豊臣秀吉の生い立ち~農民出身指6本で天下統一を叶えた性格と死因

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豊臣秀吉アイキャッチ

尾張の農民出身でありながらも、朝鮮出兵から
天下統一へと駆け上がる脅威の下克上で歴史に
その名を残す豊臣秀吉。

織田信長に仕え信長の死後は正統な後継者と
なった豊臣秀吉。

信長の意志を継ぎ天下統一を実現させたのが
この豊臣秀吉ですが、天下人となることが
出来た理由はいくつかあり、彼の戦い方の
残忍さも垣間見えてきます。

有名な指が6本あったとされる多指症の真相も
含め、豊臣秀吉の生い立ちを追ってみました。

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豊臣秀吉の生い立ち~最下層農民として

豊臣秀吉といえば農民出身ということが有名ですが
彼の出自については文献ごとにばらばらであり、本当の
真相は定かでは無いと言われています。

ここでは最も有名な豊臣秀吉の生涯を綴った
『太閤素生記』を元にしています。

豊臣秀吉は、尾張国愛知郡中村郷(現在の名古屋市中村区)
で、下層民の子として生まれたとされています。

父は弥右衛門(やえもん)といい、足軽または
農民と言われています。

母の名はなかといいます。

天文6年(1537年)2月6日に生まれた説が有力です。

かなり貧乏だったようで、秀吉も幼い頃から
薪割りを手伝いそれを売るような生活を
していました。

父の弥右衛門が戦で亡くなったのは秀吉が7歳の頃で
母のなかは竹阿弥(ちくあみ)と再婚します。

秀吉は竹阿弥と折り合いが悪くいつも
虐待されていました。

そして口減らしのためか秀吉は8歳の頃、光明寺という
寺に預けられました。

この寺での生活は秀吉には合わなかったようで
すぐ飛び出したといいます。

やんちゃで仏像を壊したという話も伝わっています。

その後、亡くなった父の遺産の一部をもらい
天文21年(1552年)に15歳で家を出ます。

針売などしながら放浪したといいます。

織田信長に仕官する前に、はじめは木下藤吉郎
名乗り、今川家家臣の飯尾氏の配下である頭陀寺
城主の松下之綱に仕えましたが、すぐに辞めます。

家を飛び出した2年後の、天文23年(1554年)
頃から織田信長の小者として仕えます。

秀吉は現在でも「人たらし」として有名ですが
信長の冷えた草履を懐で温めて、大層気に入られた
という逸話は有名です。

信長の元で、清洲城の普請奉行や、台所奉行などを
率先して引き受け大きな成果を挙げるなどして
織田家でその頭角を現していきます。

秀吉の名が現れた最初の確かな史料は、永禄8年(1565年)
11月2日付けの坪内利定宛て知行安堵状で、
「木下藤吉郎秀吉」としてして副署しています。

このことから、実際に苗字を名乗れるようになった
ことで秀吉が信長の有力部将の一人として認められた
ということがわかります。

この苗字は、最初に今川家で名乗った事から父から
受け継いだものと言われていますが、妻のねねの
姓とも言われています。

また、元亀元年(1570年)に信長が越前に侵攻した時
同盟の浅井長政に裏切られ、織田軍は絶体絶命の
ピンチに陥ります。

この時、撤退戦で秀吉はしんがり
(最後尾で死んでも仕方ないようなポジション)
を引き受けて、味方の軍を無事に京都まで
逃すのに成功します。

これが「金ヶ崎の退き口」と呼ばれる有名な戦いで
秀吉の大きな功績となります。
城

天正元年(1573年)、浅井氏が滅亡すると秀吉は
ついに長浜城の城主となり、この頃から「羽柴秀吉」
に改名しています。

豊臣秀吉の天下統一への野心と性格は残忍?

