マドンナの生い立ち最愛の母の死と世界征服を目指して

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マドンナアイキャッチ

80年代からコンスタントにヒット曲を出し続け
世界で最も成功した女性アーティスト、マドンナ。

小さな頃からスターを目指し、母の死を乗り越え
60歳を超えた今でもポップスの女王として
君臨し続けています。

歌も美貌もセクシーな姿から、全世界の
セックスシンボルとしても不動の位置を
固めています。

そんなマドンナの生い立ちから、現在までを
調べてみました。

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マドンナの生い立ち~最愛の母の死

1958年8月16日、アメリカ合衆国ミシガン州
デトロイト郊外のベイシティで誕生します。

父はイタリア系アメリカ人でGM(ゼネラル・モーターズ)
のデザインエンジニアとして働いていたシルビオ・チッコーネ。

母はフランス系カナダ人のマドンナ・ルイーズ・フォーティンです。

母の「マドンナ」という名は珍しく、マドンナは
その名をもらっています。

6人兄妹の3番目の子(長女)で、幼い頃は、同州
ポンティアック市で過ごします。

マドンナは小さな頃からスターを夢見ていて、家族
全員の前で歌やダンスを披露したり、CMの真似を
しながら自分のスカートをめくったりしていたといいます。

そんな中、マドンナの母はわずか30歳
乳がんでこの世を去ります。

葬式で母の唇が縫い合わされている姿を見た
5歳のマドンナは、ショッキングな光景に絶望
したと同時に、大きな決意をします。

「母がいないなら、あたしは強くなる。自分のことは自分でやる」

何でも自分でやるようになり、食事の世話や兄妹の
服を選ぶ等、家族にとって母親代わりの存在になります。

マドンナは当時のことを

「父に認めてもらいたかった。私は父に恋していた。母が死んで父は私のものになった」

と語っています。

マドンナの生い立ち~父の再婚と反抗期

とはいえ、5歳の子供が5人の子供を看れるわけもなく
父もまた一人では難しく、家政婦を雇うようになります。

どの家政婦も長続きはしませんでしたが、最後に
やってきたジョアン・シッコンにより、子供達は
厳しい教育を受けることになります。

マドンナが8歳の頃、父は家政婦の
ジョアンと再婚します。

マドンナは大好きな父を奪われ、ずっと家族の
中心で母親役をやっていたその役目も奪われ
父とジョアンに反発するようになります。

ジョアンが家のために作った決まり事やルールを
無視し「ママ」と呼ぶことはありませんでした。

母が亡くなって5年ほど経った頃、さらに家族が
増えミシガン州のロチェスター郊外の、農場や
野原が広がる地区に移り住みます。

その後、ウェスト・ジュニア・ハイスクールに
通い始め、いい成績を取るとお小遣いがもらえる
ことで、オールAの優等生になります。

かなり知られた事実ですが、彼女の成績はかなり
少女時代から優秀で実際のマドンナのIQは140
言われています。

好きで勉強しているわけではなかったマドンナは
次第にわざと破った服を着たり裏返しにしたり、下着が
見えるようにしたりと服装のルールにも反発するように
なります。

学芸会では、蛍光色のビキニ姿でセクシーな
ダンスを披露し、その姿に父も観客も度肝を抜かれました。

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マドンナダンスで世界征服を目指す

ちょうどこの頃、マドンナはタップダンスと
ジャズダンスのレッスンにも通いはじめています。

マドンナの育ったデトロイトは、当時ソウル
ミュージックやブラックミュージックといった
モータウンサウンドが有名で、マドンナはラジオから
流れる「スプリームス」「ジャクソン5」
「スティーヴィー・ワンダー」
に合わせて
ダンスを踊っていました。

