明智光秀の生い立ち~本能寺の変の真実とその後の半生に死因の謎

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明智光秀アイキャッチ

織田信長家臣の中で最も従順で随一の
武功を誇った明智光秀。

本能寺の変での反逆で「裏切り者」の
イメージも強い武将ですが、その真相は
今も謎に包まれています。

真面目で慎重派、優しい人物とされていて
主である織田信長を慕っていた明智光秀が
何故本能寺の変を起こしたのか?

その後も実は生き残っていたとされる説等を
生い立ちから調べてみました。

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明智光秀の生い立ち~

明智光秀の出自は諸説あり、清和源氏の
土岐氏支流である明智氏に生まれ、父は
江戸時代の諸系図などでは明智光綱、明智光国
明智光隆、明智頼明などと言われています。

他に、父親の名前も伝わらない低い身分の
土岐支流とも言われており、明智頼明の猶子
だったとも伝わっています。

『明智軍記』『細川家文書』によると、享禄元年(1528年)
生まれとされていますが、『細川家記』の大永6年(1526年)説『当代記』の付記による永正13年(1516年)説、天文9年
(1540年)説等があります。

生地は岐阜県可児市明智の明智城が
有力とされています。

青年期の履歴は不明な点が多い光秀ですが、若い頃は
美濃の国主である斎藤道三に仕えていたと言われています。

しかし、斎藤道三が息子との争いに負け、斎藤道三側
だった光秀は一家離散となり浪人になってしまいます。

その後、越前の朝倉義景に10年ほど仕えます。

後の15代将軍足利義昭が、朝倉義景には天下を取る
器量も野心もないと見切りをつけ、明智光秀を引き連れ
勢いに乗っている織田信長の元へ行きます。

明智光秀が織田家に士官した頃には40歳を
超えていたとのこと。

織田信長、足利義昭の両者に仕える立場となり
特殊な環境に身をおくことに。

光秀は、荒々しい織田家の家臣の中でも和歌や
茶の湯を好んだ文化人で、朝廷との交渉役として
信長を支え、公家との連歌会等に積極的に参加
していました。

また、鉄砲などの最新技術にも長けており、信長に
仕えてから2年わずかで、織田家に古くからいる家臣と
同等の扱いを受けており、光秀は頭が良くて品のある
優秀な家臣だとわかります。

京都の政務も任されるようになり、信長にとって
重要な家臣となりました。

元亀元年(1570年)に起きた金ヶ崎の戦いでは厳しい
撤退戦で殿(しんがり)役を務め、これを成功させ、軍の
指揮においても抜群の才能があることを実証。

翌年、織田信長が比叡山延暦寺焼き討ちを行い、光秀は
実行部隊として武功をあげます。

この功績で信長から比叡山延暦寺の遺領を与えられ
織田家家臣の中で初めて居城の築城も許されます。

そして、琵琶湖の近くに坂本城を建てます。
城

坂本城と安土城の距離は近く、光秀が外からやってきた
人物にも関わらず、本拠地安土城付近に大領を与えて
いることから、信長にとって、もっとも信頼できる重要な
家臣だというのがわかります。

同じ頃、将軍となった足利義昭と信長の関係が悪化し
光秀はここで信長に従います。

信長と、光秀の主従関係は非常に濃くなり、信長は
さらに重用するようになっていきます。

以降、天正5年(1577年)には丹波方面を攻めるよう
指示され攻略し、丹波国29万石を与えられます。

織田家一の家臣として活躍し続けますが、天正10年
(1582年)6月2日、有名な本能寺の変で信長を死に
追いやります。

本来なら秀吉の支援の為、中国地方に行くはずでしたが
途中で軍を引き返し信長が宿にしていた本能寺に火を
放ち襲います。

信長は業火の中で自害し、京都を押さえた光秀が
天下と取る形になりました。

これに激怒した秀吉軍は急いで引き返し、6月13日
明智光秀と対峙することに。

光秀軍が1万6千に対し、秀吉軍は4万と大きな差が
あったものの、光秀の部下はこれを迎え撃ちます。

結果負けてしまい、光秀は体制を立て直すために坂本城
安土城を目指します。

しかしその途中で、落ち武者狩りをしていた百姓に
脇腹を刺されて致命傷を負います。

そして、ここで自害してしまい、その生涯を終えます。

明智光秀の本能寺の変の真実

本能寺の変の最大の疑問点は、何故明智光秀は
主君の織田信長を討ち取ったのかというところです。

明智光秀の一途で誰よりも織田信長に従順だった
姿勢からはなかなか理解できないものがあり、現在でも
日本史上最大のミステリーとして、本能寺の変を
題材にしたドラマや映画、小説等が多くあります。

