明治時代、日本の思想家、女性解放家として活躍した平塚らいてう。らいてうは「原始女性は太陽だった」という有名なフレーズで知られますが、何をした人かや、生粋のお嬢様の生い立ちも注目されています。
また婦人開放運動家として活躍した伊藤野枝とも関わりが深く、平塚らいてうは伊藤野枝を嫌ったといわれていますが本当でしょうか。
吉高由里子主演ドラマの「風よ あらしよ」で注目される平塚らいてうの生い立ち、伊藤野枝を嫌った性格の違いなどについてお伝えします。
平塚らいてうプロフィール
氏名:平塚らいてう(らいちょう)
本名:平塚明(はる)
出生地:東京都
生年月日:1886年2月10日
死亡日: 1971年5月24日, 東京都 東京 千駄ケ谷
学歴: 日本女子大学 目白キャンパス (1903年–1906年)
書籍: 元始、女性は太陽であった: 平塚らいてう自伝
In the beginning, woman was the sunなど
子女: 奥村敦史、築添曙生
平塚 らいてうは、日本の思想家、評論家、作家、フェミニスト、女性解放運動家。本名は平塚 明。戦後は主に反戦・平和運動に参加しました。
平塚らいてうの生い立ち~生粋のお嬢様として
平塚らいてうは、本名は平塚明(はる)で、明治19年(1886年)に会計検査院検査官である平塚定二郎氏の三女として生まれました。
らいてうは東京の麹町で生まれますが、この平塚家は、相模・三浦氏と言う名門の流れで、相当な裕福な家庭だったといい、高級官僚の娘として生粋のお嬢様だったといえます。
12歳で女子高等師範学校附属高等女学校(通称お茶の水高女)に入学します。
そして平塚らいてうは、父からは女学校以上の教育は不要と言われつつも説得して、17歳の時、成瀬仁蔵や広岡浅子、大隈重信、伊藤博文、渋沢栄一らが関与し設立された日本女子大学校家政学部に入学しました。
らいてうは英文学部を志望しましたが、父の反対で家政学部に落ち着いた。卒業後は、もともと関心のあった英語を習うため、女子英学塾や私立成美高等英語女学校などに入学、哲学や仏教、文学にも興味があったといいます。
お茶の水高女時代には、封建的な教育制度に反発し、級友と「海賊組」を作ったエピソードもあり、臆することなく自分の気持ちや考えを表現し、真っ直ぐ突き進む性格だったようです。
平塚らいてうは何をした?
あらためて歴史的には平塚らいてうは、女性解放運動の立役者としてのイメージが強くあります。
“「原始、女性は太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である」”(平塚らいてう著 『平塚らいてう わたくしの歩いた道』より一部抜粋)
明治から大正にかけて、従属した立場にあった女性には、勉学に励み、立身出世するなど有り得ないとされていました。
そんな時代に、平塚らいてうは26歳にして、女性ばかりで女性のための『青鞜(せいとう)』という雑誌を発刊(1911年)しています。
その初刊で、平塚らいてうが寄稿した文章の始まりが「原始、女性は太陽であった」という先ほどのフレーズで、戦前戦後現代とは比較にならないレベルで抑制され続けていたと考えられる、日本中の若い女性の目覚めをもたらしたといわれています。
青鞜社立ち上げ当時、『青鞜』は進歩的な女性からは大歓迎され、保守的な男性からはかなりの批判的な意見が寄せられたとか。
当時、らいてうは実家暮らしだったので、そうしたらいてうの思想に反発して嫌がらせで平塚家には石が投げられたことも。
しかしらいてうは女性の才能を発揮できる社会を目指し、まっすぐに女性差別や不平等の撤廃を目指して行動していきました。
平塚らいてうの心中未遂事件
女性の自由や自立を主張した彼女は、自身も本能で生きた女性としてのエピソードが残っています。
その中でも平塚らいてうの文学青年森田草平との「心中未遂事件」が有名です。
彼女が22歳の頃、成美女学校の中に女性たちの文学研究会「閨秀文学会(けいしゅうぶんがくかい)」が生まれます。その講師が、心中未遂事件を起こす森田草平(もりたそうへい)で、平塚らいてうよりも3、4歳年上の文学青年でした。
二人のなれそめは、閨秀文学会の回覧誌に平塚らいてうの短編小説『愛の末日』が掲載されたことによります。
そのあらすじは、若いインテリ女性が相手の妥協的な態度に愛想を尽かして、恋愛関係を清算して地方の女学校へ赴任するというもので、これ対して、森田が長い批評の手紙を送っていました。