こうして信長に気に入られた秀吉は多くの
功績を残し、明智光秀に次いで織田家の
ナンバー2とも言える程の存在になります。

秀吉の場合は武功よりも、人たらしとして
有名な通りその人心掌握術で智略を発揮
したものが多いです。

織田信長はもちろん家臣や民も、農民出身で
優しさを持ち、愛嬌のある秀吉を嫌う者は
いませんでした。

そんな中、天正10年(1582年)に本能寺の変で
信長が亡くなりました。

信長の命で中国地区攻略の途中にそれを聞いた
秀吉は、戦闘中の毛利勢と和睦して大急ぎで
京都に行軍します。

すぐに主君の敵となった明智光秀を打ち取ります。

以後、織田信長の後継者を決める清州会議で柴田勝家と
対立し、戦いの末に勝利を収めた秀吉が織田信長の権力と
体制を引き継ぎ、天下統一への道を開きました。

織田の家臣団はほぼ秀吉の傘下になり、秀吉は
「豊臣秀吉」と名乗り天下統一を果たします。

関白という位を手に入れた頃には秀吉は
人が変わったとされます。

海の向こうへまで侵略を企てた「朝鮮出兵」では
討ち取った首ではなく耳や鼻を削いだものをわざわざ
塩漬けにして日本に送らせたこともあるそうです。

過去に毛利を攻めていた時には見せしめに女子どもを
磔にするなどして200人以上も処刑しています。

他にも、秀吉を裏切った織田信孝の母とその娘を殺す
自分の甥である豊臣秀次の切腹の際には正室・側室・子女
側近を皆殺しにしています。

明るく愛嬌があり民にも人気だった豊臣秀吉は表の顔で
実際は女だろうが子供だろうが関係なしに殺す恐ろしい
人物だったと言われています。

自身が仕えていた織田信長も、天下統一のため
気に入らないことがあれば切る といった残忍な
性格だったので、秀吉も時にはそういった手段も
必要だと学んだのかもしれません。

しかし、あまりにも残忍なやり方に呆れる人が
増えていきます。

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豊臣秀吉は多指症で指6本だった

豊臣秀吉といえば、多指症で指が6本あった
というのは有名ですが、これは根拠のある逸話です。

証拠となる文献はふたつあり、ひとつがポルトガル人の
宣教師ルイス・フロイスの「日本史」と、秀吉と旧知の
仲だった前田利家の「国祖遺言」で、どちらにも秀吉の
指が6本あると記されています。
指6本

ルイス・フロイスは織田信長が生きていた頃に、キリスト教
布教活動の為に来日していたポルトガル人ですが、その活動を
記録しており、そこに豊臣秀吉の外見や性格等が事細かに
書かれています。

「身長が低く、醜悪な容貌の持ち主で性格は最悪に尽きる。片手には六本の指があった」

と書いてあります。

前田利家の回想録「国祖遺言」には
「大閤様は右之手おやゆひ一ツ多六御座候」
と記されています。

信憑性は定かではありませんが、日常的に6本の指を
動かすことで脳の活動が促進され、秀吉の機転の効く
作戦などはこれから育まれたとも言われています。

豊臣秀吉の本当の死因とは

豊臣秀吉の死因は諸説紛々としてわからない
ままですが、一般的には病死とされています。

死因に関する資料は残されていないのですが
様々な説があります。

脚気説は、平安時代以降、京都の皇族や貴族など
上流階級ばかりに脚気が発生していることから
食べていたものによるとされます。

当時は白米は贅沢なもので、豊臣秀吉は白米だけ食べ
まともなおかずを食べなかったといいます。

これによりビタミンが欠乏し脚気になったとする説です。

晩年の秀吉は、下痢や腹痛などの症状があり短期間で
衰弱し、やせ細っていきました。無意識に失禁することも
あったそうです。

こういった症状から大腸がんという説が
1番有力視されています。

しかし、秀吉が亡くなった時に彼を見舞ったキリスト教
宣教師ロドリゲスが、当時の秀吉の状態を詳細に記述
しています。

「干からびていて、本当に人間なのかどうかわからない。まるで悪霊のようだ」

秀吉は62歳で亡くなっていますが、その痩けた姿から
梅毒ではないかとも言われています。

実際、秀吉は女性なら誰でもいいという程の女好きで
正室に側室、わかっているだけでも11人はいたといいます。

20人はいたとされていますが、とにかく手当たり次第に
女性に手を出したそうです。

その”女狩り”はなんと300人にも及ぶそうです。

性病が原因での死亡説もありえそうです。

また、毒殺説もあります。

これはキリスト教を信仰している前田利家が、秀吉のキリスト教
徒弾圧に腹を立てた事からヒ素を使ったのではないかというもの。

下痢や腹痛といった症状はこのヒ素を毎日少しずつ
飲ませることでも出るものです。

他にも痢病や合併症等があったと言われていますが
いずれにせよ、何も証拠は残っていないので確たる
死因は不明なままです。

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おわりに

乱世の中で、恵まれない生まれをものともせず、天下統一を果たした秀吉。非道な行為もありますが、魅力的な生き方をした人物です。「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 難波のことも 夢のまた夢」
秀吉の最後の句は、農民から天下人となった自身のはかない生涯を詠ったものでした。
本当に愛嬌のある優しい人物だったのか、それとも天下統一を前に強欲に変わってしまったのかわかりませんが、秀吉の行った刀狩は現在の日本の治安の基礎にもつながっています。


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