徳川家康の生い立ち~正室と側室に子供の数に驚愕!性格や名言も

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織田信長、豊臣秀吉と並べられる「三英傑」
のひとりである徳川家康。

幼少の頃は今川家の人質でありながら、最終的に
天下統一を成し遂げ、江戸幕府を創設した人物です。

およそ300年と長く平和な世を作り、江戸時代の
基礎を築き上げました。

ですが、この功績をもってしても、家康の事を
嫌いな人は多いのではないでしょうか?

今回はそんな徳川家康の生涯を生い立ちと
人物像との最後までを追ってみます。

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徳川家康の生い立ち~人質として

天文11年(1543年)、現在の愛知県にある
岡崎城で誕生します。

幼名は竹千代と(たけちよ)いいます。

父は、岡崎城主の松平広忠。

母は、水野家当主の水野忠政の娘・於大の方。

水野忠政の没後、於大の兄が織田と同盟を組んだ為
今川氏の援助を受けていた父の松平広忠は於大と
離縁します。

わずか3歳で母親と生き別れになります。

松平家は、織田、今川らの強豪大名に囲まれた
弱小大名でした。

天文16年(1547年)、父が織田家に対抗すべく
今川に更なる援軍を求めた際、忠誠を示すために
竹千代は6歳にして今川氏への人質として駿府へ
送られます。

しかし、駿府への護送の途中で立ち寄った田原城で
義母の父・戸田康光の裏切りで竹千代は横取りされる
形となり、尾張の織田信秀へと送られました。

竹千代は、2年間尾張国熱田の加藤順盛の
屋敷で育てられます。

この頃に織田信長と遊んでいたとも言われていますが
定かではありません。

天文18年(1549年)、父の広忠が家臣の
岩松八弥に裏切られ殺されます。

今川は、当主のいなくなった松平家を支配下に置き
織田信秀の庶長子・織田信広との人質交換によって
そのための道具である竹千代を取り戻します。

竹千代は駿府に移され、今川氏から派遣された
城代に支配されます。

この時今川義元は、
「今後、竹千代にはできるだけ惨い(むごい)仕打ちを加えよ」

と家臣に命令。

幼い子供に惨い仕打ちとは一体どういったものなのか
わからなかった家臣が義元に尋ねると、

「竹千代には朝から晩までうまいものをたべさせろ。決してひもじい思いをさせてはならない。冬は寒くないように暖かくしてやり、夏は暑くないように涼しくして、何不自由なく過ごさせてやれ。ほしい物を何でも与えよ。願いは必ず聞いてやれ」

と答えました。

義元はこうすることで、子供の頃から自分に従順で
将来は絶対に逆らえないような弱い男にしようと
企みました。

つまるところ骨抜きのうつけ者に育てようと目論だ
のでしょう・・・

現在の人質のイメージとはまったく違いますが、当時の
人質といえばこういった内容は多く、人質はむしろ
丁寧に扱われることが多かったのです。

竹千代の場合は、今川義元の明確な狙いがあるので
少々違いますが、竹千代はここでわがまま放題な
日々を過ごします。

また、今川に身を寄せていた祖母の於富の方が、義元に
竹千代の面倒を見たいと申し出て、竹千代は祖母の教育を
受けて育ちました。

この他にも現在で言うところの家庭教師がおり
様々な学問を身につけました。

駄々をこねてどこでも鷹狩をしたがったり、多くの
遊び相手がいて何不自由なく過ごしてきました。

天文24年(1555年)、13歳で元服した時に「元」
の字をもらい「次郎三郎元信」と名乗り、天文26年
(1557年)には義元の姪・築山殿を娶ります。

さらに名を、祖父・松平清康の偏諱をもらい
「蔵人佐元康」と改めています。

初陣は永禄元年(1558年)、今川氏から織田氏に通じた
加茂郡寺部城主・鈴木重辰を攻めました。

城下を焼いて引き揚げ、附近の広瀬・挙母・梅坪
伊保も攻めました。

この戦功により、義元は山中300貫文の地を返付し
腰刀を贈りました。

この後、永禄3年(1560年)の「桶狭間の戦い」
で転機が訪れます。

京都を目指していた今川義元が、織田信長の
強襲に遭い戦死してしまいます。

元康(徳川家康)の軍は、義元の戦死の報告を受けて
岡崎城へ入城し、独立を決意します。

城
今川家は、後継ぎの今川氏真がまだ育っておらず大混乱。

その隙をついた元康はようやく今川家から独立します。

岡崎城を取り戻した元康は、永禄5年(1562年)に
今川を捨て織田信長と同名を結び、後に「徳川家康」
と名を改めます。

今川義元の元、長く人質として暮らし、忍耐強くなった
徳川家康はこの後もひたすら忍耐強く務めを果たし
最終的に天下を統一します。

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徳川家康の正室と側室の多さと子供の数に驚愕

徳川家康には、11人の息子と5人の娘がおり
かなり子だくさんということで知られています。

正室、側室も記録に残っていてわかるものだけでも
およそ20人もいました。

最初の結婚相手は築山殿(瀬名姫)で、結婚したのは
天文26年(1557年) 、15歳の時のことです。

瀬名姫は、当時の家康よりも身分が高く
不釣り合いなものでした。

妻
瀬名姫との間に長男・松平信康と、長女・亀姫
もうけていますが、織田家の敵である今川家の
関係者であることから信長に疑われ、家康に瀬名姫と
信康を殺すように命令されます。

