光の元で活躍
するようになります。

この島津久光から、囲碁の相手をするなどして気に
入られており、大久保利通は薩摩藩を動かす中心人物
となります。

西郷隆盛や、小松帯刀らと共に、朝廷と幕府が協力して
政治を行うことを理想とする公武合体運動に尽力します。

文久2年(1862年)、島津久光らと京都の政局に関わり
幕政改革を促します。この年に島津久光の側近に
抜擢されています。

慶応元年(1865年)、ここで「利通」と改名します。

慶応2年(1866年)に、薩長同盟が成立し、倒幕実行の
直前まで持ち込みますが、慶応3年(1867年)に徳川慶喜が
大政奉還を果たし、武力倒幕は出来ずに終わります。

大政奉還とは、幕府の持つ政権を天皇に返すことで
これにより倒幕の大義名分を失わせます。

しかし、慶応4年(1868年)、大久保利通はさらに、
「王政復古の大号令」を発して、天皇のもとに
明治新政府を作りました。

明治維新後は「富国強兵」をスローガンとして
殖産興業政策を推進、近代日本の基礎を作って
いきます。

明治2年(1869年)から、版籍奉還、廃藩置県を実施します。

これはこれまで藩が支配してきた土地と領民を、全て
天皇に返し、明治新政府が管理すること。

版籍奉還の後に行われた廃藩置県とは、東京・京都・大阪を
「府」とし、その他も藩をやめて「県」とすることです。

これにより、各地方は大名や藩知事による半独立国家から
政府によって藩知事が預かっているという状態が作り出されます。

明治4年(1871年)には、岩倉使節団の一員として、アメリカ
ヨーロッパにも渡り視察しています。
使節団
岩倉具視、大久保利通、伊藤博文、木戸孝允ら
107名からなる使節団です。

