アメリカの第35代大統領ジョンFケネディの
夫人というイメージの強いジャクリーンケネディ。
ですが、それはたった2年と10か月の短期政権で
終わっています。
ケネディ大統領はパレードで殺害され若くして
未亡人となったジャクリーンケネディ。
ファーストレディーとして華々しく活躍しファッション
リーダーとしても存在感溢れる存在だったジャクリーン。
アメリカのファッショニスタとして今も語られ、
現在も最も有名なファーストレディとして
呼ばれています。
目の前で夫のケネディを亡くし、未亡人となった
ジャクリーンが世間を沸かせた略奪婚とは?
大統領夫人としての、そしてひとりの女性としての
ジャクリーンとは一体どんな人物だったのでしょう?
彼女の生い立ちと生涯を追ってみようと思います。
ジャクリーンケネディの生い立ち華やかな美人姉妹
1929年、ニューヨーク州ロングアイランドの
サウサンプトンで、フランス系の父ジョン
ブーヴィエとアイルランド系の母ジャネット
リー・ブーヴィエの間に生まれます。
1933年には妹のキャロライン・リー
ブーヴィエも生まれます。
父は株の仲介人で財産家。
母の実家も裕福だった為、4人暮らしのこの家族は
とても裕福な生活を送っていたそうです。
ですが、父の女性関係が派手なせいで
1940年には両親が離婚しています。
母も後に実業家と再婚していますがその母の元
エチケットやマナー等厳しくしつけられます。
そして、社交好きだった母は、娘ふたりに
女性としての嗜みや、ファッションセンスを
教えます。
また、母の趣味である乗馬はジャクリーンの
生涯の趣味となります。
ディナーの時は曜日を決め、会話はフランス語で
と決められていたことも。
ジャクリーンが教養を高めていた17歳の頃、社交界に
デビューした際に、コラムニストのイゴ・カッシーニが
「彼女がその年の”デビュタント・クイーン”(社交界デビューした女性の中のナンバーワン)である」
と書かれる程の社交界の華として人々の注目を集めます。
実際に「デピュタント・オブ・ジ・イヤー」に選出され
さらに「ヴォーグ」誌のエッセイ・コンテストにも
優勝しています。
容姿も美しく、気品のあるジャクリーンは
まさしくお嬢様ですね。
妹のリーもまた類まれな美貌を有していて
たちまちふたりは“美人姉妹”として騒がれる
存在になります。
姉妹は仲がよく、ふたりでヨーロッパ旅行へ
行くなどしています。
幼い頃は本ばかり読んでいた賢い姉ジャッキーと
美人の妹リーと呼ばれていたらしく、その当時は
妹のほうが際立って容姿が整っていたようです。
※1962年、ファーストレディ時代のジャクリーンと妹のリー
50年以上前の写真とは思えない画像です。素敵過ぎる
きっと世界が違うお嬢様だったのでしょうね。
ジャクリーンケネディとして愛よりファーストレディとして
ジャクリーンはプライドが高く、高校の卒業文集に
「絶対に普通の主婦になんかならない」
と記していました。
本当に普通の主婦ではなく大統領の夫人に
なるのですが、ふたりは、記者でありケネディの
友人だったチャールズ家のパーティーで出会いました。
ジャクリーンは当時下院議員で、ジョンFケネディは
秋の上院議員選挙を目指している身でした。
学歴と気品があり資産家の令嬢であるジャクリーンを
ケネディは気に入り、彼女こそがケネディ家の嫁に
ふさわしいと称えます。
将来アメリカ合衆国大統領のファーストレディと
なるべく資質を備えている、と。
ジャクリーンは、株式仲買人のジョン・ハステッドと
婚約していましたが、裏でケネディとの付き合い
が進む中で婚約を解消します。
1953年5月にケネディから電報でプロポーズされ
24歳の頃結婚します。
しかし、この結婚は、二人が恋に落ちいかなる時も
共にあることを誓った結婚ではありませんでした。
ケネディが大統領に選ばれるためには結婚を
していた方が有利でしたし、大統領になった際に
ファーストレディとなった彼女の濁りのない経歴は
自分の名声につながるはずだと計算していたのです。
ケネディが暗殺されるまで、彼は自身の病気に悩み
ジャクリーンも辛い時期を送っています。
ジャクリーンは妊娠するも、最初は流産
初めて産んだ子は死産でした。
その後ふたりの子を無事出産し、ジャクリーンが
31歳の頃ついにファーストレディとして
ホワイトハウスに入りました。
ジャクリーンの望み通り「普通の主婦」には
ならずに済んだわけです。
ジャクリーンケネディ夫暗殺から一転驚愕の略奪婚
夫婦生活は、ケネディが暗殺されるまでの