織田との関係を維持したい家康は、瀬名姫と信康を
殺すことを決意し、ふたりは死んでしまいます。

家族の愛を知らなかったが故にすぐに
殺害することができたとも言われています。

後の正室は、豊臣秀吉の異父妹とされる駿河御前
(朝日姫)で、天正14年(1586年)に結婚しています。

つまり、家康と秀吉は義兄弟となります。

朝日姫との間に子はいませんが、家康の子の多くは
側室の女性から生まれていました。

わかっている側室の人数は史書の記録では
19人と言われています。

そのうち、子を産んだのは以下の通りです。

築山殿(瀬名姫) → 長男・松平信康、長女・亀姫
長勝院(於万の方)→ 次男・結城秀康
西郡局(西郡の方)→次女・督姫
西郷局(お愛の方)→三男・徳川秀忠、四男・松平忠吉
良雲院(お竹の方)→三女・振姫
下山殿(於都摩) →五男・松平信吉(武田信吉)
茶阿局(久)   →六男・松平忠輝、七男・松平松千代、四女・松姫
相応院(お亀の方)→八男・松平仙千代、九男・徳川義直
養珠院(お万の方)→十男・徳川頼宣、十一男・徳川頼房
英勝院(お梶の方)→五女・市姫

家康の息子の中で有名なのは9男の徳川義直
10男の徳川頼宣、11男の徳川頼房
です。

いわゆる「徳川御三家」と呼ばれる
家系の初代にあたる人物です。

この子孫の数には驚きますが、後の徳川幕府が
260年以上も続いたひとつの要因とも言えそうです。

徳川家康の性格

よく語られるのは「我慢強い」というものです。

徳川家康を表す川柳

「鳴かぬなら鳴くまで待とうほととぎす」

のとおりです。

人質としての長過ぎる時代、信長と同盟し
めちゃくちゃな要求も従い、信長の死後は
秀吉との対立関係……

というような、なかなか自身にチャンスが
巡ってこなかったことからこう言われています。

実は短気で怒りっぽかったのも有名。

事あるごとに「切腹」「討ち死に」などと
口にして家臣から慌てて止められるほど。

イライラしすぎて爪や扇子をかじり
血がでるほどだったといいます。

関ヶ原の戦いで、前もって寝返るように話していた
小早川秀秋がなかなかこちら側へ来ないことで怒って
小早川秀秋に向けて鉄砲を撃ったという逸話があります。

また、健康に特に気を遣っており、薬の
知識もかなりのものでした。

少しの病気なら自分で薬を調合し服用していました。

見たこともない草木があるとすぐに侍医に調べさせ
薬の知識は医師よりも豊富だったとされています。

ご飯は質素なものを好み、麦飯と焼き魚、煮物などを
好み、食べすぎることもしませんでした。

超倹約家とも言われています。

着物はあまり新調せず汚れても目立たない黄色いものを
着たり、奥女中に漬物が塩辛いと苦情を受けた際は

「女中のおかわりを制限するため」と返答。

家臣に大国を与えないということでも知られています。

その他、非常に多趣味としても知られています。

鷹狩、囲碁、将棋、香、能楽、読書などを
好んでいたようです。

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徳川家康の名言とは

名言

「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくが如し いそぐべからず、不自由を常とおもへば不足なし,こころに望みおこらば困窮したる時を思ひ出すべし,堪忍は無事長久の基 いかりは敵とおもへ、勝事ばかり知りてまくることしらざれば害其身にいたる,おのれを責ても人をせむるな,及ばざるは過たるよりまされり」

徳川家康の遺訓です。

徳川家康が残した名言の中で、最も
知られているのがこの遺訓です。

人生とは重い荷物を背負い、遠い道を行くようなもの。

急いではいけない。

不自由が当たり前と思えば、不満は感じない。

心に欲が生まれたら苦しかった時代を思い出すことだ。

我慢することは無事に長く過ごせる基本であり、「怒り」
はそれを台無しにするから気をつけないといけない。

勝つことばかりで負けを知らないでいると、逆境に
なった時に乗り越えられない。

負けることも大切。

何事も人のせいにせず、自分が反省しないといけない。

やり過ぎるよりは、やり過ぎない方がいい。

過ぎることは過ちとなってしまうのです。

この言葉は、家康自身が書いたのではなく、家康なら
こう書くのではないか、と 水戸のご老公、徳川光圀の
遺訓といわれる「人の戒め」をもとにして作られたもの
といいます。

幕臣の池田松之助という人物が家康の
遺訓としたと言われています。

家康の人生そのものが書かれたもので
とても印象的です。

「上を見るな、身の程を知れ」

徳川家康が

「天下を取った秘訣を教えてほしい」

と聞かれた際に答えた言葉。

上を見るより、現状の自分を知り、確実に
一歩ずつ進めていく といった意味です。

「天下は天下之人の天下にして我一人の天下と思ふべからず」

天下は、天下にいる人々の天下であり、自分
ひとりの天下だとは思ってはいけない。

といった意味です。

おわりに

名言から読み取れる人物像は、まさしく天下統一を果たすべく人物だったのではないかと思います。
織田信長や、豊臣秀吉に比べ「天下統一を横取りした」と叩かれがちです。
ですが、徳川家康は「天下」を3人の中でも広い範囲を見ていて、その後260年以上に渡って平和な世を築いています。
家康がいなければ今の日本はなかったのではないでしょうか?
もう少し評価が高くてもいい武将だと思います。


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