与謝野鉄幹の生い立ち~家系図と子供!与謝野晶子が惚れたモテ男ぶり

この記事は6分で読めます

与謝野鉄幹アイキャッチ

明治から昭和にかけて活躍し、歌集『みだれ髪』で情熱の歌人と称賛された与謝野晶子の夫・与謝野鉄幹。

「バナナ事件」でも知られる彼もまた『明星』を創刊しロマン主義運動で活躍しましたが、著名な子孫を抱える家系図や、早くからのモテ男ぶりにも注目が集まっています。

人気を集めた晶子と比べ、作品も振るわず困窮した与謝野鉄幹ですが、歴代の子供の数も多く、晶子の鉄幹への愛情の深さが話題を集めています

与謝野鉄幹の生い立ち、家系図、与謝野晶子の惚れたモテ男ぶりについてみていきます。

Sponsored Link

与謝野鉄幹プロフィール

氏名:与謝野鉄幹(よさのてっかん)
本名:与謝野寛(ひろし)
生年月日:1873年2月26日
出生地:京都府岡崎町
死没:1935年3月26日(62歳没)
職業:歌人
ジャンル:和歌
文学活動:浪漫派
配偶者:浅田信子・林滝野(ともに離婚)、与謝野晶子

与謝野鉄幹(1873年~1935年)は、京都生まれの歌人・詩人で、本名は「寛(ひろし)」です。歌人・与謝野晶子の夫で、後に慶応義塾大学教授、文化学院学監を務めました。

与謝野鉄幹の生い立ち~養子となるまで

1873年(明治6)は与謝野鉄幹は、京都の西本願寺支院・願成寺の僧侶である父・与謝野礼厳の四男として生まれました。母親は京都の商家出身の初枝さん。

鉄幹の父は、もとは庄屋だった細見儀右衛門の次男として生まれますが、幼少時に出家し浄福寺で修行、西本願寺で得度しています。

現在の京都府与謝部(現与謝野町字温江)で生まれたことにちなみ、明治初めに与謝野姓を名乗るようになったといわれています。

鉄幹の本名は(ひろし)(鉄幹は号)で、彼は幼くして仏典・漢籍・国書を学ぶなどし、早くから天才児と評判だったとか。

当時10歳の与謝野鉄幹は、1883年に大阪府住吉郡の安養寺の安藤秀乗の養子となっています。

与謝野鉄幹の生い立ち~家系図と与謝野姓に戻る訳

10歳で養子となった与謝野鉄幹は、1891年(明治24)に養家安藤姓からもとの与謝野姓に戻したそうです。

彼が当時、与謝野姓に戻る訳はなんだったのでしょうか。

鉄幹は、1883年に大阪府住吉郡の安養寺の安藤秀乗の養子となっており、1889年に僧侶になるため西本願寺で得度した後、山口県徳山町の兄・赤松照幢の寺に赴き、その経営になる徳山女学校の国語教員となっています。

同寺の布教機関誌「山口県積善会雑誌」の編集も行い、17歳だった1890年に初めて「鉄幹」の号を用いたといいます。

そして1891年には養家を離れたため、与謝野姓に戻ったといわれています。

また彼の家系図を探ると、鉄幹の実兄照幢は僧侶の赤城連城の娘安子と結婚し、その子が政治家の赤松克麿。さらに赤松克麿の妻は吉野作造の娘で、社会運動家の赤松明子であり、政治や社会活動家に囲まれた家系のようです。

ちなみに与謝野鉄幹の子供では二男の与謝野秀が、後に外交官として活躍、その子で鉄幹の孫である与謝野馨も元衆議院議員として活動した自民党の政治家でした。

与謝野鉄幹の教師でもモテ男の女性トラブル

与謝野鉄幹は、古今東西存在する今でいうモテ男としても知られる人物です。そんな彼のモテっぷりを象徴するエピソードを紹介しましょう。

鉄幹は現在のように和歌で世間にその才能を認められるようになるまでの過程で若い頃、徳山女学校で4年間国語教師を勤めた経歴があります。

ただその若い頃の教員時代に、驚く事に二人の女生徒(浅田信子と林滝野)との間に子供が生まれるなどの女性問題を起こしたため、1892年に辞職して京都に帰っています。

浅田という女子生徒との間には女の子も生まれていますが、生後間もなく亡くなっています。

ともあれ現代も教師と生徒との関係が性的関係を持ったなど世間で話題となり、ニュースで見る事はあるものの鉄幹の場合は本当の恋愛関係となり子供まで設けたリアルな男女の関係だった事に驚きを覚えます。