たった2年ほどで終わります。
1963年、生まれたばかりの息子パトリックを
病気で失い失意の最中、その3ヶ月後には夫が
暗殺されます。
ジャクリーンは世間から同情されながら二人の
子供と共にホワイトハウスを後にしました。
大統領暗殺後1年間はシークレットサービスの
警護がついていましたが、1968年にはケネディの
弟であるロバートケネディも暗殺され、ジャクリーンは
尊い子どもたちの安全を不安に思うのでした。
その頃から交際していたアリストテレス・オナシスと
再婚と出国を決意します。
当然ながらオナシスとの結婚に反対する人が多い中
その周囲の反対や制止を振り切ってオナシスのもとに
向かい、ロバートが暗殺された同じ年にイオニア海に
浮かぶスコルピオス島で結婚式をあげます。
このオナシスとの再婚はケネディ暗殺からわずか4年
後の再婚で世間を騒然とさせたと言われています。
そしてもう一つの驚愕の事実として世界の富豪として
名だ成る人物だったオナシスは何と恐ろしい事実が
あったのです。
何と、オナシスは、妹リーの不倫相手であり
結婚を予定していた恋人でした。
リーは、パトリックを亡くし弱っていたジャクリーンを
オナシスに紹介して、元気づける為クルーズに招待します。
オナシスは元々ケネディとも親交があり、これが
ふたりの交際に発展しました。
オナシスは62歳、ジャクリーンは39歳で結婚しています。
この年の差ですからそこに愛があったか
どうかは疑わしいものです。
当時オナシスとの再婚についてジャクリーンが知り合いに
こういったと言います。
『ケネディが亡くなって私の人生も終わったも同然。残りの人生はオマケみたいなもの。残りのオマケの人生にオナシスならもってこいじゃない…』
凄い!
凄すぎます・・・
ジャクリーンは、この結婚により政治家の妻だった
肩書きを捨て、子供たちの安全と自分の自由が同時に
手に入ると考えていたみたいですが、世間では、オナシスが
“20世紀最大の海運王”と呼ばれる億万長者だったからと
言われています。
リーが、結婚していながらも「オナシスと結婚する」
と話した時は馬鹿にしていたジャクリーン。
そんな彼女が最終的にオナシスを略奪し
リーは心底傷ついたでしょう。
ジャクリーンの結婚は、国民からはお金目当ての
結婚だ と蔑まれ、パパラッチに追われる身になりました。
ジャクリーンケネディ大富豪との再婚と壮絶金使い
ジャクリーンが浪費家なのは有名ですが、かつて
ケネディ大統領の夫人だった頃も相当なものでした。
ホワイトハウス内部のリフォームと家具や備品の
管理等で年間維持費を僅か1カ月で使い切る、母親
仕込みのファッションセンスは、Tシャツ1枚でも
自分好みのシルエットにお直しする等。
特にファッションに関しては現在もファッション
アイコンとして影響を与えており、彼女は並々ならぬ
こだわりがありました。
常に最高のものを求め、シャネル、ジバンシー
ディオールなどの服を好んで着ていました。
同じ服はあまり着ることはなかったそうです。
宝石や靴はもちろん、ストッキングや手袋の
素材までこだわっていました。
億万長者のオナシスと結婚してからこの浪費癖に
さらに拍車がかかります。
そんなジャクリーンはオナシスの連れ子と関係が
上手くいかず、大半の時間を旅行と買い物に費やしたとか。
雑誌を取り寄せるのに特別機をチャーターする。
ブティックに入ってもろくに見ず購入する等、普通では
考えられないような浪費家だったといいます。
そしてオナシスは死の直前にジャクリーンと
離婚を考えるようになります。
オナシスが死去した際ジャクリーンはそこに
立ち会うことはなく遠く離れたニューヨークで
暮らしていました。
遺産は数%しかもらえなかったジャクリーンですが
ニューヨークで編集者の仕事につき、静かに
この世を去りました。
ジャクリーンの亡骸はジョンFケネディの隣に葬られ
その隣にはジャクリーンの二人の子どもたち、アラベラと
パトリックも眠っています。
おわりに
ジャクリーンが卒業文集に書いたとされる「絶対普通の主婦になんかならない」という言葉の通り、波乱万丈な人生を送ってきたジャクリーンですが、色々と悲しみを抱えた末にお金をつかうことで鬱憤を晴らしていたのかと思えます。
最後はジョンFケネディの隣に葬られ、やっぱりジャクリーンはジョンFケネディのイメージが強いですが、彼女の着飾った美しい姿はその隣が1番しっくりくるなという印象がします。
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