作家の生い立ち

伊藤野枝の生い立ち~子供の現在と太く短く生きた奔放で壮絶な最期

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大正時代の婦人解放運動家で、28歳の若さで波乱の生涯と最期を遂げた伊藤野枝に注目が集まっています。

俳優吉高由里子さんが、2022年3月下旬に特集ドラマ『風よ 嵐よ』(NHK BS8Kなどで放送予定)でこの伊藤野枝を演じることでも話題になっていますが、奔放な人生を送った彼女は一体どのような人だったのでしょうか。

伊藤野枝の生い立ちや結婚、子供たちや彼女の壮絶な最期が後世に伝えられており、女性の自由な生き方について人々に大きな影響を与えています。

伊藤野枝の生い立ち、子供の現在と太く短く生きた奔放で壮絶な最期についてお伝えします。

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伊藤野枝プロフィール

氏名:伊藤野枝(いとうのえ)
生年月日:1985年1月21日
死没年月日:1923年9月16日(28歳)
職業:作家、翻訳家、編集者、婦人開放運動家、無政府主義者
最終学歴:上野高等女学校

伊藤野枝の生い立ち~子供時代

伊藤野枝は1895年、福岡県にある今宿村に生まれ、実家は江戸時代初期から海産物などの問屋を営んでいました。

明治維新以降のインフラの激変で村自体が廃れてしまい、一家も没落、大変貧しい少女時代を過ごしたようです。

野枝の父はあまり働き者ではなく今で言う遊び人、その為昼夜を問わず母が働き家計を支えていました。

長女の野枝は厳しい暮らしのため中学を卒業するまでの間、親戚の家をたらい回しにされます。

中学を卒業するまで野枝は、多くの期間を親戚の元で暮らし、自身の境遇への反発か、学業に打ち込みました。

彼女は女学校への進学を夢見ていましたが、家の暮らしを支えるために中学卒業後は地元の郵便局に就職し、その間詩や短歌を雑誌に投稿していました。

野枝の少女時代は成績優秀で、幼いころから新聞、雑誌、多くの本に触れ、文才には長けていたそうです。

当時、帰省してきた叔母一家とふれあうことで東京の空気を感じ、憧れを抱いた野枝は、叔父の代準介を頼って上野の高等女学校に進学します。

野枝は女学校を卒業した1912年、親に決められた結婚のため帰郷しますが、すぐに東京に戻り、女学校時代に想いを寄せていた英語教師の辻潤との同棲生活を開始、同年平塚らいてう率いる女性誌「青鞜」の編集に参加し、女性解放運動家の道を歩みはじめました。

1916年以降、野枝は社会運動家の大杉栄と連絡を取りはじめ、後に彼と不倫関係になったことで世間に批判されて孤立、国からの弾圧もあい苦難の時を迎えます。

それでも彼女は独自の女性のあり方を訴え、実践し続けていきました。

伊藤野枝と辻潤との出会いと別れ

伊藤野枝の人生における英語教師辻潤との出会いは、活動家の道に進むきっかけとなった大きな出来事といえます。

野枝は女学校在学中、休暇帰省中に郷里の裕福な家の息子と結婚しました。

そして女学校卒業後、一度郷里に帰った野枝は、その9日後、婚家から逃げ出し東京へ。

東京に戻った野枝は何と女学校の男性教師の家に向かいます。これが野枝の2番目の夫となった英語教師辻潤で、野枝の初恋の人でした。

野枝は辻とその家族(母と妹)が暮らす家で、そのまま同棲を始めています。辻はこの事件により教師の職を失いましたが、野枝の文才を認め支えた人物でした。

辻の勧めで平塚らいてうに手紙を出した野枝は、これをきっかけにらいてう主宰の女性解放雑誌『青鞜』に参加し、文筆家への道を歩み出します。

野枝は「貞操論争」「堕胎論争」「廃娼論争」など大胆に言論活動を展開し、固定観念に対抗します。

「ああ、習俗打破! 習俗打破! それより他には私たちのすくわれる道はない。呪い封じ込まれたるいたましい婦人の生活よ! 私たちはいつまでもいつまでもじっと耐えてはいられない!」 ――『貞操に就いての雑感』(青鞜 第五巻第二号)1915年2月号。

と叫び、女性自らが行動を起こすよう説いていきます。

20歳で『青鞜』の編集長に就任すると、「無主義、無規則、無方針」をモットーに、教育のある「お嬢様層」だけではなく、幅広い人たちに誌面を解放しました。

夫である辻とは1915年に結婚し、二人は2児(まこと、流二)をもうけましたが、ほとんど働かない辻との家庭生活は約4年で破綻しました。

彼と野枝の従姉妹との不倫関係にも不満があったともいわれていますが、野枝も負けて居らず最終的には当時知り合った大杉栄に猛烈に惹かれた事が辻との離婚を決意するきっかけになったようです。

1916年、野枝は辻の元を去り、社会運動家でアナーキストとして知られる大杉栄との生活を始めます。

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伊藤野枝と大杉栄の出会い

伊藤野枝と大杉栄の出会いは、野枝が影響を受け翻訳したアメリカの無政府主義者エマ・ゴールドマンの『婦人解放の悲劇』を、大杉栄が評価したことにあるといわれています。

そして野枝が大杉栄と出会ったころ、野枝には辻との間に、まだ幼い2人の息子がいましたが、すべてを放り出して大杉との生活に入っています。

大杉栄は「自由恋愛論者」で、野枝と付き合い始めた当時は、妻の他に愛人、そして野枝との派手な交際関係にありました。

ところが愛人に刺された事件(日蔭茶屋事件)の後、妻と離婚し、野枝とのみ交際するようになったのです。

子供をおいて恋愛に没頭する野枝を世間は批判しますが、「正直に生きて、何が悪い!」と真っ向からかわし、わがままで身勝手な伊藤野枝というイメージができ、らいてうをはじめとする仲間も次第に去っていきました。

