織田信長の生い立ち~うつけ者の幼少期と性格は冷酷評価の男の名言

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織田信長アイキャッチ

織田信長、日本の歴史において彼ほど
名を残した人物はいません。

「天下統一」という目標をかかげ、新しい時代を
作るために誰も持ち合わせていない天才的な発想で
戦国時代を塗り替えました。

本能寺の変で自害した後も織田信長の偉業は評価され続け
カリスマ性のある武将として現在もドラマや漫画、ゲーム
モンスト等様々な媒体で題材にされています。

そんな日本人なら誰でも知っている織田信長の
生い立ちや名言を調べてみました。

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織田信長の生い立ち~うつけ者と呼ばれた幼少期

天文3年(1534年)5月12日、尾張国の戦国大名
織田信秀の三男(次男とも言われています)
として誕生します。

幼名は吉法師(きっぽうし)。

織田家の後継者として育てられますが、幼少期から
奇抜な行動や挙動が多く「尾張国の大うつけ」
呼ばれます。

「うつけ」とは元々は「空っぽ」という意味ですが
ぼんやりとした人物や、常識はずれ、やんちゃな
人物を指す言葉です。

信長の旧臣である太田牛一の残した
「信長公記(しんちょうこうき)」にも
そのやんちゃっぷりが書かれています。

・入浴時に切る湯帷子(ゆかたびら)を普段着にして、袖は脱ぎっぱなし
・まげは毛先をツンツンにして、茶道で使う茶筅のような結い方で、しかも派手な色で巻く
・町中ではお供に寄りかかりながら歩き、柿や爪をかじる
・乳児の時は乳母の乳首を噛み切り、何人も交代させた
・身分を気にせず庶民と一緒に遊ぶ
・授業は真面目に聞かない、態度が悪い
・人のご飯を奪う
・父、信秀の葬儀にも奇妙な格好で現れ、焼香を位牌に投げつけて帰る

なかなか破天荒な事してますね。

本来大名の子は、貴族のように上品で
なければいけません。

母親の愛が弟に偏っていたことが原因で
グレたとも言われています。

また身分をきにせず庶民と一緒に幼少時から
遊んでいた事が後の豊臣秀吉を見出す要因でも
あったのかもしれません。

信長の初陣は天文16年(1547年)の事。

当時14歳です。

小競り合いとはいえ、相手の今川勢が兵3000に対し
信長の兵は800と明らかに不利でした。

信長の教育係である平手政秀をはじめ、同行した臣下は
皆反対しますが、信長は意見を聞きませんでした。

そして、風の強い日を選んで一気に攻め込み
火を放って勝利します。

この時から上に立つ資質があったと見られますが
うつけなのは変わらず……。

彼の教育係である平手政秀は、信長の非常識さ、奇行が
直らない事を諌める為、信長の父信秀が亡くなった1年後の
天文22年(1553年)に自害しました。

信長もさすがにこれに堪えたようで、この後から
徐々に天下統一へ向けて歩むことになります。

永禄3年(1560年)、信長は駿河国、遠江、三河の
3国(現在の愛知~静岡)を治めていた有力な戦国大名
である今川義元を討ち取ります。

信長が治めていたのは尾張(現在の愛知県西部)
だけなので、当時の大名や武将に大きな影響を
与えました。

桶狭間

この桶狭間の戦いでも、今川勢が25000~45000の
兵に対し、織田勢は多くて5000だったと言われます。

相手によって戦法を変えることで勝てると確信した
信長は、これを皮切りに本格的に天下を統一することを
目指します。

織田信長の冷酷と言われた人間性とは?