1972年、14歳となったマドンナは、アダムズ
ハイスクールに進学し、チアリーディングチームに
所属してチアリーダーになりました。

チアリーダーになることは学校の中で女性の
頂点に立つことを意味していて、マドンナは
観客の視線を独り占めにしていたそうです。

「とにかく目立ちたい」

マドンナはそんな思いを持っていて、自分の個性を
ひけらかす為に脇毛を処理していなかったといいます。

とにかく、他と同じは嫌だったのです。

ノースリーブのユニフォームでもまったく
気にすることはありませんでした。

また、演劇部にも所属していて、ダンスとは
また違う表現でスポットライトを浴び、注目
されることが彼女にとって快感でした。

そして、1973年に「私のすべて」とマドンナに
言わせるほどのクリストファー・フリンの
ダンススクールに入学します。

クラシックバレエの指導者であるクリストファー・フリンは
マドンナがこれまで知らなかったダンスを教え、マドンナは
よりダンスを愛するようになります。

一方で、ゲイバーやクラブへと連れていかれ
そこでも一緒に踊りました。

自分の知らない、自由な恋愛をしているその光景に
マドンナは影響を受け、自身がバイだという事に
気付き、その後もゲイ支援者としても有名になります。

この師の元で、様々なものを吸収し、努力した
マドンナはハイスクールを他の生徒より早く卒業し
手に入れた奨学金でミシガン大学へ進学しました。

本格的にバレエのレッスンを受けていた
マドンナの夢は膨らみます。

父から勉強をしながらダンスをしろと言われて
いましたが、それを振り切って大学は1年で退学。

ニューヨークへ行ってスターになる、と決意して
1977年、わずか35ドルを手にニューヨークへ渡ります。

「ハイ・ヒールを一足頂戴。それさえあれば、世界を征服できる」

マドンナの名言ですが、この後、その言葉の通り
もはや知らない人はいないほどの人物へと成長していきます。

マドンナ利用デキるモノは何でも利用して

ニューヨークについても行く宛のなかった彼女は
とりあえずタクシーに乗り、

「この街で1番大きな場所へ行って!」

と告げます。

運転手が向かった先は、タイムズスクエア。

大きな看板に、ネオンが輝き人通りの絶えない
景色を見て、マドンナは

「私はこの世界で神よりも有名になる」

と決意します。

アイスクリーム屋、ウエイトレス、画家のモデル
ドーナツ屋、高級レストランで帽子預かりのクローク……

様々なバイトをしながら金銭のやりくりをしていました。

時には成人映画やヌードモデルや、『a Certain Sacrifice』
というSM映画に出演したことも。

朝はバナナ、昼はリンゴ、夜はヨーグルトで済ませ
開いている時間は全てダンスに費やしました。

1978年には『パトリック・エルナンデス・レビュー』
にダンサーとして出演するためパリに渡っています。

アメリカへ帰ってきてからは、音楽家のダン・ギルロイと
付き合い始め

「スターになるためには歌うことが近道」
考えるようになり、ダンシングシンガーへと
夢をシフトします。

1980年、22歳の時にダン・ギルロイのパンクバンドに
加入し、ボーカルだけでなく、ギターやドラムも担当し
少しでも目立つためにパンク風なファッション、派手な
パフォーマンスを見せていました。

若い頃
このバンド活動を維持するため、通りで男をひっかけて
一夜を共にして生きていたといいます。

ゴッサムレコード会社の代表者カミール・バーボンに
自身を売り込み、カミールは、マドンナの個性と資質に
可能性を見出し、手を組むことになります。

カミールは、今のバンドと手を切るという条件で
マネージャーになると切り出しマドンナはこれに
応じます。

1981年の半ばには、会社が用意したバンドとダンサーを
バックに初のステージに立ちます。

ゴッサム時代に作った4曲入りのデモ・テープが、のちに
「ゴッサム・テープ」と呼ばれ所有権をめぐってゴッサムと
マドンナは法廷の場で争うことになります。

マドンナはデモテープをもっと売り込むために、カミールを
捨てて、人気DJのマーク・ケイミンズの恋人となり
彼のつてで、ワーナーブラザーズ傘下のサイアー・レコード
との契約にこぎつけました。

体を売り、恋人を渡り歩き、協力者を踏み台にして
のし上がってきた彼女の快進撃はここからです。

マドンナ唯一無二のスターとして

1982年10月にデビューシングル「Everybody」
リリースし、ビルボードのダンスチャートで3位に
ランクイン。

レコード会社はすぐにアルバム制作に取り掛かり
マネージャーにはマイケル・ジャクソンを担当
していたフレディ・デマンを起用し、トップスター
へと突き進みます。

ファーストアルバムは全米で500万枚。

全世界で1000万枚と成功を収め、若者の間で
熱狂的なブームとなりました。

そして、1984年、セカンドアルバム
「ライク・ア・ヴァージン」を発売。

全世界で2100万枚、全11カ国でチャート首位を
獲得し、大ブレークを果たします。

当時の音楽シーンでは珍しいデジタル機器も
導入されたレコーディングで、最先端の音楽
として知れ渡りました。

シングルカットされた「ライク・ア・ヴァージン」
ミュージックビデオはマドンナをセックスシンボルとして
確立させた斬新で大胆なものでした。
ライクアバージン

その後、80年代から現在までいつでもリリース曲は
ヒットとなり、ダンサーとして、歳をとってもキレよく
ダンスを踊るその姿は、リリースの度に世界中で
話題になっています。

ビヨンセレディーガガ、リアーナもルーツは
マドンナであり、日本の歌手も彼女のファッションを
取り入れるなど、世界中の音楽シーンにも影響を
与える唯一無二のスターとなったマドンナは何一つ
持たずに確固たる野心だけを頼りにその全てを自分の
力一つで手に入れてしまったのです。

まさに現在でもその成功ぶりとスター街道への
駆け上がり方はショービス界のアメリカンドリーム
そのものといっても過言ではありません。

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おわりに

ニューヨーク時代の不遇さを見ると誰でも挫折してしまいそうな環境ですが、マドンナは決して諦めることはなく、望んでいたスターの夢を掴み取りました。
現在まで容姿も歌声もダンスも、何も衰え知らずですが、この半生を見るにものすごくストイックで人並み外れた努力の上に成り立つものではないでしょうか?


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