勝海舟の生い立ち~無類の女好き子沢山の最後の言葉はコレデオシマイ

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勝海舟

幕府の要人であった勝海舟は、幕末の
明治維新で時代が混迷していた中、幕府を
守り存続させるために活躍しました。

西郷隆盛との話し合いで戦争に発展することなく
江戸城攻撃を辞めさせた有名な「江戸城無血開城」
は勝海舟の大きな功績です。

今でも日本人のヒーロと言われる幕末の志士坂本龍馬
との深い関わりも有名な勝海舟が最後に口にした
「コレデオシマイ」は名言となる程有名で、彼の生き様も
見事なものです。

そんな勝海舟の生い立ちや、逸話など今も残る子孫に
関してなど紹介します。

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勝海舟の生い立ち~

幕末を題材にしたドラマや映画では必ずと言って
いいほどこの勝海舟が登場しますが、まずは
生い立ちを見てみましょう。

勝海舟は、文政6年(1823年)に江戸本所亀沢町
(現在の墨田区)で、父・小吉の実家である男谷家で
生まれています。

母は勝元良といいます。

勝海舟
幼名及び通称は麟太郎。

諱は義邦。

明治維新後は安芳と改名しています。

勝海舟の家は、曽祖父の銀一の時に高利貸で
成功して以来、旗本の身分でしたが、父は
旗本でも小普請組という下級旗本でした。

小普請組は無役の旗本のことで、役職がなかったので
仕事がなく、最低限の手当をもらって貧乏な生活を
送っていました。

この父は、町の者も皆知るほどの暴れ者で、何度も
家を飛び出しては諸国をさすらい、部類の徒と交わり
数年間座敷牢に入れられていた事もありました。

こういった素行の悪さが役につけない
大きな理由でした。

勝海舟が生まれてからは、自分のような生涯を
送ってほしくないと願い、一人前の人間に育て
上げようとします。

文政12年(1829年)、男谷家の親類・阿茶の局の
紹介で、江戸幕府11代将軍・徳川家斉の孫である
初之丞(徳川慶昌)の遊び相手として江戸城へ
召されています。

一橋徳川家の家臣として出世する可能性もありましたが
慶昌が発病し、早くに亡くなってしまいその夢も潰えます。

その頃、父は隠居しており、勝海舟は16歳の頃に
家督を相続することになります。

10代の頃から剣術に打ち込んでおり、父・小吉の
実家で、従兄の男谷信友の道場、後に信友の高弟
島田虎之助に入門しています。

寝る間も惜しんで日々稽古をしていました。

22歳の頃には、島田虎之助から直心影流(流派)の
免許皆伝を受け、師範代を務めるまでになります。

しかし、勝海舟の関心は蘭学、中でも西洋流の兵学に
向き始めており、弘化2年(1845年)からは、福岡藩士の
永井青崖から蘭学を学んでいます。

そして、蘭学の私塾「氷解塾」を、赤坂田町に開きます。

嘉永6年(1853年)のペリー来航後、幕府に意見書を
提出、才能を見出された勝海舟は、長崎海軍伝習所に
入所
します。

長崎海軍伝習所は、日本初の近代海軍の士官・下士官を
要請する幕府の学校で、勝海舟はここで学びながら
教頭として、伝習生の面倒を見ていました。

オランダ教師団とのコミュニケーションもはかり、教師
たちと会話をした内容から幕府にとって有益なものを
江戸へ知らせていました。

これが注目され、海軍のエキスパートと
称されるようになります。

軍艦
万延元年(1860年)、37歳の時に、幕府海軍が
保有していた軍艦・咸臨丸で渡米することに。

この時、日本では一万円札の顔となる、有名な人物
福沢諭吉も一緒に渡っています。

勝海舟は船長でしたが、船の操縦の出来ない木村摂津が
提督ということが気に入らず、その従者の福沢諭吉が
英語もろくに話せず船に乗っていることが面白くなかった
ようで、福沢諭吉のことを相当いびっていたといいます。