らいてうは森田を「陰性のはにかみや、話も上手とは言えない、気分的な、空想的な、ひとり合点のところが多い」と評し、かえってそれが「愛嬌、魅力」と理解したようで、以後、二人は手紙のやりとりを続ける関係となります。
1908年(明治41年)2月1日に2人は初めてのデートをしたそうですが、その同年3月21日に塩原から日光に抜ける尾頭峠付近にて、2人で心中未遂事件を起こします。
3月21日。朝、らいてうが通っていた浅草の海禅寺に森田草平氏が訪ねてきて、らいてうは散歩かと思って付き添いますが、着いた先は蔵前の鉄砲屋。森田はそこでピストルを注文したといいます。
らいてうは、本気とは思わないものの、いったん帰って家出の準備をし、冷静にも友人の一人に家出のことを告げ、日記などを燃やしてくれるように頼んだようです。
田端駅で待ち合わせをした二人は、行先を決めず列車に乗り込み、栃木県の塩原温泉の尾頭峠の雪深い山中へ。
結局は心中は警察から救助される形で未遂に終わるもののその後、らいてうは信州の山で半年ほど静かに過ごすことに。
以降は『青鞜』を発刊し、女性解放運動へ向かいます。一方森田氏はこの心中事件のいきさつを、小説『煤煙(ばいえん)』として書き上げ、朝日新聞に掲載、晴れて小説家デビュー。スキャンダルも彼らの思うままに進んでいったようですね。
平塚らいてうの結婚観
森田草平が師事していた夏目漱石は、先の心中未遂事件の決着として「森田から平塚家へ結婚の申し込みをさせること」を提示しましたが、らいてうはこの提案を一蹴し「結婚は万全の解決方法である」という男性の考えとは異を唱えたといわれます。
当時から、らいてうには独自の結婚観があり、その結婚も前例を見ないものでした。
1912年、26歳のらいてうは、既に『青鞜』を刊行し自立した女性でしたが、偶然にも仲間と訪れていた神奈川県茅ケ崎(ちがさき)で、5歳年下の奥村博史(おくむらひろし)と出会うことになります。
らいてうは、美術学校に通う画家志望の奥村博史と出会い、同棲を始め、1914年、二人は「共同生活」(事実婚)を始めます。
2人は当時の結婚観にも異論と唱えるべく行動、あえて婚姻届を出さずに、日本の「婚姻制度」から脱却することを目指したわけですが、当時は自由恋愛からの結婚は「野合(やごう)」と呼ばれ、世間から非難を浴びました。
さらに「結婚」と区別した「共同生活」という言葉で、二人の関係を世に知らしめ、のちに二人の子供を授かりますが、旧民法に則って分家し、らいてうの戸籍に入れて育てました。
ただ、時代背景的に兵役制度が残っていただけに子供にいずれ不利があることを知り、最後は息子を守るため、婚姻届を提出しています。
100年以上前の大正時代の女性解放運動家、平塚らいてう(らいちょう)」の結婚観は世間をあっといわせました。
平塚らいてうは伊藤野枝を嫌っていた
平塚らいてうは女性解放家の伊藤野枝を嫌っていたというのは本当でしょうか。
1912年(大正元年)秋、前年に創刊された女性文芸誌『青鞜』編集部に、18歳の伊藤野枝が加わりましたが、編集長の平塚らいてうは、野枝に「ただ素朴な野性的な美しい少女」という印象を抱いたとか。
その野枝は、婚家を出奔し恋人と同棲中と、10代にして波乱万丈で2年後には『青鞜』の編集長になるのです。
伊藤野枝は福岡生まれの作家・婦人開放家で、雑誌『青鞜』に参加し評論や小説などを発表、後に夫と息子を捨て無政府主義者大杉栄と結婚。
社会の矛盾を指摘し自由を求めますが、関東大震災後憲兵隊に夫とその甥っ子らと共に若くして虐殺されています。
平塚らいてうが代表を務めていた青鞜社を、1915年、伊藤野枝が引き継ぐことになったのは、平塚らいてうが奥村博史と同棲生活をはじめ、長女・曙生(あけみ)を出産し多忙を極めたことによります。
らいてうは、そのためいったん青鞜社から離れることにしたのですが、野枝が編集長になってからの青踏社は「文芸誌」らしさを失い、かわりに貞操や胎児問題などを取り上げる「評論誌」としての性格が強くなっていきました。
平塚らいてうは、伊藤野枝のこのような姿勢や、感情をあらわに表現するところなどにだんだんと疑念を感じ、疎ましさを募らせていったようです。
平塚らいてうの性格と野枝の違い
同じ時代に生き活動した伊藤野枝については、その言葉は強く攻撃的とされ、男のような文章を書いたようです。
平塚らいてうは、伊藤野枝が感情を剥き出しにするところについて