今でも語り継がれる最も有名な名言の一つ

「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」

後世で作られた信長の気性を表すこの句の通り
信長は思い通りにならない者、言うことの聞かない
者はすぐに殺す冷酷非道と恐れられていました。

有名なのは比叡山焼き討ちでしょう。

朝倉義景のいる越前領に攻め入った際、妹のお市を
嫁がせ、同盟関係を結んでいた浅井長政が裏切り
信長軍を攻めてきました。

袋のネズミとなった信長ですが、秀吉と家康の
おかげでどうにか逃げ切ります。

この裏切りをきっかけに、中立的立場だった寺社勢力が
反信長で立ち上がりました。

それが比叡山延暦寺でした。

信長は「比叡山を焼き討ちせよ」と命令し、女子供は
関係なしに僧侶や信者らを4000人程も殺したといいます。

「尋問して不審な者は殺害せよ」と容赦はありませんでした。

他にも信長の冷酷で残忍なエピソードは多いです。
城

信長が遠乗りに行き、今日は帰ってこないと思った
女中達が遊びに行くため城を空けるも、帰ってみると
信長は既に帰城しており、全員手討ちにした事も。

些細なことでも信長は絶対に怒らせてはいけない
存在でした。

家臣には特に厳しく、言うことを聞かない、約束や
規則と破る者がとにかく嫌いで、そういった人物が
いれば命は危なかったといいます。

いわゆる絶対君主としての立場を敷いていたのでしょう・・・

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織田信長の性格

一方で、身分にこだわることをせず、自分の
家臣にも“実力のある者”を起用したり、庶民とも
分け隔てなく付き合うという一面も。

農民の出である豊臣秀吉、荒くれ者だった前田利家
元々は裏切り者だった柴田勝家等、信長の家臣には
クセのある者も多かったです。

信長の右腕とも言われる明智光秀も、浪人として
職探しの為に諸国を放浪していた身です。

信長の家臣達は有能な人物が多く、信長がのし上がったのは
この実力主義者という性格もあるでしょう。

また、プライベートでは心優しい人物だったとされます。

有名な逸話に、秀吉の女癖が悪く夫婦喧嘩をして
妻のねねが信長に相談した際、信長はねねに慰めの
手紙を、秀吉には嫁は大切にしろと手紙を書いた
というものがあります。

体を壊した家臣にも手紙を送ったりと、マメで面倒見のいい
性格だったことがうかがえます。

この他にも、祭で庶民と共に踊ったり、安土城の内部を
身分問わず公開したり、相撲が好きで優勝した力士は
どんな家柄であろうが家臣として迎え入れたという
話もあります。

仕事では厳しかった信長ですが、民に対する心配りは
いつも大切にしていました。

織田信長の残した名言がカッコいい!

「絶対は、絶対にない」

どんな事柄にも、この世に絶対的なものは無い
絶対に不可能なこともない、という意味です。

「人、城を頼らば、城、人を捨せん」

城が人を守るのではなく、人が城を守るということ。

「臆病者の目には、敵は常に大軍に見える」

うつけと言われようと、家臣に何度も裏切られても
屈することはなかった信長の強さがわかる名言です。

「理想を持ち、信念に生きよ」

この格言は「理想や信念を見失った者は、戦う前から負けていると言えよう。そのような者は廃人と同じだ」

と続きます。

自分の理想の世界を具体的にイメージし、着実に
実行する気持ちを持ち続けようという意味合いが
あります。

「仕事は探してやるものだ。自分が創り出すものだ。与えられた仕事だけをやるのは雑兵だ」

「人は心と気を働かすことをもって良しとするものだ。用を言いつけられなかったからといって、そのまま退出するようでは役に立たない。その点、お前は塵に気付いて拾った。なかなか感心である」

これらは現代社会にも通ずる名言です。

信長は明らかに上に立つような人物だとわかります。

「必死に生きてこそ、その生涯は光を放つ」

信長は、本能寺の変にて自害するまで
必死に生き続けました。

生涯はそこで幕を閉じてしまいましたが、意志は
受け継がれ天下統一を成し遂げることができました。

日本一の武将として現在も語り継がれています。

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おわりに

彼の生き様は大胆不敵で、誰にも真似のできないものでしょう。うつけと呼ばれていた時期でさえも、もしかしたらそう演じていたのでは~と思わせるほどです。世間のイメージでは、冷酷非道で何でも切り捨てるイメージですが、実際はそれだけではなく庶民に寄り添っていたのも人気の理由かと思います。残した名言は現代にも通ずるものがあり、日常生活でも心に留め生かしていきたいものです。織田信長の時代から500年経た今でも取り上げられ、日本一の戦国武将として語り継がれています。


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