当時中国地方を治めていた毛利軍を打ち取るために
秀吉軍が中国地方に出ていました。

織田信長はこの後を追って、本能寺の変の2日前に
京都の本能寺に滞在していました。

光秀もまた、秀吉と合流するために大軍を引き連れ
後を追っていました。

ここで突然反旗を翻して本能寺へ向かい、主君
信長を追い詰めています。

流れが急展開すぎて違和感しか感じません。

古くから言われているのは、信長に対する怨恨説です。

・織田が波多野氏を攻めた際、光秀は母を人質として送り降伏すれば命を助けると約束したのにもかかわらず、信長は波多野一族の処刑を命じ光秀の母はなぶり殺しにされる

・徳川家康が安土城に来た際、接待役の光秀にミスがあり、信長が大勢の前で罵倒

・武田家を討ち取った際、祝宴の席で光秀が「これでわしらも骨を折ったかいがあった」と口にしたところ、信長が光秀をなじり、頭を欄干に押し付けて折檻した

・ まだ敵地だった出雲国・伯耆国もしくは石見国に国替えを命ぜられた

・ルイス・フロイスの日本史には「変数ヶ月前に光秀が何か言うと信長が大きな声を上げて、光秀はすぐ部屋を出て帰る、という諍いがあった」という記述があった

こういった内容から一般的には信長にへの怨恨説が
本能寺の変の原因と言われています。

他にも、後に光秀を殺し天下を取った豊臣秀吉が
黒幕とする説や、光秀自身が天下を狙っていたと
する野望説、信長の暴走を止めて世直しのためと
する説、様々な憶測がされています。

本能寺の変

そんな中、ひとつの説が出てきました。

明智光秀の子孫である明智憲三郎氏はそれまで
語られていた通説に疑問を抱いていて、50年間
真実を知るために明智光秀について調査をしたといいます。

明智憲三郎氏によると、これまでの説は真実ではなく
秀吉から始まり、江戸時代にも様々な作家に作られた
創作であるというもの。

「信長は、徳川家康を本能寺に呼び寄せ、光秀に討ち取らせるつもりだった。ところが、この計画を聞いた光秀は、ゆくゆくは明智一族も滅ぼされると思い、家康と織田家打倒を決意。家康との談合の末に、信長と息子の信忠の間隙を縫って決起したのが本能寺の変だったんです。
現代でこそ、信長が家康を討つなどありえないと驚く話であり、研究者の中にも『あの時点では討つわけがない』と決めつける方もいますが、(信長が重用した)光秀の兵たちにとって『家康討ち』は常識であったとうかがえる資料が複数あります」

明智光秀は徳川家康に信長からの命令を
バラして、先手を打ったという説です。

しかしながら、明智光秀に関する文献は少なく
結局は何が真実かはわかっていません。

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明智光秀の本能寺のその後

本能寺の変の後、山崎の戦いで豊臣秀吉(羽柴秀吉)が
明智光秀を討った約2週間後、清洲城で後継者や
領土分配の会議が開かれました。

織田家の後継者は秀吉の主張で「三法師」となり
その後見人は織田信長の三男、織田信孝に決まります。

信長のいなくなった織田家の領地は、それぞれの
武将で分割されました。

この領土分配の過程で、秀吉と信長の父の代から
仕えていた柴田勝家が対立しはじめます。

本能寺の変から1年後には柴田勝家は妻であり
信長の妹であるお市と共に自害、信長の三男の
織田信孝も自害し、秀吉が織田家家臣の頂点に
立ちました。

この後も、信長の次男、織田信雄と徳川家康の
「織田徳川連合軍」にも勝利し、織田政権は
豊臣政権へと変わっていきました。

この長く続いた戦いの中、明智光秀がとった天下は
たったの13日と短く、現在でもわずかの期間しか
地位や権力を保持できないことを「三日天下」
という言葉で例えられています。

明智光秀の死因の謎

明智光秀は山崎の戦いで負けた後、土民に
討たれて自害したという誰もが知っている
歴史とはまた別の異説も存在しています。

「明智光秀は山崎の戦いで死なず、その後も生きていた」

という説です。

ひっそりと生きていたというものではなく
徳川家の重臣として生きていたというものです。

徳川幕府の重臣が身元がはっきりした人物
ばかりな中で、1人だけ身元がよくわからない
人物がいます。

その人物の名は南光坊天海。

この天海は出自も明らかになっておらず、光秀の
活躍した時代や筆跡が酷似
していることから
この説が生まれました。

最後

天海は、なぜか初対面の時から家康とやたら
親しかったとも記録されており、もし彼が光秀
だとしたら初対面の段階で仲がよくても
おかしくないのです。

日光にある明智平という場所もこの天海
が名付けたもの。

光秀の中途半端な最期、その首を秀吉が検分
しても誰の首か判明しなかったことも加え
この説に信憑性をもたらしています。

しかし、この説がもし本当で明智光秀と
南光坊天海が同一人物だとすれば115歳で
亡くなったということになります。

絶対にありえないとは言い切れませんが
明智光秀と徳川家の奇妙なつながりは
偶然とは思えません。

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おわりに

まさしくミステリーとも言える明智光秀の生涯。もし明智光秀が天海だとしたら色々妄想を掻き立てられますね。
三日天下のイメージであまりいい印象ではない明智光秀ですが、天下統一の一歩手前の最強の戦国大名織田信長を唯一出し抜いた存在というもの大きいです。真相はわからないままですが、とても興味深い人物の生い立ちから生涯でもありました。戦国時代のロマンと苛酷な下克上を垣間見た気分ですね。


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