“丁度その頃私の前に突然現はれて来た野枝さんは日本婦人には珍しいほどに感情の自由性を生れ乍らもっている人でした。私が最初野枝さんに引きつけられ、あの人の快活なキビキビとした性格に興味と愛をもったのもこのためでした。
全くあの人は自分を偽ることの出来ない自由な感情に行き、そのために肉身(ママ)を捨て、友と離れ、世間にそむき、夫と二人の子供を捨て、苦しみもし、悲しみもし、怒りもし、戦ひもし、酔ひもしました(平塚らいてう「自然女伊藤野枝さん」冒頭部分)”
自由奔放な伊藤野枝が家族、そして青踏社の仕事を捨てて、大杉栄との交際をスタートしたことも、平塚らいてうとは違う一面でした。
やがて野枝は仕事を放り出してしまい、そのため1916年の2月号を最後に、『青踏』は無期休刊してしまったのです。
野枝は世間の評判を気にしない堂々ぶりでしたが、野枝に放り出された後の『青踏」で掲載された「獄中の女より男に」という小説は、当時タブー視されていた胎児問題を扱っており、『青踏』は発禁処分を受けてしまいます。
らいてうは野枝の自由さ、粗暴さある性格や言葉について戒めており、活動家で同志とはいえ性格は野枝がより激しかったといえます。
“痛快なものには相違ありませんが、あまりに過度な反発的情熱のために、相手の言葉を否定することのみ急いで、ともすれば単なる罵言のための罵言や、悪意的な、言葉の上の矛盾の指摘や、あげ足とりに堕した様な無内容や、上調子な部分が徒らに多くを占めてゐるため全体として非常に反省的態度を欠いたものに見えるばかりか、残念なことには肝心な彼女自身の積極的な考へやその主義主張が殆どどこにも語られて居りませんので一見非常に奮闘的態度のやうに見えながら、その実卑怯なものになって仕舞ってゐるのが多いやうにも思われます”(平塚らいてう「伊藤野枝さんの歩いた道」より。
らいてうが創設した「青鞜」当時から「フリーラブ」を提唱していた大杉栄には当時妻も愛人も居たのに、そんな事を理由に諦める野枝ではなく、自身の夫も子供も捨てて情熱の赴くまま大杉栄との生活を選ぶ野枝。
こうした行動で編集長まで任された野枝のせいで「青鞜」も廃刊となります。最初に伊藤野枝を見た印象を「ただ野性的で美しい少女」との印象だったと語ったらいてうですが、同じ女性解放やこれまでの古い価値観に異論をあげるべく「青鞜」で意気投合して活動してきた2人ではありますが、やはり2人には徹底的な違いがありました。
知性を持って自らの新しい思想を国や女性らに提示し、自身も緩やかに犯行しながら生きた平塚らいてうですが、伊藤野枝の場合の世間への反論はもっと激しいモノ。
徹底したフリーダム精神で自由を好み本能の赴くままに生きた野枝を、どこか平塚らいてうは共感しつつ反感を覚えあまりの奔放さに引いていた節があるのではないでしょうか。
野枝が生前好んだ言葉に「吹けよ、あれよ風よあらしよ」と言う言葉にも象徴されているように、そして生前散々働かない夫に苦労した母親の二の舞だけは踏まないといった野枝はこう言い残しています。
「どうせ畳の上ではしなれんとよ」
まるで自分の最期を予言しているかの如くのこの発言の跡、関東大震災の直後に野枝は僅か28歳で、この予言通り夫の大杉栄とその甥と共に撲殺され真っ裸の状態で畳にくるまれ井戸に投げ捨てられています。
対する、らいてうは病弱と言われていましたが、伊藤野枝亡き跡も、孤高の行動家として終生夫人運動や平和運動、反戦運動に取り組み1971年昭和46年5月85歳の長寿を全うしています。
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おわりに
明治時代から大正時代の戦前の今とは比較にならないレベルの価値観を持ち、男尊女卑や家長制度が当たり前とされた時代に異論を唱え女性の自由を主張する活動の旗振りをしてきた平塚らいてう。
何もせずとも十分な生活が約束された生粋のお嬢様でありながら彼女自身の独立精神は、100年前にあってももっと自由に、もっと女性が自立してもいいのだと訴えたらいてう。彼女が創立した「青踏」の創刊祝いにうたわれた「元始、女性は太陽であった」の言葉が象徴するような生き様とその主張に惹かれて活動に賛同しただろう時の人伊藤野枝らを惹きつけたらいてう。
100年前の平塚らいてうや伊藤野枝の活動があったからこそ現代の日本人女性の今があるのだと思うと感慨深く感じざる得ません。
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