木戸孝允の生い立ち~せごどんとの仲にイケメンの子孫や妻との関係

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維新三傑のひとり、木戸孝允(桂小五郎)。

維新三傑といえば、西郷隆盛や大久保利通の方が
名が挙がりますが、木戸孝允は言うなればこの
ふたりのまとめ役とも言える存在です。

木戸孝允がしたことは、ふたりの間に立ち、明治政府の
土台を作り上げた人物です。

西郷隆盛や大久保利通と比べると地味で、どんな
功績をあげた人物なのか説明できない人も多いのでは
ないでしょうか?

今回はそんな木戸孝允の生涯や、最後の死因に明治維新の
立役者と言われる、西郷隆盛、大久保利通との人間関係
家族や現存する子孫についてを調べてみました。

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木戸孝允の生い立ち~医者の息子として

木戸孝允と言えば、生涯に渡り何度も改名
繰り返しています。

私達が知っている名前でも、通称で使用されていた
桂小五郎という名前の方が馴染みがある、なんて人も
多いと思います。

私はその中の一人でした・・・

天保4年(1833年)の6月26日に、長門国萩城下呉服町
(山口県萩市)に藩医・和田昌景の長男として生まれています。

この和田家は、毛利元就の七男・天野元政の血を
引いているとされ、母はその後妻で、前妻が生んだ
異母姉が2人います。

長男でしたが、幼少期は病弱で長生きできないと
思われていたようで、長姉に婿養子・文讓が入り
長姉の死後は次姉がその婿養子の後添えとなっていました。

その為、7歳の時に向かいの桂家の末期養子に
なっています。

病弱でありながらも、いたずら好きで、萩城下の
松本川を行き来する船を船首ごと転覆させるという
悪戯に熱中していたといいます。

10代になると心身ともに健康な男子に成長。

藩主・毛利敬親による親試で、2度ほど褒賞を受け
長州藩の若き俊英として注目され始めます。

弘化3年(1846年)には、長州藩の指南役、内藤作兵衛の
下に入門しています。

嘉永元年(1848年)に元服して和田小五郎という元の
名前から、大組士・桂小五郎という名になりました。

実の父に

「もとが武士でない以上、人一倍武士になるよう粉骨精進せねばならぬ」

と言い含められ、以降は剣術修行に人一倍精を
出し腕を上げます。

ちょうど同じ年、次姉、実母を相次いで病気で失い
悲しみのあまり病床に伏し続け、まわりに「出家する」
と言って聞かなかったといいます。

嘉永2年(1849年)、16歳からは吉田松陰から山鹿流兵学を
学び勉強に励み、「事をなすの才あり」と評されるように
なります。

嘉永4年(1852年)には、剣術修行のため江戸に留学
三大道場のひとつ「練兵館」に入門します。

三大道場

そしてわずか1年で免許皆伝を得て、塾頭と
なっています。

新選組最強と言われる一番隊隊長・沖田総司の
師である近藤勇も

「恐ろしい以上、手も足も出なかったのが桂小五郎だ」

と、木戸孝允(桂小五郎)の剣術の腕前を評しています。

このことから、幼少から文武ともに優秀な
人物であったことがわかります。

嘉永6年(1853年)、日本にとって運命の瞬間、ペリー来航。

これに刺激を受けた木戸孝允は、造船術や西洋兵学
英語などを学ぶようになります。

早くから海外知識や文化に興味を抱く一方で、長州藩の
中では外国の力を危惧する声が大きくなり、同じく
長州藩出身の高杉晋作や久坂玄瑞らと共に尊王攘夷運動
展開していきます。

30代の頃には藩の中心的人物となっていた木戸孝允ですが
33歳の頃には、「貫治」と名乗り、以降は「準一郎」
通称として使用しています。

木戸孝允といえば、「逃げの小五郎」とも呼ばれ、なんだか
いいイメージのないあだ名ですが……。

これは、無駄な戦いを避け危険を回避していた木戸孝允を
褒める言葉でもあります。

幕府軍の新選組が、尊王攘夷派が集まっていた旅館
池田屋を襲撃した「池田屋事件」。

池田屋
※現在の跡地

木戸孝允はその日、池田屋に早く着いたため
出かけており、その間に新選組が乗り込んできて
結果的にその場にいた攘夷派が殺されてしまいます。

それを知った木戸孝允は、屋根をつたって
逃げたという逸話もあります。

また、「八月十八日の政変」で京都を追われた
長州藩が、薩摩・会津・桑名藩と京都御所周辺で戦った
「蛤御門の変」では、一度は会津藩、新選組に
捕らえられます。

その際にトイレに行きたいと言い逃走、藩邸に
逃げ込んでいます。

この後も、炊き出しをしている町人に乞食として
混ざったり変装するなどして何とか生き延びています。

相当に剣の腕がありながらも、なぜ逃げたのか?

