かつてヨーロッパをほぼ支配下にお
軍人から皇帝へと即位したフランスの
英雄 ナポレオン・ボナパルト。
革命後のフランスを治め、強力な軍事国家に
成長させた抜群のカリスマ性と戦術を持った
フランス初の皇帝の生い立ちから生涯謎に満ちた
最後の死因に他殺説があることも・・・
圧倒的な支持を得て栄華を誇った彼はイメージ
先行でイケメンとか身長も話題ですが改めて生涯
も気になります。
しかし瞬く間に彼の野望が消え、亡くなった理由とは?
ナポレオンの生涯を生い立ちから死因まで追って
見ようと思います。
ナポレオンの生い立ち~血気盛んな子供時代
1769年、イタリア半島の西に位置する
コルシカ島のアジャクシオに産まれます。
幼少期のナポレオンは読書に明け暮れる日々で
特にプルタルコスの『英雄伝』がお気に入り
だったそうです。
自分が決めたことは曲げない、暴力も
いとわなかったとされます。
かなり気の短いカンシャク持ちだったとも
言われています。
頑固で正義感の強かったナポレオンは、最初は
修道院付属学校に入りますが短期間で辞め
1779年にブリエンヌ陸軍幼年学校に国費で
入学します。
この時、数学で抜群の成績を残します。
1784年、15歳でパリの陸軍士官学校に入学。
※現在も世界遺産として、旧陸軍士官学校は存在します。
ナポレオンは騎兵科、歩兵科、砲兵科の3つのうち
人気の騎兵科を選ばず、砲兵科を選びます。
大砲を用いた戦術で、この選択は彼の後の
命運を大きく左右することに。
通常の在籍期間が4年程度のところを、わずか
11か月で卒業。
1785年に砲兵士官として任官。
この時期のエピソードで、クラスで雪合戦をした際に
ナポレオンの見事な指揮と陣地構築で快勝したという
話があります。
ナポレオンは背が低く、コルシカ島独特の
訛りのせいでクラスメイトからは田舎者だと
馬鹿にされていたと言います。
とは言え、当時の周囲の人間が平均以上の身長
だったため小さいと言われただけで170㎝はあった
とも言われています。
ちなみに脇を固める周囲には190㎝代の同僚が
多かったとか・・・そこらへんと比べられても~
という感じです。
唯一の親友であるブーリエンヌはのちの彼の秘書です。
また十代後半には小説家にも憧れ、断続的に
文学活動もしていたようです。
ナポレオンの生涯~フランス初の皇帝として
ナポレオンが民衆に英雄と言われ、そして
死んでいくまでをまとめました。
1789年、ナポレオンが19歳の時に
フランス革命が勃発。
国王ルイ16世を処刑し「絶対王政」が倒れ
フランスは立憲王政から共和制へ発展します。
1793年、一家をあげてフランスのマルセイユに
移住し、連隊に復帰すると特に何もせず大尉に昇進。
トゥーロン攻囲戦に参戦します。
港を見下ろす高地から敵艦を砲撃して
追い払い反乱を鎮圧します。
ナポレオンが初めて名を挙げた戦いで
これにより准将、少佐に昇格します。
1795年、パリで王党派の蜂起
ヴァンデミエールの反乱が起こります。
国民公会軍司令官のポール・バラスは、知り合いの
ナポレオンを副官として登用し、一般市民に対して
大砲を撃つという大胆な戦法をとり、鎮圧に成功。
師団陸将(中将相当)に昇進。
1796年3月にはイタリア遠征軍司令官となり
自身の当時の上司の妻であったジョゼフィーヌ・
ド・ボアルネと結婚。
同年、オーストリアが支配する北イタリアに遠征し
オーストラリア軍を破り、イタリア北部の広大な
領土も手に入れます。
カンポ・フォルミオ和約を結び、ナポレオンは
英雄として絶大な人気を得ます。
1798年、イギリス、インド間の交易を断つため
エジプトへ。ピラミッドの戦いと呼ばれる戦いに
勝利します。
しかし、海上ではイギリス艦隊に破れ
ナポレオン達はエジプトに閉じ込められます。
イギリスがオーストリアとロシアに
第二次対仏大同盟を呼びかけ、結成。
イタリアを奪還され、フランス本国も
危機に陥ります。
フランス国民は政府への不満が高まっていました。
1799年、イギリス軍を前に窮地に立たされた
ナポレオンがこれを知り、自軍をエジプトに
残したまま側近だけを連れ、フランス本土に戻ります。
このナポレオンの帰還に、民衆は歓喜します。
フランス政府に対してクーデターを成功させ
第一統領となります。
1802年、アミアン条約を結びます。
この条約で第二次対仏大同盟は解体。
