明治維新立役者の生い立ち

吉田松陰の生い立ち~名言大和魂とテロリストと辞世の句の意味とは

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吉田松陰は、幕末期の思想家にして、教育者です。

後の明治維新で大きな働きをした多くの人物が
吉田松陰の下でその思想を学んでいます。

現代でも優れた指導者として挙げられることも
多いですが、一方でテロリストという一面も?

今回は、吉田松陰の有名な名言、テロリストと
言われた理由など、その生い立ちに迫ってみます。

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吉田松陰の生い立ち~11歳神童逸話

文政13年(1830年)8月4日、長州萩城下松本村
(現在の山口県萩市)で、長州藩士・杉百合之助の
次男として生まれています。

母の名はといいます。

杉家はひどく貧しく、自給自足の生活を送っていました。

子どもの頃から畑仕事、草抜きや耕作の日々を過ごす
傍ら、厳しい父の下で四書五経の素読や、様々な本を
読んでいました。

天保5年(1834年)、山鹿流兵学師範である叔父の
吉田大助の養子となり兵学も修めます。

翌年に叔父が亡くなってしまい、同じく叔父の
玉木文之進が開いた「松下村塾」でも厳しい指導を
受けることになります。

その結果、わずか9歳で長州藩の藩校「明倫館」
の兵学師範に就任、教える側に立ち、11歳のときには
藩主・毛利敬親の前で「武強全書」の講義を行い、その
才能も認められています。

13歳の時には、長州藩の山鹿流兵学による
西洋艦隊破壊作戦演習を指揮しています。

ここまでを見ても、叔父から徹底した、厳しい
教育を受けてきたのだということがわかります。

吉田松陰と江戸遊学

しかし、天保11年(1840年)から2年間に渡り
行われたアヘン戦争で、清(中国)が西洋の
イギリスに大敗したのを知り、吉田松陰は
山鹿流兵学では時代遅れではないかと思い始めます。

20歳の時、藩に九州遊学の希望を申し出、嘉永3年
(1850年)8月、西洋兵学を学ぶために九州遊学の
旅にでます。

当時、外国との窓口である長崎があったからです。

およそ4ヶ月の期間で平戸、長崎、熊本と旅を続け
山鹿万助、葉山佐内、宮部鼎蔵などに出会います。

平戸の葉山佐内は
「実行の中にのみ学問がある。いくら考えが正しくとも行動しなければ学問ではない」

陽明学の思想を説き、吉田松陰も
その教えに強く惹かれます。

そして、生涯の友となった宮部鼎蔵とは
国の防衛などについて意気投合します。

嘉永4年(1851年)3月、参勤交代に同行して
江戸にも遊学。

ここでは主に佐久間象山に師事し、教えを
受けます。

桜田の藩邸を住居として過ごしていましたが
あまり満足はできなかったそうです。

この時期は、江幡五郎、来原良蔵といった同年代の
友人達と出会い、さらに九州遊学で知り合った
宮部鼎蔵も加え、酒を酌み交わし志を語ったといいます。

同年12月、宮部鼎蔵らと「水戸学」や「海防」などの
勉強を目的とする東北の旅を計画しますが、なかなか
藩からの関所通過書が届きませんでした。

吉田松陰は

「友人との約束を破るわけにはいかない」

と、当時は重罪であった脱藩を実行します。

この東北視察から江戸に戻ってから、萩藩邸に
自首し、藩士の身分を剥奪されました。

父の百合之介の保護下におかれることになったのですが
吉田松陰の才能を惜しんだ藩主から10年間の遊学許可が
出されます。

そして2度目の江戸遊学へ。

佐久間象山に師事します。

佐久間象山
吉田松陰をさらに育てたのがこの佐久間象山です。

砲術、科学、数学、兵学、蘭学と広い分野を教えます。

嘉永6年(1853年)、ペリーが浦賀に来航。

佐久間象山とともに黒船を遠方視察し、西洋の
先進文明に心を打たれます。

そして、幕府の国防に対する不備を強く認識、そして
多くの志士達が感じたように、吉田松陰も改めて
危機感を覚えます。

浪人という立場でありながら、「将及私言」「急務状議」
という意見書を藩に提出しました。

その中身は、幕府の批判で攘夷を促すような
内容でした。

その後、佐久間象山のすすめもあり、吉田松陰は
海外渡航を決心します。

最初は長崎に停泊中のロシア戦に
乗り込もうとして失敗します。

今度は嘉永7年(1854年)1月、ペリー再来航の際に
同じ目的を持つ長州藩足軽の金子重之輔とともに
動くことになります。

海岸につないであった漁民の小舟を盗み、下田港内の
小島からペリーの船へ近づき乗り込みます。
海外渡航
海外渡航の旨を乗員に訴えますが、拒否され
計画は失敗に終わります。