鉄幹は1899年に「東京新詩社」を創立しましたが、同年秋に最初の妻である浅田信子と別れ、林滝野(もう一人の女生徒)と同棲、最初の子である一子・与謝野萃(あつむ)をもうけています。

鉄幹は、1900年には「明星」を創刊して、北原白秋・吉井勇・石川啄木などを見い出し、浪漫主義文学運動の中心的役割を果たした人物ですが、与謝野晶子不倫略奪婚と言われ結婚した後も、多くの女性トラブルでも有名だったようです。

鉄幹はその後浅田・林とも離婚、与謝野晶子と一緒になりますが、結婚後も数々の弟子や女性らとの関係があったといわれ、かなりのモテ男だったようですね。

こうした鉄幹の女性関係を悩んだ女心や恋情が妻となった与謝野晶子の代表作「みだれ髪」に赤裸々に描かれていた事は有名な話。

当時から相当なモテ男で好色だったという話はかなり噂以上の事実のようですね。

Sponsored Link

与謝野鉄幹と与謝野晶子の出会い

モテ男だった与謝野鉄幹と与謝野晶子の出会いが気になりますね。

与謝野晶子は大阪府堺市の実家にいましたが、明治33年8月、関西で「文学会」を開催するためにやってきた与謝野鉄幹に出会います。

文学美術雑誌「明星」を主催していた詩人の与謝野鉄幹。彼が開催する「文学会」で、与謝野晶子は鉄幹に一目惚れしたといいます。

すでに文壇で活躍していた与謝野鉄幹は、スマートな容姿に機知に富んだ話術で、人を惹きつける魅力が溢れていたといいます。

晶子は以前から、与謝野鉄幹のことを短歌に詠んでいたようで、それを目にした与謝野鉄幹も、「明星」に与謝野晶子が必要と感じていました。

ところが当時の与謝野鉄幹には既に妻子があり、当時無名歌人だった晶子との不倫が問題視されるようになります。

妻帯者である与謝野鉄幹でしたが、そうした背景をモノともせず与謝野晶子は自分の直観を信じて突き進みます。そしてそうした情熱を受け入れてしまった鉄幹と2人は瞬く間に恋仲に。

時は明治時代、現代とは比較にならないくらい道徳観や倫理観が頑なな時代の2人の不倫は相当な世間からの誹謗中傷となります。

当時28歳の鉄幹は晶子の非凡な才能を見抜き、晶子(当時22歳)の歌集「みだれ髪」(1901)をプロデュースし話題を集めました。

その与謝野晶子の「みだれ髪」の内容も今聞いても赤面モノの熱烈な想い人に対する女心が打ち明けられており、如何にして鉄幹に惹かれていったのかが分かる当時としてはセンセーショナルな内容で批判を浴びる一方、女性には熱烈に支持されることとなります。

それほどまでに与謝野晶子にとって鉄幹は運命の男であり、鉄幹にとっても晶子は唯一無二の存在としてその後の生涯を共にする夫婦となるのです。

鉄幹は、1901年には2番目の妻(林滝野)と別れて晶子と再婚、六男六女の子宝に恵まれました。

与謝野鉄幹に惚れぬいた与謝野晶子

多数の女性関係を持ち、モテ男だった与謝野鉄幹に惚れぬいた与謝野晶子の良妻ぶりも話題になっています。

結婚したものの、鉄幹の詩の収入は少なく極貧生活、 食事は一汁一菜のみだったそうです。

当初は、与謝野晶子が実家から持って来た着物を売っては生活費を工面していましたが、それもすぐなくなります。

晶子の歌人としての人気が高くなる一方、夫の鉄幹はひがんでばかりで、挙句には、「ヨーロッパに行きたい」などとわがままを言い出す始末。

ところが与謝野晶子は、そんな夫鉄幹の我がままを受け入れ大金を工面してヨーロッパへと送り出します。

それだけでも凄いのに晶子の情熱的なのはその後そんな状況の中、それでも鉄幹に会いたくなり、幼い7人の子供を残して鉄幹の後を追い、ヨーロッパに鉄幹を追って渡っているところです。