1804年、35歳の時国民の投票で圧倒的な
票数を得てついに「皇帝」の座につきます。
ナポレオンを恐れたイギリスにより、再び
第三次対仏大同盟が結成されます。
オーストリア、ロシア、スウェーデンが
これに参加し、アミアン条約を破棄。
1805年、トラファルガー海戦では
イギリス侵攻はかなわず完敗。
しかし、陸上でオーストリア軍を破り
ウィーンを占領します。
またしても第三次対仏大同盟が崩壊。
その後も、第五次対仏大同盟まで
結成されるものもことごとく
ナポレオンが勝利し消滅します。
1810年にはオーストリア皇女の
マリー・ルイーズと結婚。
ナポレオンは絶頂期を過ごしますが
この後あっという間に地の果てまで
落ちていきます。
ナポレオンの生涯~頂点からの陥落
1812年、43歳の時、ロシアとの会戦を
決意しロシアへ侵攻。
ナポレオン軍はモスクワに入城、追いかけてくる
ナポレオン軍に対しロシア軍は、畑などに火を
つけながら退却し、ナポレオン軍の食糧を断ちました。
さらにロシアの厳しい冬の寒気に悩まされ
ナポレオン軍は退却を決意するも追撃され
当初は70万いた兵が5千まで減ったと
いわれています。
この大敗を知った各国は一斉に反ナポレオンの
行動を取り、第六次対仏大同盟を結成。
1814年にはヨーロッパ各国に攻め込まれ、ついに
パリが陥落してしまいます。
ナポレオンは退位し、エルバ島に流されます。
ナポレオンの代わりとなったのはルイ16世の弟
ルイ18世。
しかしルイ18世は国民からの評判も悪く
ナポレオンの方がよかった という声が挙がります。
エルバ島のナポレオンの耳にも入り、1815年に
エルバ島を抜け出しパリで再び皇帝に。
しかし1815年6月のワーテルローの戦いにて
イギリス・プロイセン連合軍に完敗し、再び
退位へと追い込まれます。
今度は、南大西洋の孤島セントヘレナ島に
幽閉されます。
島の総督、ハドソン・ローは徹底的にナポレオンを
愚弄し、腐ったぶどう酒を振る舞ったり、ナポレオンの
体調が悪化していたにも関わらず主治医を本国に
帰国させました。
心労がたたったのもあり、1821年5月5日に51歳の
若さで死亡。
ナポレオンの死因~今も根強い他殺説も?
ナポレオンの遺体は解剖され、胃に腫瘍とガンが
見つかっており、公式には胃癌が死因と発表
されています。
ナポレオンの死因は色々と噂されていて
やはり、そのひとつに暗殺説があります。
ナポレオン本人が臨終の際に
「私はイギリスに暗殺されたのだ」と語っており、
遺体をフランスへ送る際に全く腐敗していなかったこと
さらにはナポレオンの体内からはヒ素が検出されました。
このことから
「ヒ素を飲まされ暗殺されたのでは?」
と言われています。
他にも、ヒ素による中毒死ではないか
という話もあります。
当時の家の壁紙はヒ素が使われていて、カビと
共にヒ素を吸ったためではないかと言われています。
2002年にパリ警視庁・ストラスブール法医学研究所が
ナポレオンの遺髪を検査したところ、かなりの量の
ヒ素が検出されたそうです。
この死因については現在でも様々な
憶測が飛び交っています。
ナポレオンが残した名言
ナポレオンと言えばさすが英雄
たくさんの名言を残しています。
いくつか紹介していきます。
・世界には二つの力しかない。剣と精神の力である。そして最後は、精神が必ず剣に打ち勝つ。
・じっくり考えろ。しかし、行動する時が来たなら、考えるのをやめて、進め。
・状況?何が状況だ。俺が状況を作るのだ。
・最も大きな危険は、勝利の瞬間にある
・リーダーとは「希望を配る人」のことだ
・優れた能力も機会が与えられなければ価値がない。
・勝利はもっとも忍耐強い人にもたらされる。
・余の辞書に不可能の文字は無い
人生においても心に響くものが多いですが
自信に満ち溢れる発言は、今もなお英雄として
語られる所以だと思います。
おわりに
英雄と言えばナポレオンが必ず挙がりますが、改めて彼の行ってきたこと、名言や生き様の彼でないと考えつかないような発想や行動は、とてもかっこいいと思いました。やはり一つの時代を作った初代フランス大統領とだけあって一角の人物だったことが生い立ちからの生涯で良く分かりましたね。これまでもこれからも語り継がれる英雄である事は間違いないでしょう。
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