と話題になることも多いです。

諸説ありますが、江戸で学んだ神道無念流の剣術は主に
竹刀を用いるもので実戦向きではありませんでした。

竹刀ではかなり強かったと言われている木戸孝允も
真剣ではそれほどではなく、複数を相手にする事を
難しく思い逃げた、という説があります。

また、
「今の時代を自分がなんとかしなければならない」
という強い使命感から、何が何でも逃げて生き延びた
というする説もあります。

指名手配となった木戸孝允は、それを逃れるために
「新堀松輔」「広戸孝助」など、10以上も名前を
使用したと言われています。

長州藩のリーダーとも言える木戸孝允が逃げ続けた
ことで、長州藩の誇りや志は守られたのです。

慶応2年(1866年)には、坂本龍馬の仲介で、西郷隆盛
小松清廉らと会談し、敵対していた薩摩藩と同盟を
成立させます。

世に言う、薩長同盟です。

長州藩と薩摩藩の絆を深め同盟を成立させ、倒幕運動を
進めたこと自体が、木戸孝允の大きな功績です。

薩長同盟を不動のものとしていき、大久保利通らと
王政復古を実現させます。

怒涛の日々の中、ようやく明治時代になり、そこから
木戸孝允を名乗るようになります。

木戸孝允とせごどんとの関係

せごどん
せごどんこと、西郷隆盛は薩摩藩のリーダー
木戸孝允は長州藩のリーダーで、かつては同じ
幕末を生きながらも対立していました。

犬猿の仲と言われるほど仲の悪かった長州藩と
薩摩藩ですが、まずどちらも方針が違います。

長州藩は先述の通り、尊王攘夷派で、薩摩は
公武合体派です。

・尊王攘夷 = 外国を追い出すために日本が一丸とならなくてはいけない
・公武合体 = 外国とともにやっていくには日本は一丸とならなくてはいけない

ざっくりですが、真逆です。

文久3年(1864年)の八月十八日の政変、翌年の
禁門の変により、長州藩は、薩摩藩と幕府軍によって
排除され、朝敵として征伐の対象となってしまいます。

そんな中、両藩ともに外国の脅威を肌で感じたのが
薩英戦争と下関戦争です。

長州藩は、外国のあまりの強さに攘夷が不可能で
あることを悟り、討幕へと方針転換を図ります。

一方の薩摩も、長州藩の次に幕府の征伐対象となるのは
自分たちだと感じ、幕政改革が進まないことに行き詰まりを
感じ、討幕へと傾いていきます。

この両者を引き合わせたのが、坂本龍馬と中岡慎太郎です。

結果、薩長同盟に至ったわけです。

文学、兵学ともに熱心で才能がありまじめな木戸孝允。

薩摩藩だけでなく日本からも人気で
カリスマ性のあった西郷隆盛。

両者は正反対の性格ながら、互いに互いを
尊敬しあっていました。

西郷隆盛は、木戸孝允のことを

「不器不孤の君子(幅広い才能を持った人格者)」

と評価しています。

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木戸孝允と大久保利通の不仲の理由

対する、同じ維新三傑大久保利通とは、口も
きかぬほど不仲とも言われています。

大久保利通
大久保利通は財政基盤を作り、西郷隆盛は軍事力を
高め、木戸孝允はそれらを含む全体の政治の仕組みを
作ったと言われています。

明治になり、大久保利通の権力が大きくなっていく中
明治4年(1871年)に木戸孝允と大久保利通と伊藤博文が
岩倉使節団の一員として渡航した時のことです。

木戸孝允は、欧米文明を賞賛する一方で外国人のまえでも
平気で日本の悪口を言う森有礼を嫌っていました。

「アメリカ政府はただちに日本側に有利な改正に応じる可能性がある」

というような幻想を抱き、伊藤博文は、その説に心酔します。

木戸孝允と伊藤博文は元々仲がよく、その姿を見て
嫉妬したのか伊藤博文を怒鳴りつけてしまいます。

森有礼に近づきにくくなった伊藤博文は、今度は
大久保利通に近づきます。

これ以降、木戸孝允は伊藤博文、大久保利通共に
嫌うようになったと言われています。

大久保利通はまた、木戸孝允のはっきりした性格や
日本の近代化へ向けて積極的に動く様を見て、政治の
主導権を握られるのを恐れていました。

木戸孝允派の政治家を次々と味方につけて、木戸孝允を
圧迫し始めます。

ただ、ふたりとも性格が合わないだけで、やろうとしている
ことは同じでこちらも本当はお互いの能力は認めていました。

このふたりの関係について、明治から昭和戦後に
かけてのジャーナリスト徳富蘇峰は、

「木戸と大久保とは互いに畏敬していた。(中略) 大久保と木戸との関係は、維新以来、両龍相い随うと言うよりは、寧ろ相い対立していた。恐らく大久保の眼中には、岩倉以外には、木戸一人であった。大久保は自らを信じることが非常に篤く、自らの居を決して卑しくしていなかったが、木戸に対しては畏敬する所があった。木戸もまた大久保に対しては、幾多の苦情を抱きつつも許す所があった」

