政治家の生い立ち

伊藤博文の生い立ち~女好きのあだ名はほうきで暗殺事件の真相は

伊藤博文アイキャッチ 政治家の生い立ち

1000円札にもなっている初代内閣総理大臣の
伊藤博文。

日本最初の総理大臣、伊藤博文の生い立ちや
あだ名の基となった超女好きと言われた逸話や
暗殺事件の真相などについて調べてみました。

Sponsored Link

伊藤博文の生い立ち~

 

伊藤博文は、1841年に周防国熊毛郡
(現在の山口県)で生まれました。

9歳の頃に萩へ移ります。

家が貧しかったため、12歳の頃に父が
長州藩の蔵元付中間(武家奉公人)の
養子となり、その繋がりから博文も
足軽となりました。

1857年、江戸湾警備のために相模に
派遣されていた時、上司の紹介で吉田松陰の
松下村塾に入門します。

しかし、身分が低いため塾の敷居をまたぐことは
許されず、戸外で立ったままの聴講だったそうです。

その後、松下村塾で出会った木戸孝允、高杉晋作
久坂玄瑞らと、長井雅楽の暗殺を画策、品川御殿山の
イギリス公使館を焼き討ちするなど尊皇攘夷の
志士として活躍します。

 
また自ら志願して井上聞多、遠藤謹助、山尾庸三
野村弥吉らの、所謂「長州五傑(長州ファイブ)」
共にロンドンに留学します。

西洋列強の実力を体感し、開国・富国強兵論に転じ
武力倒幕運動に積極的に参加していきました。

伊藤博文の初代内閣総理大臣として

 

明治維新後は明治元年に兵庫県知事となり
その後は新政府の中枢で活躍します。

 
1885年に初代内閣総理大臣となり、その後も
第5代、第7代、第10代と4次に渡り、内閣総理大臣
として内閣組閣しました。

伊藤博文は希代の女好きであだ名が「ほうき」

 

伊藤博文の道楽と言えば、女だけと言うほど
徹底して女好きだった事でも
知られる歴代総理として有名です。

「立派な家に住みたいとも思わず、子孫に財産を残そうとも思わず、骨董や歌舞音曲の趣味もない、ただ公務の後で芸者を遊ぶのが唯一の楽しみだ」
 
と、公言していました。周囲の評価としても

「女に汚いのが伊藤博文、金に汚いのが大隈重信」
 
などと称されていたようです。

その女好きで激しい女遊びから「ほうき」
というあだ名もつけられていたようです。

これは「掃いて捨てるほど女が居る」との
意味やあまりにも女好きが講じて
『女を掃いては捨て、掃いては捨て』を繰り返しコロコロ
相手を買えては遊んだのが由来の『ほうき』だとも言われていて

時の明治天皇があまりの女性関係に激怒するほどの
生粋の女好きだったと言われているからその凄まじい
色情ぶりが分かるというものです。

 
イギリス留学中にもその女遊びは行われており
あまりに度が過ぎた為、留学生の間でも問題視され
博文を帰国させるべきだという声も挙がっていたのだとか。

共に居た井上聞多らが仲介に入ってくれたため、
の声も治まったようです。

博文には、友人武士の妹である妻「すみ」が居ました。

しかし帰国した後に攘夷派からかくまって貰って
いたと言われている下関の芸者の「お梅」の許へ
頻繁に通っていたのだとか。

 
そして「お梅」が身ごもったことで、「すみ」
と別れ、「お梅」と結婚することになります。

「お梅」は「伊藤梅子」と改名しました。

 
兵庫県知事に就任した後は、遊郭で料理屋兼宿泊屋
「千崎屋」の娘「お仲」と関係を持つようになります。

千崎屋に足げく通うようになり、それも妻お梅に
気付かれることになります。

お梅の怒りから、一度は関係を断ったと言いますが
またお仲の許へ通うようになったそうです。

そこでお梅は、兵庫県のとある巡査とお仲を
結婚させることによって、博文とお仲の関係を
断ち切らせたと言われています。

 
首相になってからも女遊びは続き、仮装舞踏会で
生粋の華族の令嬢に関係を迫り、マスコミからは
裏庭で事に及んだだとか、馬車の中で関係を持った
などのスキャンダルを報じられたそうです。

 
日清戦争時に日本軍本拠地が置かれていた広島でも
芸者遊びを続けています。

また下関で講和会議が開かれるため、講和交渉中に
清国側の代表が狙撃されるという事件が起こりました。

博文はその報告を受けた際も芸者と一緒だったそうです。
 
首相を辞していた1897年、貴族院議員の名古屋の
別荘で過ごしていた際にも芸者桃吉に出会い
惚れこんでいました。

議会開会中であっても頻繁に桃吉と会っていたといいます。

また桃吉の願いで千葉県の成田山参詣に出かけています。

首相を務めるほどの政治家が公然と芸者を
連れて出かけるというのは前代未聞でした。

Sponsored Link

伊藤博文の暗殺事件の真相

 

伊藤博文は明治42年10月26日に、極東問題で
赴いた満州ハルビン駅にて安重根に暗殺されます。

享年69歳でした。

 
しかしこの暗殺事件、安重根が犯人ではなく、他の
第三者が襲ったのではないかという見解があるようです。

その理由とされているのが

「弾と銃創が違っている」

という点が挙げられています。

伊藤博文に致命傷を負わせた銃弾は、フランス
騎馬隊が用いるカービン銃の弾であることが
分かっています。

しかしその時に安重根が持っていた銃は
7連式のブローニング拳銃であり、カービン弾を
装填して発射することは不可能だといいます。

 
また安重根は、並列の影から隠れるようにして
「しゃがんで」博文を撃ったと供述しています。

しかし博文が負った傷は、右肩から斜め下に
向けてであり、高い位置から撃たれた傷であったとか。

 
もし博文を暗殺したのが安重根ではないとしたら
誰が撃ったのかという事になりますが、博文が
襲われた時、周囲に居たロシア人はかすり傷一つ
負っていない事からロシア人が関係しているのでは
ないかと言われています。

 
日露戦争前に伊藤博文はロシアと協定を
結ぼうと考えていたのですが、すぐに
日英同盟が結ばれます。

これによって日露戦争が早まり、ロシア側
は負けたという見方が強いため、ロシアは
伊藤博文が裏切ったと思いその復讐をしたと
考えられています。

 
この真相はこれから先に明かされる事が
あるのでしょうか…。

伊藤博文は、ハルビンで暗殺される前の
歓迎会でのスピーチで
「戦争が国家の利益になることはない」と語っています。

その言葉も、当時の周囲はどう捉えたのでしょうね。

今の私たちとはまた違った捉え方をしたのだと思えます。

Sponsored Link

おわりに

日本最初の総理大臣として、お札にも顔が乗った伊藤博文。女癖の悪さから、人によって評価の上下幅が激しい人だと思います。私はちょっと…人間臭いといえばそうなのでしょうけどね。それでも明治維新後の日本を発展させた一人というか、総理ですし筆頭と言える大人物です。皆さんはどういった印象をお持ちでしょうか。

コメント

タイトルとURLをコピーしました