大久保利通は、西洋の文化をすぐに取り入れ、朝は
コーヒーを飲み、ブランデーを少し垂らしたオートミール
を好んで食べていたそうです。

当時の時代背景を考えたら物凄いハイカラだったのでは
ないでしょうか・・・恐らく超絶最先端だったと思います。

大久保利通と西郷隆盛の対立した理由

岩倉使節団が帰国した後に待っていたのが
「征韓論」です。
西郷隆盛
大久保利通が西郷隆盛と決別することと
なった事件です。

征韓論とは、
「国交断絶していた朝鮮を、武力を持って開国させよう」

という主張のことです。

岩倉使節団が海外にいる間、留守を任せられて
いたのが、大久保利通と旧知の仲であった西郷隆盛と
大隅重信、板垣退助らでした。

征韓論は、留守を任せられていた側が
主張していました。

外国の文化や文明を見てきたばかりの岩倉使節団は
これを知ると、

「日本にはまだそんな国力はない、まずは内政から整えよう」

と反対し、大きな隔たりができてしまいます。

この争いで抗議を示すため、西郷隆盛や板垣退助ら
約600人の官僚が政界から去っていくことになって
しまいます。

これが「明治六年の政変」と呼ばれる事件です。

実際は、西郷隆盛もこの征韓論に反対していて、武力で
開国を求めるのではなく、まずは自分が使者として朝鮮に
赴くという「遣韓論」を称えていたとも言われています。

そんな中で、大久保利通は内務省を設置し、自ら内務卿に
就任して、学制、地租改正、徴兵制などの政策を行っていきます。

内務卿に就任した大久保利通は、国内外の政策に大きく
関わることになり「大久保独裁政権」といわれるほど
力を持つことになりました。

そして、1877年に西南戦争を起こした西郷隆盛と
争うことになります。

西南戦争とは、士族による明治政府に対する
怒りから勃発した戦争です。

江戸時代の武士階級にあたる士族たちは、明治政府に
次々と士族の特権を廃止されていることから、明治政府を
信用していませんでした。

西郷隆盛は、辞職後に鹿児島に戻ったのですが、既に
多くの功績を成しており有名人でした。

鹿児島でその名を知らない人はいない程で、熱烈な
支持者も多かったのです。

明治政府に不満をいだいていた士族たちは、西郷隆盛の
元に集まります。

その人らの楯となった事が、西南戦争へと発展したと
言われています。

政府軍は6万、薩摩軍は3万と大きな差もあり、政府軍に
追い詰められた西郷隆盛は、銃弾を受けます。

その時側にいた仲間の別府晋介

「晋どん、もうここいらでよか」

と言って、別府晋介に刀で首を切られ
絶命しています。

大久保利通は、西南戦争前に西郷隆盛の
参加を知り、会談のため鹿児島派遣を
希望していました。

しかし、殺害を危惧した伊藤博文らに
反対されています。

西郷隆盛の死亡の報せを聞いた際には号泣し、時々
鴨居に頭をぶつけながらも家の中をグルグル歩き
回っていたといいます。

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大久保利通の暗殺状況

それでも時代は西郷隆盛だけの死では許してくれず
かつての盟友であった西郷隆盛の死から、わずか1年も
経たないうちに大久保利通も暗殺されてしまいます。

1878年(明治11年)の紀尾井坂の変です。

明治天皇に謁見するために、麹町の自邸を出て、赤坂の
仮皇居へ向かう途中でした。

暗殺
仮皇居へ向かうには赤坂見附を通ったほうが近道
でしたが、人通りが多い紀尾井坂を通っていました。

そして、紀尾井町清水谷付近で襲撃されます。

書生姿の長連豪と脇田巧一が道へでてきて、大久保利通の
馬車を遮ります。

従者が馬車から降りて、道を開けるように言いますが
どちらかが隠し持っていた日本刀で馬を切りつけてきました。

さらにその後ろから、首謀者である島田一郎、杉本乙菊
杉村文一、浅井寿篤らが襲いかかってきました。

大久保利通は、馬車をこじ開けてきた島田一郎に対し
「無礼者!」と一喝するも、構わずに大久保利通の
眉間と腰に短刀を突き刺します。

馬車から引きずり出された大久保利通は、重症を
負いながらも一度は立ち上がります。

しかし、実行犯の6人に囲まれ、刀で16箇所も刺されます。

そのうち8箇所は頭部で、脳は飛び散り、刀は首を
貫通して地面に突き刺さっていました。

事件後に駆けつけた前島密は、無残過ぎる遺体を見て、

「肉飛び骨砕け、又頭蓋裂けて脳の猶微動するを見る」

と表現しています。

遺体を調べた結果、直接の死因は最後のクビへの
刺突であったとされています。

大久保利通の暗殺理由

犯行を行った6名はその後、出頭し、2ヶ月ほどで
斬首を受けています。

6人は、明治政府に反発する不平士族でした。

主犯の島田一郎は、征韓論の支持者で、西郷隆盛の
下野に憤怒、政府に対してさまざまな抵抗を試みた
彼らですが、西南戦争以降は高官を暗殺するという
方向にシフトしています。

大久保利通暗殺の動機は、島田一郎らが所持していた
「斬奸状(ざんかんじょう)」によって明らかにされています。

・国会も憲法も開設せず、民権を抑圧している
・法令の朝令暮改が激しく、また官吏の登用に情実・コネが使われている
・不要な土木事業・建築により、国費を無駄使いしている
・国を思う志士を排斥して、内乱を引き起こした
・外国との条約改正を遂行せず、国威を貶めている

この5つの暗殺理由だけでなく、人望の厚かった西郷隆盛を
死に追い込んだ明治政府=大久保利通 という見方もあります。

大政奉還からの、新しい世界として夢みた明治維新を同郷
である西郷隆盛と夢みた世界は一体どんな世界だったのでしょう。

一方は弱き民衆と共に、もう一方は新たな強い日本を
強固で盤石の国にしようとした~たったそれだけの事が
分かれ目となり、大きく運命が激変してしまったのです。

元々の志は同じだったのに・・・

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おわりに

揺るがない信念を持ち、産業を促進してきた大久保利通は、独裁者とも言われています。
しかし、幕末の動乱を生きた人々の中、これからの日本に目を向け冷静に見極め行動しているのは凄いことです。
現在も人気のある西郷隆盛を死に追い詰めたことから、残念ながらイメージは悪いままです。
大久保利通と西郷隆盛はそれぞれ別の道を歩んでいますが、もしこのふたりがすれ違うことなく、協力できていたら、両者悲しい死を迎える必要もなかったと思います。


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