と語っています。

まるで性は合わないけれどお互いを許し合っている
夫婦のような関係に思えます。

木戸孝允の妻との関係

桂小五郎時代、幕府に追われていた彼に
おにぎりを届けるなどして陰で支えていたのが
妻の松子でした。
松子

松子 = 幾松 は、十代半ば頃から京都の店で
お座敷に出ていて、誰もが羨むような美貌に、頭の
回転の早い人気の芸妓でした。

その頃に桂小五郎と出会い惹かれ合っていきます。

いよいよ身請けを、と思ったものの松子を気に入っていた
お金持ちの客がなかなかそうはさせてくれませんでした。

桂小五郎ももちろんお金を使うのですが、上手く
行きませんでした。

そんな時に、無類の女好きで、芸者遊びが好きだった
伊藤博文がお金持ちの客に対し、刀を突きつけて脅しました。

これに驚いたお金持ちは引いて、ようやくふたりは
結ばれることになりました。

しかし当時の桂小五郎は幕府に追われる身でした。

「逃げの小五郎」と言われるほどですから、よっぽど
苦労したと思います。

松子はそんな桂小五郎を助けるため、乞食に変装している
彼に食べ物を届けるなどして命を助けます。

新選組の近藤勇は、妻である松子に

「桂小五郎はどこにいるんだ」
と問い詰めます。

断固としてその居場所を明かさず、捨て身の
献身愛を見せます。

見た目の美しさには相反する勝ち気で強い
女性だったのがわかります。

桂小五郎が逃げ続けることができたのは
この妻松子がいたからでしょう。

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木戸孝允のイケメン説と子孫は?

幕末を生きた男たちの中でも、木戸孝允は
イケメンとしてよく名が挙がります。

イケメン
ドラマや映画でも、玉山鉄二、東山紀之、及川光博
野村宏伸、谷原章介
などイケメンがキャスティング
されています。

剣術にも長けていて、勉強もできるイケメンとなれば
現代だとものすごくモテそうですが、どうやら幕末の
動乱の中でもモテていたようです。

女性を見ると必ず

「私のことは同志と思ってほしい」

と声をかけ、女性は自分をひとりの人間として
認めてくれている、と感じすぐに落ちたそうです。

あまりにもモテすぎて女性からも逃げていた
なんて言われています。

そんな木戸孝允の子孫ですが、松子との間に子は
生まれておらず、維新志士の来原良蔵に嫁いだ妹
治子の次男を養子に迎えています。

次男の正二郎は若くして亡くなってしまい、代わりに
その兄・彦太郎が木戸家を継ぐことになりました。

彦太郎は後に「木戸孝正」と名乗ります。

孫
その孝正の長男が木戸幸一です。

木戸孝允からすると孫ですね。

木戸幸一は昭和初期に活躍した政治家で、農商務省から
貴族院議員、内大臣に就任しています。

昭和天皇にも信頼され、側近の一人でした。

現在も活躍されている木戸孝允の子孫を調べてみたら
木戸寛孝(きどひろたか)さんをいう人物を見つけました。

ひ孫
木戸孝允のひ孫の孫にあたる人物です。

世界連邦運動協会という国際NGOの常務理事を
しているそうです。

木戸孝允の病気と死因

木戸孝允の死因について、正確な資料が
残っていないのですが、明治10年(1877年)の
西南戦争の時に43歳で死亡しています。

かねてから重症化していた病気が悪化して
5月26日、京都の別邸で朦朧とした意識の中
大久保利通の手を握りしめ、

「西郷もいいかげんにしないか」

と言葉を発してこの世を去ったといいます。

享年43歳。

早すぎる死ではあるものの、畳の上で亡くなったと
言う意味では「維新三傑」の中でも唯一の人物だった
と言えるでしょう。

酒豪であった木戸孝允は、肝臓が腫れていたそうです。

おそらくアルコール性肝硬変による死亡でないかと
憶測できます。

また、明治政府での激務でのストレスや疲労からくる
内臓疾患なども考えられ、慢性的な歯痛、腹痛、胸痛が
続いていたとも伝えられます。

このことから多臓器不全等も考えられます。

おわりに

木戸孝允が主人公のドラマや映画ってあるのでしょうか?
いつも重要な脇役として出演しているイメージですが、今の時代はどうやっても維新三傑である3人がいないと成り立っていないでしょう。
木戸孝允が死ぬ直前、大久保利通の手を握り「西郷もいいかげんにしないか」と発してこの世を去ったというのはじーんときます。
激動の時代の中、木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通と大きな目標を持ったこの3人、まだまだ興味深いところがあります。


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