伊藤野枝の子供達

野枝は大杉栄との生活に幸せを感じており、大杉との間に5人の子ども、魔子(後に眞子と改名)、エマ(後に幸子、誕生後大杉の妹の養子に)、エマ(笑子に改名)、ルイズ(ルイに改名)、ネストルをもうけます。

「大正デモクラシー」と言われ、市民が民主主義に目覚めた時代であったものの、平等や公正を説く大杉の運動は常に弾圧の対象で、新聞を出せばすぐに発売禁止、何度も逮捕され警察に追い回されていたとか。

2人はいつも貧乏で、家賃滞納から引っ越しを繰り返し、方々に借金をして活動資金を集め、命がけの生活で運動を続けました。

やがて伊藤野枝と大杉栄の死により、残された子供たちは、自身も知らないような出自や両親のことで、周囲から差別的な扱いを受けてきたといわれています。

2人の死後、野枝の叔父が次女のエマ以外の子供たちを引きとったといわれています。

結局、野枝は28年の生涯で辻潤との間に2人の息子を産み、大杉栄との間に5人の子供の7人もの子供を誕生させています。

1913年9月20日辻一(まこと)長男
(生年月日不明)次男の流二(りゅうじ)
1917年には長女魔子
1918年頃に次女のエマ(後に幸子に改名)
三女もエマ(後に笑子に改名)
四女にルイズ(後に留意子と改名)
野枝の三男(栄の長男)にネストル(後の栄と改名)

辻まこと、野枝にとっての長男は後に作家となり父とのフランス留学で培った経験を活かしフランス翻訳もしたりイラスト入りの虫類図譜を出版したりエッセイを書いたりする作家活動を行っていたようです。

昭和55年62歳で亡くなったそうです。

次男の流二は、驚くことに辻潤と別れて家を出る際に、長男のまこと(当時2歳)だけ辻家に置いて、まだ幼かった流二のみを連れて大杉栄の元に行ったようで、しかも辻潤と離婚後も、長男まこととの交流は切れる事はなかったとのこと。

当時でも今でも間男と言って過言ではない大杉栄と母伊藤野枝の暮らす家に、ちょくちょく遊びに行き大杉にも可愛がられており夏休みになると大杉家で義理父なる大杉栄と母伊藤野枝らと過ごしたのだそうです。

しかし次男を連れて家を出たものの、大杉栄と再婚した野枝は、流二の為を想ったのでしょうか、その後、まだ乳飲み子だった流二は結局家出から1ヵ月後の4月には千葉県御宿の網元若松の里子に出して手放しています。

長男まことと違い、流二のその後の詳細は分かりませんでした。

しかし我が子を手放してからの、大杉栄との間に5人の子供を出産です。伊藤野枝の身勝手過ぎる程、本能のまま生きる生命力は凄すぎますね。

結局彼女は、辻潤と結婚して離婚までに2人の息子、その後大杉栄と結婚して最期の7年の間に4人の娘に1人の息子の合計7人もの子供を出産しています。

恐らく2度の結婚離婚の間、その大半が妊娠期で、お腹は大きかったのではないでしょうか。冗談抜きで、どう振り返ってもほぼそのような状態だったと想像できます。

長女魔子は福岡で福岡日々新聞社員と結婚し子供をもうけますが戦後離婚、女給や外交官を経て博多人形師青木仏と再婚しているそうです。

また次女幸子は彫刻家菅沼五郎の妻となり、四女伊藤ルイを描いたドキュメンタリー「ルイズその旅立ち」(監督・藤原智子)がキネマ旬報・1997年度文化映画部門ベストテン1位などの賞を獲得しています。(Wikipedia)

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伊藤野枝の壮絶な最期

伊藤野枝は、28歳の若さで夫の大杉栄とその甥っ子橘宗一らと共に、憲兵隊の甘粕正彦に暗殺されるという、壮絶な最期を迎えます。

理想の同志だった2人は1923年9月、関東大震災がおこり混乱の中、危険人物として捕えられ殺害されてしまったのです。

憲兵隊構内で殺害された(甘粕事件)とき、伊藤野枝は28歳。ともに命を落とした大杉栄は38歳でした。

遺体は畳表で巻かれ、古井戸に全裸の状態で投げ捨てられたといいます。

甘粕らは裁判で「(三人は)苦しまずに逝った」と語ったものの、1976年に発見された死因鑑定書によると、野枝と大杉にはいくつもの骨折があり、激しく暴行された形跡があったそうです。

彼女は生前その自らの死を予測するかの如く周囲にこう話していたと言います。

「どうせまともに畳の上では死ねれんに」

この言葉が予知夢となってしまったの如く、壮絶な最期を僅か28歳にしてこの世を去った伊藤野枝が、本能のまま生きて欲した物とは一体何だったのでしょうか。

自由を説き、その生き方を最期まで貫いた伊藤野枝の波乱の生涯はあまりにも短いものでしたが、女性をめぐる様々な問題提起を臆することなく世に訴えた彼女の姿勢は高く評価されるものといえるでしょう。

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おわりに

婦人開放活動家の伊藤野枝の生い立ちは、貧しくも文才にたけ、英語教師辻潤や、社会運動家で知られていた大杉栄との恋愛を経ながら、その活動家としての人生を強く歩んでいきました。
子供を持ち母親としても幸せな生活でしたが、自由で奔放な主張が警戒され、壮絶な最期を迎えた野枝。それでも女性解放や自由な生き方を実践する太く短い生涯は今も胸を打ち、その魅力は時を超えて延々と流れています。


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