この関係は修復すること無く、後に福沢諭吉は勝海舟を
個人攻撃した「瘠我慢の説」という著書を書いています。

帰国後は、軍艦奉行などを務め、坂本龍馬、陸奥宗光などを
門下生に迎え、海軍人材を育てる事を目的として、神戸海軍
操練所を開設しています。

坂本龍馬は勝海舟の下で世界の情勢などを教わり、知識の
広さに驚き、家族に勝海舟のことを「日本第一の人物」
と手紙で紹介しています。

慶応4年(明治元年、1868年)、戊辰戦争が始まり、旧幕府と
新政府が対立します。

旧幕府は破れ、勝海舟は徳川慶喜から戦いの
収拾を任されます。

この時に、新政府側の西郷隆盛を懸命に説得し、寸前の
ところで江戸城への攻撃を止めることに成功しました。

江戸城総攻撃の3月15日の直前、13日と14日のことです。

そうして、江戸の住民150万人の命と家屋や財産全てが
戦火から救われ、死者を出すことなく江戸城の引き渡しが
完了しました。

これが「江戸城無血開城」と呼ばれる、勝海舟の
最も大きな功績といえる出来事です。

西郷隆盛
※勝海舟と西郷隆盛の会談

西郷隆盛とは、元治元年(1864年)の第一次長州征伐が
あった頃に出会っており、一度会談しています。

その際、西郷隆盛は幕臣である勝海舟から「共和政治」
に関する意見を聞いて深く感銘を受けたようです。

西郷隆盛は、勝海舟を評価しており、大久保利通宛に
「勝海舟は実に驚いた人物で、どれだけ知略があるのか底知れない英雄肌の人物だ」

と書いた手紙を送っています。

そういった背景もあったことから、江戸城無血開城での
交渉の際も真剣に話を聞いたとされています。

明治維新後も、勝海舟は旧幕臣の代表格として
元老院議官や枢密顧問官など様々な役職に任命
されますが、どれも短期間務めて辞職しており
元老院議官を最後に中央政府へ出仕していません。

勝海舟といえば江戸城無血開城が有名ですが
日本海軍の生みの親ともいえる人物です。

長崎海軍伝習所への入所から、神戸海軍操練所の
設立、海軍の必要性を熱心に語っており、実際に
渡米しているのも当時としてはかなり進んでいる
と言えます。

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勝海舟は無類の女好きで子沢山

勝海舟は、無類の女性好きとしても
知られています。

勝海舟は、23歳の頃に結婚しており、相手は
民子という名で、元は元町の炭屋・砥目茂兵衛の
娘で深川の人気芸者でした。

夫婦は仲がよく、結婚の翌年には長女の夢が生まれ
次女の孝子、長男の小鹿も生まれています。

しかし、長崎海軍伝習所にいた頃、おひさ(梶玖磨)
という14歳の未亡人を妾にし、男の子を生ませたと
いいます。

貧乏生活から脱した事を皮切りに、多くの妾を
作るようになります。

女中のお糸(増田糸)、おかね(小西かね)と同居
しながらも子を産ませたとのことです。

その後も、5歳から赤坂氷川邸にきていた森田栄子
(およね)
にも手を出しています。

さらに62歳の頃にも近所の旧幕臣・清水家の娘の
清水とよにも手を出し子を産ませています。

少なくとも5人の妾に計9人の子を生ませ、妻と妾と
同居する異質な生活を送っていたといいます。

現代だと大きな問題になりかねない話ですが、勝海舟曰く

「それでも家庭はうまくいっていた」

とのことで、正妻である民子のことを、

「おれの手をつけた女どもが一緒にいて、おれの家に波風一つ起きないのはあれの偉いところだ」

と称賛しています。

しかし、勝海舟より長く生きた妻は死に際に

「海舟のそばに埋めてくれるな」

と言ったそうです。

仕事は真面目だったのがわかりますが、女性関係に
関してはかなり大胆で不真面目ですね。

奥さんもだいぶ迷惑をかけていたのでは
ないでしょうか?