ふたりは江戸に帰され、自首し、江戸伝馬町の
牢屋に入れられることになってしまいます。

この時、ともに行動した金子重之輔は、岩倉獄内の
環境の悪さから25歳という若さで亡くなっています。

吉田松陰は萩に帰され、野山獄に。

ここで囚人たちに「孟子」の講義をするなどして
野山獄の風紀改善に取り組みます。

安政2年(1855年)に出獄を許され、杉家に
幽閉の処分となります。

家族などを相手に部屋で「孟子」について
抗議をはじめます。

これが評判となり次第に近隣の子弟が
大勢参加するようになりました。

この「孟子」に関する注釈と見解をまとめた書物が
吉田松陰の主著でもある「講孟余話(こうもうよわ)」です。

松下村塾
その後、安政4年(1857年)に、叔父が主宰していた
「松下村塾」の名を引き継ぐこととなり、杉家の
敷地内の小屋を改装して「松下村塾」を開塾します。

松下村塾で吉田松陰は、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文
山縣有朋、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎
山田顕義、野村靖、渡辺蒿蔵、河北義次郎などの早々たる
面々を教育しています。

もうお分かりだと思いますが、吉田井松陰の元、学んだ
多くの塾生たちは、後に幕末、明治維新で活躍する志士たち
と伊藤博文に関しては初代内閣総理大臣を務め、その後も
5代7代10代の総理も務めた大人物でもあります。

安政5年(1858年)、幕府が無勅許で日米修好通商条約を
締結
したことを知って激怒した吉田松陰は、間部要撃策
提言します。

この計画を実行するため、大砲や武器弾薬の借用を
藩に願い出るも拒絶されます。

次に伏見で、大原重徳と参勤交代で伏見を通る毛利敬親を
待ち受け、京に入る伏見要駕策への参加を計画します。

しかし、野村和作らを除く、久坂玄瑞、高杉晋作や
桂小五郎ら弟子の多くは伏見要駕策に反対しました。

吉田松陰は藩政府の対応にも不信を抱くようになり
草莽崛起論を唱えるようになります。

「幕府が日本最大の障害になっている」

と批判し、倒幕を持ちかけるようになります。

その結果、長州藩に危険視され、再度野山獄に
幽囚されています。

安政6年(1859年)、梅田雲浜が幕府に捕縛されると
雲浜が萩に滞在した際に面会していること、伏見要駕策を
立案した大高又次郎と平島武次郎が雲浜の門下生であった
関係から、安政の大獄に連座し、江戸に檻送されて伝馬町
牢屋敷に投獄されます。

評定所で幕府は吉田松陰に問いただします。

雲浜が萩に滞在した際の会話内容などの確認でしたが
吉田松陰は老中暗殺計画である間部要撃策を自ら進んで
告白してしまいます。

この結果、死刑(斬首刑)が宣告され、同年10月27日
伝馬町牢屋敷にて死刑が執行されました。

享年29歳でした。

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吉田松陰がテロリストと言われた理由

吉田松陰といえば、近年「吉田松陰はテロリスト」
「長州藩はテロリスト集団だった」などと言われる
ことがあります。

吉田松陰が幕末のテロを容認し先導した人物で
あるという主張です。

これは、日本の作家である原田伊織の
「明治維新という過ち 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト」