既に7人の子供を儲けた夫婦仲でありながら、異性として求め続ける魅力が鉄幹にはあったのでしょうか、現代とは全てがまるで状況も違う明治時代にそんな突拍子もない行動をしていた与謝野夫婦は、余程夫婦となっても男女の相性が良かったのでしょう。

ただそうした夫鉄幹の存在が晶子にとっては特別な存在だったのか、ヨーロッパから帰国した与謝野晶子は、ますます活動の場を広げ精力的に仕事をこなしていきますが、その頃になると、鉄幹の収入はなく、その上家にいないことも。

スランプで作品が作れないと悩んでいた夫鉄幹に「留学して勉強し直せばいい。お金は私が用意するから」といい、彼を留学させたのですからびっくりです。鉄幹を支えることに人生をかけ、惚れぬいたこの晶子の姿に共感する人が多いようです。

与謝野晶子も「フランスに行って勉強したい!」と思いはじめ、1912年5月19日に無事フランスに到着した与謝野晶子は、夫鉄幹と共に、イギリス・オーストリア・オランダ・ドイツ・ベルギーなど、次々訪れました。

4カ月後に揃って帰国した頃には、2人とも欧米の男女平等に感化されており、1921年(大正8年)に与謝野晶子は、夫の与謝野鉄幹らと共に、お茶の水駿河台に文化学院を創設し、男女平等教育をうたい日本初の男女共学を成立させました。

時代背景を考えたら物凄い行動力だった事が分かります。

1919年(大正8年)のこと、そうした経歴を買われてか、与謝野鉄幹は慶應義塾大学文学部教授として招かれ安定した生活を得たようです。

与謝野鉄幹の歴代子供の数に絶句

前述のように、与謝野鉄幹は国語教師時代、女子学生との間に子供を作っていますが、一人は亡くなり、2人目の妻との間に1子(あつむ)をもうけています。

与謝野晶子は23歳のときに鉄幹と不倫略奪と言う形とはいえ結婚しており、二人の間には13人の子どもがいました。一人は死産であるため、実質は6男6女を産んでいますから、鉄幹の歴代子供の数は総勢15名(亡くなった子2人を含む)。

晶子は、24歳の時に長男の光、26歳の時に二男の秀、29歳の時に長女の八峰と二女の七瀬を双子として産みます。

31歳の時に三男の麟、32歳の時に三女の佐保子、33歳の時に4女の宇智子、35歳の時に四男のアウギュスト(足昔{足ヘンに昔}。後に「いく」と改名)、37歳の時に五女のエレンヌ、38歳の時に五男の健、39歳の時に六男の寸を産むも2日後に早死、42歳の時に六女の藤子を産みました。

これだけの子供を抱えた鉄幹ですが、収入が無い時期も相当な月日だった事や、そうした中でも女性関係を切らさず晶子を悩ませていた事、それでも子育ては晶子がほとんどしていたといわれており、晶子の無償の愛に驚かざるを得ません。

Sponsored Link

与謝野晶子の生い立ち~エピソードはバナナ事件以外も凄いド級な人生

おわりに

歌人の与謝野晶子の才能を引き出し世に送りだした張本人としても知られる夫の与謝野鉄幹は、与謝野晶子が一目惚れし100年前の明治時代に不倫略奪婚したほどの溺愛した夫でもあります。
2人のエピソードは与謝野晶子の代表作「みだれ髪」の内容そのものだと言われる程現代にも劣らない熱烈かつ情熱的な関係だった事が作品を通して知られていますが「バナナ事件」はじめ当時も現代の今での赤面物な男女関係にありました。
それでも2人の夫婦関係は不埒なだけでなく略奪婚した後に12人もの沢山の子を儲け、鉄幹無職状態の中でもその極貧生活を常にささえ遊び人で女性にモテる夫鉄幹を最後まで愛し愛された与謝野鉄幹夫婦はやはり運命の人同士だったのでしょう。鉄幹もここまで惚れられるのもある意味才能と男冥利に尽きたのではないでしょうか。


  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る

関連記事

  1. 芥川龍之介アイキャッチ
  2. 与謝野晶子アイキャッチ
  3. 瓜田純士アイキャッチ
  4. 下重暁子アイキャッチ
  5. 伊藤野枝アイキャッチ
  6. なかにし礼アイキャッチ
  1. この記事へのコメントはありません。