本人だけがそれを知らなかった~みたいな、身勝手と言えば
身勝手、都合の良い解釈をする辺りが幸せ者と言えば幸せ者
なのかもしれませんが・・・

女性からしたら、男性としてか人としての魅力はあったにしろ
たまったモノではないでしょう。

勝海舟の残された子孫は今?

勝海舟と、増田糸の間に生まれた娘・目賀田逸子の
ひ孫に当たる「高山みな子」さん。

子孫
勝海舟からすると玄孫であるこの方は
現在も存命しています。

高山みな子さんは、慶應義塾大学卒業後、会社勤務を
経験した後にフリーライターとして活動しています。

最初は事実を知らず、小学生の時に授業で勝海舟に
ついて習った時に母親から教えられたそうです。

その後「勝海舟の会」の顧問を務めています。

また、三男の梅太郎と、妻のクララ・ホイットニーと
いうアメリカ人女性は別れて、子供達と共に
ペンシルベニア州に移っています。

この血筋の「勇(ヒルダ)」さんは、1997年まで
生存しており100歳を過ぎていました。

長男の小鹿の娘である伊予子と、徳川慶喜の息子
「徳川精(くわし)」の娘「道子」さんは2005年5月に
95歳で亡くなっています。

子孫
さらに、このふたりの息子である「勝芳邦」さんは
大手IT企業の仕事に携わっており、2016年の1月3日に
喘息の発作で亡くなられています。

幕末は今から150年ほど前とそこまで遠い昔ではなく
子孫もかなり判明しています。

4~5代とこれからも勝海舟の血筋は
引き継がれていきます。

勝海舟の最後の言葉はコレデオシマイ

勝海舟の子どもたちのうち、長男の小鹿は40歳
次男の四郎はわずか12歳で亡くなっています。

我が子の不幸に悩み、晩年は孤独な日々を
送っていたといいます。

家督を継がせるのをどうしようか迷っていたところ
旧主の徳川慶喜がそれを聞いて助け舟を出します。

小鹿の娘・伊予と、徳川慶喜の十男・精が結婚して
家督を継がせることにします。

ほとんどの時期を赤坂氷川の地で過ごしたといいます。

明治32年(1899年)1月19日、風呂上がりにトイレに
寄った後に倒れ、お糸に生姜湯を持ってくるように
頼みましたが、間に合わないとして持ってこられた
ブランデーを口にします。

すぐに脳溢血により意識不明となり、21日に
息を引き取りました。

享年75歳の、当時にしては畳の上で亡くなった
幕末最後の志士の代表格と言われる「幕末三舟」
と呼ばれた男の最後は、壮絶な最後を遂げた仲間
達からしたら穏やかな最後だったのかもしれません。

最期の言葉は「コレデオシマイ」でした。

この言葉は名言にもなっていますが、勝海舟は
どんな思いでこの言葉を言ったのか気になります。

ようやく、大変だった人生から解放される
といった肩の荷が下りたからか。

貧乏な時代から一生懸命に生き、明治維新に
影響を与え、全てやり終えたことでの満足感からか。

解釈は色々ありますが、勝海舟は海軍を育て、そして
江戸城無血開城での西郷隆盛との交渉と、一時とはいえ
日本を背負った一大人物です。

晩年には家族にも不幸があり、悲しい日々を送って
いたことから、それら全てを抱えずに済むことから
ほっとして出た言葉なのではないかと思います。

民子と共に
墓は、大田区の洗足池公園にあり、妻の民子の願いも
空しく共に眠っているそうです。

勝海舟は大満足でしょうね~嫁の隣で・・・

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おわりに

坂本龍馬や、西郷隆盛など勝海舟に一目置いて慕った人もいましたが、福沢諭吉や勝海舟の部下は根っから嫌っていたともいいます。幕臣から新政府の要職に就いたことが大きな要因でしょう。
ただ、この人がいなければ当時の江戸は大きな損害を受けて、その後の歴史も大きく変わり、争いは激しくなったのではないかと思います。
日本の近代化に向けて、海外のことも知り、知識も豊富な勝海舟は誰もが欲しがる人材だったと言うことは確かです。


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