という本が発端かと思われます。

2012年に発売された歴史書ですが、異例の
10万部以上のベストセラーになった話題の本です。

現代だと吉田松陰や維新志士は、時代を作った人物として
美化されていますが、逆に言うと、混乱を招いたのも
彼らである、といったような内容です。

世間やネット上で人気となった作品ですが、
「吉田松陰 テロリスト」

というインパクトのある言葉が著しく広まり、この説が
生まれたようです。

また、実際の「松下村塾」は教育の場というより、同志が
集まり尊王攘夷について語り明かす場所だったと言われています。

吉田松陰は、「尊王攘夷」の為ならどんな卑劣な
事をしてもかまわない、自分自身が滅びても魂が
残ればよいと自爆テロをするテロリストと同じ
思考を持っていました。

たしかに、吉田松陰の教えに影響されている人物は多く
その思想はもはや幕末を語る上で切っても切れません。

幕末の混乱期を動かした人物の多くが吉田松陰から
学んでいることからも、正当性のある内容にも思えます。

吉田松陰の名言大和魂

吉田松陰の残した名言をいくつか紹介します。

「諸君、狂いたまえ」

常識という概念に惑わされず、誰にどう
思われようが志を強く持ち自らの道を進みなさい。

といった意味です。

吉田松陰は次の世代に向けてこの言葉を残しました。

行動力があり、真っ直ぐな、吉田松陰の性格
そのものを現しているようにも思えます。

「夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし。故に、夢なき者に成功なし」

少し厳しくも見えるこの言葉。

成功するためにはまずは夢、目標を持たなければいけない。

そして、それを行動に移すことをしなければ意味がない。

といった意味です。

幕末の混乱期に生きる人々を鼓舞させるための
言葉ではないでしょうか。

「死して不朽の見込みあらばいつでも死すべし、 生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」

弟子の高杉晋作が

「男子たるもの死すべきところはどこなのか?」

という問いに答えたものです。

死んで名が残る見込みがあるならいつ死んでもいい。

生きて大事業をなす見込みがあるのなら
生き残るために全力を尽くせ。

というような意味です。

吉田松陰が相当に強い意思を持っており
ネガティブな人間ではないのがわかります。

「かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂」

こちらも幕末志士たちに大きな影響を与えた
吉田松陰の有名な歌です。

このようにすれば、こうなると結果がわかっているのに
そうするしか仕方がなくやってしまうのが、大和魂である。

といった意味です。

これまで挙げた名言全て、吉田松陰の心の強さが
わかります。

周りへの影響力が大きい、今でいう所のカリスマ性
がある人物だったのも肯けます。

正しく、大和魂を持った人物だと思います。

現代男性にあまり多くは見られないこの強さこそが
テロリストとも呼ばれる所以ともとれます。

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吉田松陰の辞世の句の意味

「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ぬとも 留置まし 大和魂」
辞世の句
最後は、吉田松陰の遺書「留魂録」
冒頭にある辞世の句です。

留魂録は、吉田松陰が安政6年(1859年)に処刑前に
獄中で松下村塾の門弟のために残した遺書です。

この遺書は、松下村塾門下生のあいだで回し読みされ
松門の志士たちの行動力に繋がりました。

この身が武蔵野地に朽ち果てても、日本を思う魂だけでも
この世に留めておきたい。

という吉田松陰の強い思いが込められています。

処刑場に移され、死罪を言い渡された時も
「かしこまりました」

と淡々と答えたそうです。

普通、死罪を言い渡されると足がすくみ、恐怖で
震える人がほとんどの中、吉田松陰は最期まで
堂々としていました。

処刑の直前に

「鼻をかませてください」と頼み、静かに
刑の執行を受けました。

この姿には幕府の役人も感動して涙したと
伝わっています。

わずか29歳という若さで亡くなっています。

吉田松陰暗殺の訳

吉田松陰は暗殺者とも言われています。

処刑の原因となった老中・間部詮勝暗殺計画も
そうですが、他にも安政の大獄で多くの敵を作った
井伊直弼を暗殺したのは吉田松陰の陰謀ではないか
と言われています。

また、吉田松陰は黒船に乗り込んだ時、実は
ペリーを刺殺するのが目的だったとも言われています。

このことを明記した、肥後藩士の建議書の写しが
平成11年に熊本県立図書館の蔵書の中から
見つかったのです。

定説では、黒船に乗ったのは密航し海外を知るためと
言われていますが、人間環境大學教授の経歴を持つ
川口雅昭氏の研究で、

「吉田松陰は攘夷のせっぱ詰まった気持ちで肥後藩士らの教唆を受け、ペリー刺殺を企てた」

という新しい説を論文集で発表しました。

吉田松陰自身は、この事件後に獄中で書いた「幽囚録」
などや書簡で繰り返し

「アメリカに行こうとして失敗した」

と書き残しているため、それが歴史として
伝えられています。

しかし、吉田松陰が遊学中に師事した大和五條の
儒学者、森田節斎が、安政元年(1855年)に弟にあてた
書簡に

「西洋事情を詳しく知るため黒船に乗ろうとして失敗したが、本当はペリーを殺しにいった」

テロリスト
という内容が書かれていたり……。

吉田松陰と交際のあった尊皇攘夷派の僧、月性が
書いた松陰の詩「思友詩」の批評文などを、川口雅昭氏は
ペリー刺殺説を前提に検討し直すと刺殺目的のために
黒船に乗り込んだと結論付けています。

おわりに

吉田松陰が正義とする説、テロリストといった悪とする説が出ましたが、本当のことはその時生きた本人、周りの人物しか知りません。
どちらにしても、吉田松陰が幕末を動かし明治維新をもたらす強烈な個性を持ったカリスマ性のある指導者だったことに変わりないです。
また、自分の信念や志を曲げない、素直に生き続けた吉田松陰には、憧れを抱く部分もあります。
29歳という若さで亡くなってしまいましたが、その人生の短さからは考えられないほど太く大きな思想を世に広めた人物と思うと同じ日本人として感慨深い気持ちにもさせられます。たられば~はいつの時代に言っても致し方のない事ですが、これ程の人物が明治維新を生きて迎える事が出来ていたら~坂本龍馬含めそう思わざる得ない歴史に名を残す大人物であった事は間違いないでしょう。


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